39.迷い
動揺しているためちょっと暗いです。
セイレア様は真っ青な顔をして、ふらりとソファに倒れこんでしまった。
私は自分がしてしまったことに愕然としていて、ただセイレア様の血の気の引いた顔を隣で見ているしかなかった。
何て配慮が足りなかったんだろう。自分に気づいてもらうことが最優先で、セイレア様の精神状態にまで考えが及ばなかった。
飾り袋を見せればそれだけで直ぐにファラティアを思い浮かべてくれると思った。そして、あとは私が魔獣の姿で人の言葉を理解していることに気づいてもらえれば、セイレア様なら導き出してくれると思っていたんだ。――私がファラティアだ、ってことを。そうでなくても、ファラティアとの関係を疑ってくれると思っていた。
――まさか、死んだと思ってしまうなんて……。
セイレア様が冷静に飾り袋を見ることが出来たなら、あるいはこんなことにはならなかったかもしれない。でもそうじゃなかった。間違えたのは私の責任だ。昨日からのセイレア様の様子を見ていれば、気づけたことだったのに。
ただファラティアが今もここで生きているという事実を誰かに知って欲しくて、生きているのに死んだと思われるのが嫌で、先を急いでしまった。
気づいてさえもらえれば、もし戻る方法が見つからなくても頑張れる、そう思ったのは嘘じゃない。だけど、心のどこかでセイレア様が気づいてくれれば、今の状態をセイレア様が何とかしてくれるんじゃないかと思っていたんだと思う。だから急いでしまったのかも……。そういう打算的な部分が、全くなかったとは、言えなかった。
奥様のことに加え、ファラティアのことで苦しむセイレア様の心を軽くして差し上げようと思ったのも事実だ。だけど、今の不安定な精神を落ち着かせてあげるには、飾り袋を見せることは意味がなかったと、逆効果だったのだと、痛感した。
それからは、あっという間だった。
呆然としている間に、まだ約束の時間は経過していないにもかかわらず、気づけばセイレア様の部屋から連れ出され、鳥の巣頭さんによって閣下の部屋に戻された。
軽食を持って戻ってきた侍女長さんが小さく震えるセイレア様の様子を見て、慌てて対処したんだと思う。閣下のお部屋に使用人さんは近づかないから、私を送るために鳥の巣頭さんに連絡がいったようだった。
鳥の巣頭さんは本当に忙しかったみたいで、私を閣下の部屋まで連れてくると入り口付近で床に降ろし、そのままどこかへ行ってしまった。何か声を掛けてくれたと思うけれど、余裕のなかった私はあまり覚えていない。
私は連れて来られたときのまま、閣下が帰って来るまで同じ場所に座り込んでいた。
◆◆◆◆◆
「……どうした」
高い位置から閣下の声が降って来て、私はハッと顔を上げた。胸にことりと落ちるような、落ち着いた、安心する声。ちょっとだけ泣きたくなる。だけど私はぐっと堪えた。
室内はいつの間にか魔法光の明かりで満たされている。気づかないうちに夜になっていたみたいだ。
「……何かあったか」
「……。キュ?」
閣下が私を抱き上げながら言う。私は咄嗟に首を傾げてみせた。何のこと?って言うみたいに。
だって、閣下にはもう心配をかけるわけにはいかない。そう自分で心に誓ったはずだもの。
鳥の巣頭さんには、セイレア様に会った直後だったからもしかしたら異変に気づかれてしまったかもしれないけれど、せめて閣下には……。
だから私は何も無かった振りをすることにした。
「キュウ!」
「…………」
できるだけ元気に見えるように声を掛けて、お帰りなさいの意味を込めて閣下の胸元に頭を寄せる。閣下は黙っていつものようにちょっと強めに頭を撫でてくれた。……上手く誤魔化せたかなあ?
その日は閣下のお腹の上じゃなく、横にずれて閣下に背中を押し付けるようにして、丸くなって眠ることにした。ちょうど脇の下の間にすっぽりと納まる感じで。閣下はそんな私の行動に何を言うわけでもなく、少し体勢を直していつもの仰向けじゃなく、私の方を向いて包み込むように横になってくれた。
閣下の体温に包まれて、すごく安心できた。どうしてなのかな。よくわからないけれど、閣下の側にいると大丈夫な気がしてくる。私は大丈夫、って言い聞かせながら、本当に大丈夫な気がしてくるんだ。
そんな閣下の腕の中に丸くなっていたらちょっとだけ余裕も生まれて、私は一人静かにこれからのことを考えた。
明日はどうにかもう一度セイレア様に会えないか、閣下と鳥の巣頭さんに交渉してみよう。
セイレア様は具合が悪いかもしれない。でもそれは配慮の足りなかった私の所為だから、出来れば側にいてあげたいんだ。動物って、触れているだけで人の心を穏やかにすることもあるって聞いたことがある。私は魔獣だけど、普通の動物と見た目はそんなに変わらないから、もしかしたらセイレア様の慰めになるんじゃないかって思った。
そうだ、そういえば、飾り袋はどうなったかな? あまりに動揺していてセイレア様のお部屋に置いてきてしまった気がする。今の私が持っているよりセイレア様が持っていた方がいいと思うから、どうしても取り戻そうとは思わないけれど。……あの小さな血の痕を見て、勘違いをしたセイレア様が何度も苦しまないことを願うしかない。
私は閣下の横で閣下に身を寄せながら、つらつらと考える。
最初は衝撃が強かったけれど、閣下の温もりを感じると心が凪ぎ、落ち着いて考えに耽ることができた。閣下のお陰だ。
――閣下ありがとう……。
心の中で感謝しながら、またちょっとだけ背中を擦り寄せた。
なんだか、閣下って不思議。
何か特別に声を掛けてくれたりするわけじゃないのに、閣下は絶対に私を傷つけたりしないと思っている自分がいる。扱いは乱暴なのに、その仕種に優しさを感じる。ときどき私のことを忘れてるのかな、って思うときもあって、でも側に行くと絶対に抱き上げてくれる。何かを伝えようとするみたいに瞳をじっと見つめられる。その目がときどきすごく優しい気がするんだ。
ただの思い込みかもしれないけれど、そういう一つ一つが、心の支えになっていると思う。
――私って、すごく幸せ者だ……。
セイレア様に事実を知ってもらえば、それだけで頑張れると思った。それは本当だけれど、思えば今の私には閣下もいてくれる。閣下が側にいてくれれば、少しずつでも前に進んでいけるような気がしている。
だから、……だから、もしもセイレア様がこれ以上ファラティアのことを思い出すのが辛いなら、ファラティアに関することを受け止める余裕が無いのなら、もうファラティアを思い出させるようなことはしない方がいいのかもしれない。
私の事情を押し付けるより、セイレア様のお母様を亡くした悲しみやファラティアを失った辛さを癒してあげることに、専念したほうがいいんじゃないのかな。
魔獣として生きることは今でも不安だし、怖い。出来れば元のファラティアの姿に戻りたいと思う。
だけど、誰かに重荷を負わせてまで私がファラティアだと知ってもらうことは、正しいことなんだろうか。
今の私が本当は人間だったと、セイレア様や、あるいは閣下たちが知ったら、きっと一生懸命元に戻れるように動いてくれると思う。もしかしたら解決方法も見えてくるかも。でも、そこに至るには色々と大変なことがあると思う。人が魔獣になってしまうなんて、聞いたことがないもの。きっと簡単なことじゃないよね。
これは私自身の問題なのに、そういう点で私は何もできない。迷惑を掛けることがわかっているのに、誰かに知って欲しいと思うのは自分勝手にならないかな……。
魔獣として成長すれば不安は増すだろうけれど、閣下の側にいれば何とかなるんじゃない? だから、無理にファラティアの存在を知って欲しいなんて、思っちゃいけないんじゃないの?
……そう思うのは、やっぱり今日のことが衝撃的すぎて、何処か諦めが入っちゃっているのかな。逃げているだけなのかな。本当はもっとあがいて、戻る方法を必死に探すべきなのかな……。
セイレア様にとっては、どちらが幸せなんだろう……。このままファラティアを失ったとして生きていくこと、ファラティアが実は魔獣の姿に変わってしまったと知ること。
閣下や鳥の巣頭さんにとってはきっと、知らない方がいいんじゃないかと思う。魔獣として、私を育てた方が断然楽だ。
だったらやっぱり、面倒をかけたりせず、このまま私が今の姿を受け入れた方がいいんじゃないだろうか……。
少し心に迷いが生じている。
この前まではセイレア様に知ってもらうんだと意気込んでいたけれど、本当にそれが必要なことなのか、わからなくなってしまった。
…………。
――ああ駄目! 自分の考えに、また気分が落ち込んできちゃってる!
とにかく明日は、もう一度セイレア様に会えるか二人に聞いてみよう。もしも駄目だったら、もう少し後にでも会えれば……。
それから、すごく勝手だけれど、明日は出来るだけ閣下の側にいさせてもらおう。外まで付いて行くのは駄目でも、執務室ならいいよね? 静かな空気をまとう閣下の側にいれば、落ち着いて気持ちも整理できるような気がするから……。
――そう思ったのに、悪いことって続くものだ。