40.一人の夜
“閣下がいてくれれば平気”
“落ち着くためにも閣下の側にいさせてもらおう”
そう思ったのに、翌日目が覚めると、閣下の姿は既に部屋になかった。
聞けば、かなり早い時間にお屋敷を出たのだという。所用で今日は一日お屋敷には帰らないんだって。
私はがっくりと肩を落とした。あまりの落ち込みように、鳥の巣頭さんにまた心配を掛けてしまった。
でも一応、セイレア様に会えるかどうかは聞いてみた。扉の前を行ったり来たりしたり、昨日のセイレア様の様子を連想してもらえるようにソファの上で倒れて見せたりしたら、鳥の巣頭さんは理解してくれた。
でも結果はやっぱり、――不可。
朝から寝台に臥せっているようだし、心労を増やすわけにいかないから出会って間もない私が行くのは控えた方がいい、って……。
寝台に臥せっていると聞いて、胸が痛んだ。
許可は下りないかもしれないとは思っていたけれど、実際に様子を見にも行ってあげられないことはとても辛かった。セイレア様が体調を崩したときに側にいてあげるのは、いつも私の役目だったのに。そして原因は私の浅慮な行動の所為なのに……。
初めて朝から閣下の姿が見られないことも相俟って、気分が沈む一方だった。
鳥の巣頭さんが珍しく何度か様子を見に来てくれて、これ以上心配をかけちゃ駄目だと思って、一生懸命元気な振りをした。なんとなく、鳥の巣頭さんはそんな私の行動も見抜いていて、逆に気を遣っていつも通りからかい混じりの冗談を言ったりしてくれていたみたい。私って駄目だなあ……。
またしても落ち込んで、正に負の連鎖、という感じだった。
一日中そわそわうろうろして、落ち着かなかった。
いつもは執務室を覗けば閣下が静かにお仕事をしているから、何度も執務室に行ったりもした。でもこれは逆効果で、がらんとした執務室を見てやっぱり閣下はいないんだと実感する。
お客様がいらっしゃってからは一緒にいる時間が極端に減ったけれど、朝は必ず一緒に起きていたし、お仕事をしているときも側においてくれた。なのに今日は本当に閣下の姿が見えなくて、時間の経過が嘘みたいに遅かった。
それでも、時間って進むんだね。
じりじりと一日を過ごして、やっとあたりが薄闇に包まれていった。
日が沈むと、鳥の巣頭さんが夕ご飯を持って来てくれた。
「ほらセレスタ、ご飯だ。昼間はあまり食が進んでいないようだったけど、閣下じゃないんだからちゃんと食べるように」
「キュウ」
笑いながらそう言う鳥の巣頭さんに感謝しつつ、確かに閣下にお説教した(つもり)手前、残すわけにもいかなくて、食欲は無いけど頑張ってミルクは全部飲んだ。鳥の巣頭さんは『よしよし、アハハハハ』なんて満足そうに笑いながら私の様子を見ていた。
「そうだ、セレスタ」
「……キュ?」
何か思いついたような鳥の巣頭さんに、顔を上げた。顔にミルクがついていたみたいで、またしても軽快に笑いながら顔を拭かれる。……鳥の巣頭さん、わざと関係ないところまで拭いたでしょう……。頭にはどうやってもミルクは付かないと思うよ。
「明日にならないと閣下は戻らないし、夜は昼間よりも寂しいだろう? いつも一緒に寝ていたみたいだし」
「……キュウ……」
「人恋しいなら、俺の部屋に来るかい?」
――え……。
鳥の巣頭さんのお部屋は、何かあったら直ぐに駆けつけられるように閣下のお部屋の近くにあるのは知ってる。でも、そこに入ったことは一度もない。……普段は閣下が離してくれないし。
私は珍しい提案に一瞬迷ったけれど、閣下のいない部屋で一人眠るのが嫌で、小さく頷いた。
「そう? じゃあ、もう少し仕事が残っているけど、先に部屋に行っているかい?」
「キュウ」
返事をしたら、鳥の巣頭さんに柔らかく抱き上げられた。苦しくないのはいいことなのに、ちょっとだけ物足りなく感じてしまう自分に慌てた。ど、毒されてる……のかな?
鳥の巣頭さんのお部屋ってどんなだろう。無理に意識を逸らしながら考える。そしたら何だか今度は緊張してきてしまった。これじゃあやっぱり眠れないかも。そう思ったけれど、でもいつもと違うことをすれば、閣下のいない不安は紛れると思った。
鳥の巣頭さんが私を片手に抱いて、給仕カートをもう片方の手で押していく。カートをいったん手放して、扉を開いてからまた押して出ようとしたときだった。
――バシィッ!
「うん?」
「キュウッ!!」
何故か私だけ何かに弾かれるようにして、扉を通ることができなかった。思いもよらないことに、鳥の巣頭さんも対応できず、しかもカートを押している所為で私を支えていたのは片手だったから、私は思い切り落下した。べしゃっ、って……。
――セイレア様のときより痛い……。
しかも、セイレア様と同じで、鳥の巣頭さんが全然悪いと思っていなさそうなのが……。『うん?』って……。二人とも、私を何だと思っているのかな?
何だか悲しくなって、床の上でべしゃりと潰れたように突っ付したまま起き上がらずにいると、鳥の巣頭さんが何か思案するような感じで言った。
「うーん、これって、たぶん閣下の仕業だね」
――閣下の……?
「君が連れ出されないように、何か魔法をかけてたみたいだ」
――ぇえ!?
「俺もまさか主の部屋で寝るわけにもいかないし、残念だけど、今日は我慢して一人で寝るしかないね。アハハハハ!」
鳥の巣頭さんは何が面白いのか、すごく楽しそうに笑ってる。……もう、さっきまでは心配してくれていたのに。
閣下もどうしてそこまでするのかなあ、なんて思いながら、仕方なく鳥の巣頭さんを見送った。
◆◆◆◆◆
珍しく雨の降る夜だった。
おかしな魔法で部屋に閉じ込められている私。寝台に一人で登れないかと思ったら、閣下が踏み台を用意していってくれたみたい。……どうしてそこまでして外出禁止かわからないよ、閣下……。
ぱらぱらと窓の外で雨の音がする。私はそれに耳を傾けながら、寝台の上でうつらうつらとしていた。
やっぱり閣下の温もりがない夜は落ち着かなくて、眠いのに、暫くするとハッと目が覚めるということを繰り返していた。お腹の下に温もりがなくて、寒い気さえする。温暖な季節だというのに。
それでもお昼寝すらままならなかった所為か、いつの間にか私は眠りに就いていた。
次に目が覚めたとき、外は群青に染まっていて、朝はまだ来ていないのだとわかった。
夜中に目が覚めることなんて、閣下に拾われてから初めてのことだ。やっぱり落ち着かない。
もう一度眠る気にもなれなくて、私はゆっくりと身体を起こした。
腕を伸ばして、顔に掛かった紅い髪を払う。ふわふわと目に掛かってきて邪魔で……
――紅い、髪……?
視界に映ったものに、愕然とした。
白い指先に絡む、真っ赤な髪の毛。
久しく見ていなかった色。
――な、何……?
慌てて身体を確認する。……裸だった。
でも確かにそれは、魔獣の小さな毛むくじゃらの、ぽってりとしたお腹じゃなく、毛のない滑らかな人の肌で。
――……夢……?
半信半疑で、全身を隈なく触った。でもどこもかしこも人のそれで、懐かしい、ファラティアの身体の感覚。
有り得ない。
どうして突然。
呆然とそう思う。頭が真っ白だった。
上手く状況を飲みこめなくて、ふらりと寝台から降りると引き寄せられるように窓辺へ寄った。閣下がいなくて寂しいから付けっぱなしにしておいてもらった小さな明かりに反射し、硝子に一人の女の子が映りこむ。
――嘘……。本当に、ファラティアだ……。
夢の中みたいに、頭が上手く働かない。
目の前にファラティアの姿があって、手も足も全て人のそれだとわかるのに、幻だと思えてならない。
ううん、きっと夢だ。だって、こんな突然、戻れるはずがないもの。こんなにあっさり戻れるなら、私の今までの苦悩はどうなってしまうの……?
ああそうだ、精霊さんが幻を見せてくれているのかも。実は私がもう戻れないことは決まっていて、だから最後に一度だけ、ファラティアの姿を見せてくれたのかもしれない――。
どれくらいかもわからない間、頭に駆け巡る色々な思いを消化できずに窓辺に立ち尽くしていた。
硝子に飛ぶ雨の飛沫と、そこに薄っすらと映る、緩く弧を描く紅い髪と白い肌。自分が裸であることを気にする余裕もなく、ひたすらにその姿に見入っていた。
――ガチャリ……
硝子窓の前から動けずにいる私の耳に扉を開く小さな音が聞こえたのは、辺りが薄っすらと白み始めてきた頃だった――。
まさかのフライング。
扉を開けたのは……?