36.束の間のひと時
閣下の機嫌がとっても悪い。
私は今、重たい視線に晒されてテーブルの上で置物のように固まっていた。
今まで閣下が見せてくれた感情と言えば本当にささやかなものだ。明確なものはあまりなかったと思う。微笑み(のようなもの)を見せてくれたのは一度切りだし、あとは心配そうな様子が一番多かった。そう考えると、私って本当に閣下に心配ばかり掛けていたんだなあと思う。でも、今はそれは問題じゃなくて……。
今、閣下はびっくりするくらいはっきりと不機嫌を露わにしていた。
――あぅ。見てる。閣下がこっちを見てるよ……。
朝のミルクを飲んでいるときから、閣下の視線が全然私から離れない。白い仮面の奥から無表情でじーっと見つめられ、居心地の悪い思いで一杯だった。
閣下はソファの肘掛に凭れ、立てた手に顎を乗せて気だるげな姿勢をとっている。そのゆったりとした座り方とは裏腹に、閣下の唇はいつも以上にしっかり引き締められ、顎を支える手とは逆の指先で自分の太腿辺りを忙しなく断続的に叩いていた。さらに涼しげな灰青色の瞳は眇められ、不満も露わに私の動きを追っている。
鳥の巣頭さんの真っ黒な怒りとは違う、重苦しく底冷えのするような怒りを感じる。そしてちょっと粘っこい(閣下ごめんなさい)。このじわじわくる感じが怖い。
怒っているのはわかるんだけれど、閣下はいつも通り言葉を発することがなくて、私は身を縮めて視線に耐えるしかなかった。
「……閣下」
私がいよいよ逃げ出そうかと思っていると、鳥の巣頭さんが笑顔で閣下に呼びかけた。朗らかさはいつも通りなんだけれど、心なしか声には呆れが含まれているような気がする。
「ご不満なのはわかりますが、仕方がないでしょう? 内庭で気分転換をさせろと仰ったのは閣下ですよ。そこで客人に遭遇する可能性をお考えにならなかったわけではないでしょうに」
「…………」
そうなのだ。閣下は、昨日私が内庭でセイレア様に会ってしまったことが気に入らないみたい。と言っても、それだけで怒っているわけじゃなくて……。
「確かに午後にセレスタを借りたいとの申し入れがあり、勝手に了承してしまいましたが……。あまり長く貸し出したりしませんから、安心してください。そして諦めてください」
うん、閣下が怒っているのはたぶんこっち。今朝、セイレア様から私にゆっくり会いたいとの申し入れがあったらしく、それを鳥の巣頭さんが閣下に報告したんだ。
鳥の巣頭さんは昨日のように私の情緒不安定を理由に一度お断りしたようなんだけれど、様子がおかしくても気にしないと微笑みで押し切られたみたい。そういえば、セイレア様ってそういうところがあったなあ、とそんな場合じゃないのに懐かしくなってしまった。
この報告をしたときに、今みたいな不機嫌閣下が出来上がってしまったというわけなんだ。
私は鳥の巣頭さんの報告を聞いたとき、思いの外直ぐに訪れた二度目のセイレア様と会える機会に跳びあがりそうなほど嬉しかった。もしかしたもう会えないかもしれないとあれからずっと悶々としていたから、まさか今朝になってそれがこんなに簡単に解消されるとは思っていなかった。
セイレア様から会いたいだなんて、セイレア様も昨日の出会いで私に何かを感じてくれたのかと、本当に嬉しかったんだ。
でも、私が喜びを表すよりも前に、鳥の巣頭さんが報告した途端閣下の視線がカッと私に向かって飛んできて、驚きのあまり跳びあがってしまった。
目が“何故そんな申し入れが!”って問い詰めるような感じで、すっごく怖かった。結局閣下は何も言わずに今に至っているんだけれど、視線は全然剥がれなくて、怯える私に鳥の巣頭さんが仕方なく助け舟を出してくれた、っていう状況だ。
でも、閣下が何に対してそんなに怒っているのかわからない。閣下にとってお客様であるセイレア様だけど、粗相をして怒らせてしまったわけではないし、閣下の顔に泥を塗るようなことはしていない。それどころか気に入ってもらえた、ってことで、悪いことではないと思うんだけれど……。
いっそ何に怒っているのか語ってくれたらいいのに。
「……一刻だ」
びくびくしている私を見つめたまま、閣下がぽつりと呟いた。
……一刻?
「閣下、一刻だけとはあまりに狭量じゃないですか? 流石にそれではエイトウェイ嬢も落ち着かないでしょうし、明確な理由が無ければ申し訳が立ちませんよ。せめて四刻――」
「二刻」
「わかりました、三刻に致しましょう」
「……」
えっと……。私今、何だか売られている気分なんだけれど……。
私自身を競っているわけじゃなく、セイレア様に会う時間について言っているのはわかるんだけれど、なんだかなあ……。
耳を伏せて肩を落としていると、まだ不満気な閣下に苦笑して鳥の巣頭さんがこそっと私に耳打ちしてきた。
「――閣下はここのところ忙しくて自分はセレスタと一緒にいる時間が減ったのに、他の人間がゆっくり一緒に過ごすというのが気に入らないんだよ」
――え?
「あとはそうだなあ、万が一エイトウェイ嬢が君を気に入ったりなんかして、どうか譲ってくれ、とか言ってきたら大変だ、とも思っているかもね。あるいは毎日のように会わせてくれと言ってきたらどうしよう、とか心配しているかも? アハハハハッイテッ!」
最後の方は、鳥の巣頭さんの頭にコツリとティーカップが振ってきての悲鳴だった。どうやら鳥の巣頭さんの言ったことは閣下にも全部聞こえていたみたい。
そのあと二・三度コツンコツンとティーカップでお仕置きされた鳥の巣頭さんは、その度に『イタッ』と声を上げていた。結構いい音がしていたけど、大丈夫かな?
「閣下! 全く、無作法ですよ! いくら飲みきっているとはいえティーカップで叩くとはっ。さては図星ですね?アハハハハ!」
「…………」
鳥の巣頭さんの揶揄うような声に閣下はフイッと視線を逸らしてしまった。その仕種が何だか拗ねているみたいで、ちょっとだけ可愛いと思ってしまう。
閣下は時々本当に子供みたいな行動をとる。普段の様子からはあまり想像できないけれど、実際にそれを見てしまうと人形みたいな閣下の人間らしい部分を垣間見た気がして、嬉しくなっちゃうんだよね。
――ドサーッ
「!!!」
のんきに可愛いなあなんて考えていたら、次の瞬間、今度は執務室から大量の本が飛んできて、鳥の巣頭さんの上に雨のように降り注いだ。そして鳥の巣頭さんは完全に見えなくなってしまった。テーブルの隣にはまるでお墓の土みたいにこんもりと本の山が出来上がっている。鳥の巣頭さん、生きてるかな?
閣下ってば、これはやりすぎじゃ……?
呆気に取られていると、バサバサと大量の本を掻き分けて鳥の巣頭さんが顔を出した。生きてたみたい。でもせっかくここ数日は整え続けられていた髪の毛がまた鳥の巣状態になってる……。
「――っ閣下! 八つ当たりはやめてくださいっ!」
「……。 ――ふん」
!!
閣下が鼻で笑った……!
笑ったと言っても表情はもちろん全然変化がなかったけれど、いつにないその反応に閣下は本当に機嫌が悪いんだということがわかった。
こ、これは私の所為、なのかな……? でも私何もしてないよ……?
それに、私はセイレア様のところには行きたい。行かなきゃいけないと思う。
どうしたらいいんだろう、と困惑しながら閣下にそろそろと近づいてみる。すると直ぐ、閣下にわしっと掴まれ膝の上に引き寄せられた。やっぱり閣下は何かの罠みたいだ。
何か叱られるのかな、と恐る恐る閣下を見上げたけれど、灰青の瞳にはもう怒りの色は浮かんでいなかった。
「……息抜きとなるなら。行って来るといい」
吐息混じりでどこか諦めたように言って、閣下はとんとんと私の背を叩いた。
さっき鳥の巣頭さんはああ言っていたけれど、閣下はどちらかというと私のことを心配してくれているんじゃないかと思う。内庭でのことをまだ気に掛けてくれていて、セイレア様のところに限らず私が外に出ることで何か辛い思いをしたりしないように、って。心を砕いてくれているんじゃないか、って、勝手にそう思った。
私は今まで心配掛けた分のごめんなさいとありがとうを込めて、閣下の手をぺろりと舐めた。
今はもう大丈夫。
衝撃的なことがわかって落ち込んだりもしたけれど、一つずつ自分に出来ることをしていきたいって思う。今なら出来ることがあるって思える。そして、その先が必ずしも解決とはいえない結果になったとしても、ちゃんと受け入れたい。自分を憐れむんじゃなくて、やれることはやった、って支えてくれた閣下や鳥の巣頭さんに胸を張れるように。
――うん。そのためには。
まずは、やらなくちゃいけないことがある。閣下と鳥の巣頭さんにわかってもらわなくちゃいけないこと。
それは、“飾り袋”を返して欲しい、ってことだ。あれが無いと、せっかくセイレア様に会えてもどうにもできないものね!
さて、どうしたら分かってもらえるかな?
久しぶりに初期の頃のような明るさが戻ってきた気がします。
そしてじわじわ近づいております。あの瞬間に。