31.こころの隙間
鳥の巣頭さんに注意されたので、大人しく扉の前で閣下が戻るのを待っていた。私としてもこれ以上両手の痛みが増してしまうと歩けなくなってしまうし、さっき鳴き過ぎてかなり体力を消耗してしまっていたから、騒がずに待つ方がいいと思ったんだ。
待っている間気持ちはソワソワしっぱなしだった。抱える妙な緊張感は小さな小さな物音でも反応してしまうくらいで、何度か閣下が戻って来たかとぬか喜びしてしまった。そして違うとわかる度にがっくりと肩を落とす。それの繰り返しが少しずつ鬱積していって、ただじっと座っているのが辛くなってきてしまう。
でも幸い、私が痺れを切らす前に閣下は戻って来てくれた。
「! キュウッ」
「……」
扉を開けた閣下は、待ちきれなくて扉のギリギリのところで座っていた私にちょっと驚いたみたいだった。一瞬動きが止まったのはその所為だと思う。ごめんなさい。でも待ちきれなかったの。
それから直ぐに驚きから回復した閣下は、黙って私を抱き上げてくれた。閣下の腕の中はとても暖かい。
思い返せば、今日は一日ほとんど閣下の側に居なかった。こんなことってすごく珍しい。
自分の中に閉じこもって外のことを遮断していたけれど、改めて閣下の腕の中にいると無条件に安堵する自分がいる。今朝までのことを考えると虫が良すぎる気もするけれど、閣下はどんな状況になっても味方でいてくれるんじゃないかと、心のどこかで思う自分がいた。
安心感と心地よさに思わず閣下の胸元に頭を擦りつけてしまう。閣下の匂いがした。
閣下に頭を撫でられる。それは、私に少し元気が戻ったのを察してか、変な顔になってしまうほどぐいぐいと力強い撫で方で。でもそんな乱暴な感触をちょっと懐かしく、心地よく感じてしまう私。これってちょっとまずいんじゃあ……? 粗い扱いに慣れちゃいけないような……。
ううん、とにかく今はそれどころじゃないよね!
セイレア様に会いに行かなくちゃ。
そのためにはまずは閣下に外出禁止令を解いてもらわないと。
お客様には見つからないようにするから、お部屋から出して欲しい。
閣下を待ちわびていた理由を思い出した私はそう思って、訴え掛けるようにジーッと閣下を見つめてみた。私の視線を感じたらしい閣下は、不思議そうに数度瞬いた。
「……どうした」
「キュウ!」
ぽつりと落とされた言葉に、急いで応える。
――あのね! 外出禁止令を――。
私はそこでハタと気づいた。
――あれ、どうやって伝えればいいの?
そうだった、私って人の言葉を喋れないんだった。
さっきまではそのことにも嘆いていたはずなのに、すっかり忘れ去っていたなんて。
一つのことに集中すると他が見えなくなってしまうのは、いいことなのか悪いことなのか。憤りの原因の一つを少しだけ忘れていられたのはいいことだけど、ちゃんと向き合わなくちゃいけないことを忘れ去ってしまうのは褒められたことじゃないと思うのに。
困惑しつつ、どうしようかと悩む。閣下に許可をもらえれば外に出られると思ったけど……。
――……あ。そうだ!
考えているうちに、以前バルコニーに出たいと訴えたときのことを思い出した。あのときのように、扉の前で鳴いて閣下を見つめたら、わかってくれるかもしれない!
そうだよ、外出禁止令を解いてもらう、なんて難しく考えないで、一先ず今だけでも外に出られれば――扉を開けてもらえれば、それでいいんだものね。
そう思うが早いか、私はまずは閣下の腕から下ろしてもらおうと藻掻いた。
腕の中でわたわたと全力で暴れ出した私を、閣下は無表情で眺めている。
……。
まだ、眺めている。
……。
まだ、閣下は動かない。
――あ、あれ? お、下ろしてっ!
藻掻く私を黙って見下ろしていた閣下は、暫くしてから漸くそっと床に下ろしてくれた。
……気づいてくれるのが遅いよ。私、息が上がっちゃったよ……。疲れた……。
毛足の長い絨毯の上でぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返す私を、閣下はまたしても黙って眺めている。
――まさか、わざとじゃないよね……?
藻掻く私が面白くて……とかだったら、泣いちゃうよ?
鳥の巣頭さんだったら遣りかねないなあ、なんて思った。
でも鳥の巣頭さんなら面白がっていることを隠さないし盛大に笑い出すからわかるんだけれど、閣下は無反応だから判断に困る。どうか私で遊んでいたわけじゃありませんように……。
私は心の中でこっそり祈りつつ、息を整えると目的の扉へと向かった。
「キュウ!」
扉のところで振り返り、一声鳴いてみる。
そんな私を見て閣下もバルコニーでの出来事を思い出したのか、意図は直ぐに察してくれたみたい。ちらりと私の後ろにある扉へと視線を投げた。
それから逡巡した様子の後、閣下は私の方へと歩き始めた。
――もしかして、開けてくれるのかな……!?
期待で短い尻尾がぴこぴこと揺れるのが自分でもわかる。気持ちが逸るのに合わせて耳までぷるぷると震えている。早く早く!
私は扉へ向き直って待つ。視界に影が差して、閣下が私の直ぐ側まで来たのがわかった。
よかった、これでセイレア様を探しにいける! そう思ったら待ちきれず、私は扉の合わせ目に鼻先をくっつけて待機した。開いたら一刻も早く飛び出そうと思って。
でも。
「……」
わしっ。
「みぎゃっ!」
結局、扉は開くことは無かった。扉が開くと同時に走り出そうと、フンフンと鼻息を鳴らしながら待っていた私は、あっさりと掴み上げられてしまったんだ。
完全に扉を開けてくれると思って油断していたから、変な声が出た。……タリアの実を食べていなくてよかった。もし食べていたら……食事中の皆様、ごめんなさい。という状況になるところだったよ。
それにしても閣下、どうして私を持ち上げちゃうの!?
もしかして、抱っこで外へ連れて行ってくれるつもりなのかな?
閣下は優しいから、有り得ることだと思った。
でもそうすると、私の足より進むのは速いだろうけれど、なかなか自分の好きな方向へは行けない状態になる。そうなればセイレア様を探すことも難しくなってしまうよね。
……。
だ、抱っこは駄目だ!
慌てて閣下の腕から逃れようとしたけれど、今度はがっちりと抱き込まれてしまってもう脱出は不可能だった。
困った。
こうなったら、閣下が廊下を歩いている間、気が緩んだところを狙ってまた全力で暴れて抜け出すしかないかもしれない。閣下の腕の中から落ちれば相当痛いかもしれないけれど、背に腹は変えられないというし。うん、ここはやってみるしかないよね!
そう私が秘かに決心したのに、閣下はくるりと扉から身を翻してしまった。
――あ、あれ!? 何処へ行くの!?
慌てる私になんて全然気づかず、閣下はゆったりと歩いてソファへと腰を下ろした。
少なくとも部屋の外へは出られると勝手に勘違いしていた私が呆然と閣下を見上げると、閣下は私を見て少しだけ目を細めた。
その仕種が表す意味は何だろう。考える間もなく、閣下が口を開いた。
「……セネジオから報告を受けた」
セネジオ……?
一瞬、誰のことだかわからなかった。
セネジオさん?
首を傾げる私に構わず、閣下が続ける。
「脱走しようとしたらしいな」
そこで気づいた。
セネジオって、鳥の巣頭さんのことだ!
私の中では、鳥の巣頭さんはずっと“鳥の巣頭さん”だったから、名前を忘れてしまっていた。そういえば、以前一度だけ閣下が鳥の巣頭さんを“セネジオ”と呼んでいたっけ。
それよりも、“脱走”だなんて! 私は別に脱走しようとしたわけじゃなくて、ちゃんと理由が……。
「あまり心配を掛けるものではない」
抗議しようとしたら、閣下の諭すような声に遮られてしまった。
新しく包帯が巻きなおされた私の両手を優しく撫でてくれる閣下を見上げる。仮面の奥の瞳が、案じる中にほんの少し安堵の色を滲ませているような気がした。
閣下は私を一度持ち上げ、額を合わせてふっと小さな吐息を零した。
その様子を見て、今更ながらにやっぱり閣下にもとても心配を掛けていたんだと実感した。
鳥の巣頭さんの珍しい心配顔も同時に思い出す。
落ち込んでいる間、私はわかっているつもりでも閣下や鳥の巣頭さんの気持ちを受け流してしまっていたと思う。優しさに背を向けて、閣下や鳥の巣頭さんの気持ちを蔑ろにしていた。自分の殻に閉じこもって、私一人が辛いんだと嘆いて。
莫迦みたいだ。
閣下も鳥の巣頭さんも、迷惑しか掛けないだろう私を拾って優しくしてくれていたのに。
そしてこんなにも心配してくれていたのに。
確かに今だって何も問題は解決していないし、事実を思い出してしまえば気分は沈む。憤りだって浮かんでくる。それは変わらない。
でも、一つだけやらなくちゃいけないことが出来て、そのことに意識が向いていることで、私の心に満ちる負の感情に少しの隙間が生まれた。
閣下や鳥の巣頭さんの優しさを思うと、その隙間からじんわりと暖かなものが滲み出して来るような不思議な感覚がする。
閣下が不器用でも惜し気無く注いでくれる気持ちと、鳥の巣頭さんの意外な優しさが、嘆きに凝り固まった気持ちを和らげていってくれる。不自然に力の入っていた全身からもするりと緊張が解けていくようだった。
私は、事実ときちんと向き合って出来ることをしなくちゃいけないし、そして閣下や鳥の巣頭さんの気持ちにだって報いないといけないんだと、僅かに柔軟さを取り戻した気持ちが切々と訴えてくるような気がした。
またしても軽く受け流される鳥の巣頭さんの実名……哀れ。
少しだけファラティアの気持ちが回復しましたが、まだ問題を先送りにしている感じがあるので、ちゃんと自覚して前へ進んでくれるよう頑張ります。