29.懐かしい影
これ以上ないってくらいに眠った所為か、次の日目が覚めるとちょっと頭がぼんやりとしていた。身体も何だかだるい。手足に重りをつけているようでいつもよりも足元が覚束ない気がした。怪我をした両手も痛くて、余計にぎこちない動きになってしまっていた。
そんな寝起きの私を眺めていたらしい閣下は、その日一日、私を歩かせてはくれなかった。何処へいくにも閣下が抱き上げて連れて行ってくれる。抱き方もいつもよりずっと丁寧だった。
鳥の巣頭さんは私の怪我や元気の無い様子を見て体調が悪いのかと聞いてきたけれど、閣下がそれを否定したので首を傾げていた。それでも、何かがあったのだろうと察しのいい鳥の巣頭さんは気づいたみたいで、その後、冷たい果実水を用意してくれたり、寝心地の良さそうなクッションを沢山持ってきてくれたりした。意外にいい人だと、こんなところで気づかされた。
ああ、甘やかされているなあ、と思う。
でも、すごく心配を掛けてしまっているのがわかるのにどうしても気力が湧かなくて、二人の優しさに報いることができない。自分の身に起きていることを思うと再燃するような憤りに苛まれる。そうやって自分を憐れむように嘆いている私自身にも嫌気が差して、また落ち込む。
全くの悪循環で、その日はどうしようもないほど無為な時間を過ごしてしまった。
そうしてその夜、飽きもせずにまた深い眠りに就いた私は、拾われて以来初めて閣下が白い仮面を外したことに気づくことはなく、そのことが私と、延いては閣下の今後を大きく左右する出来事だったなんてことにも全く気づけなかったんだ。
だけど翌日、私は愚かな自己陶酔から否応無く引きずり出されることになる。
◆◆◆◆
翌朝、いまだだるさから抜け出せない私は、促されるままミルクを惰性のようにダラダラと飲んでいた。初めの頃食事を拒否していた閣下にあれだけ怒った手前、飲まないわけにもいかなくて、だけど今は食欲も無いから無理矢理に流し込んでいるようなものだった。
そこへ、鳥の巣頭さんが思い出したように口を開いた。
「そうだセレスタ、悪いけれど今日から暫くは閣下の部屋から出ないようにしてくれるかい?」
もともと外出する気にもなれなかったから構わないのだけれど、どうしてだろう、と思って鳥の巣頭さんを見上げる。察した鳥の巣頭さんはにこにこといつもと変わらない笑顔で言った。
「お客様がいらっしゃるんだ。暫く滞在されるから、その間は大人しくしていてくれると助かるよ。君が一匹で屋敷をうろついているところに遭遇したら、驚かせてしまうだろう? 動物が苦手な方もいらっしゃるし……というか、君は魔獣だから尚更まずいと思うんだ」
確かに魔獣を放し飼いにしているお屋敷なんて無いと思う。私はまだ身体が小さいから許されているようなものだろうけれど、それにしても破格の扱いであるのは間違いない。
でもそれを聞いて納得した。今日は鳥の巣頭さんも閣下もいつも以上に整えられた装いで、全体的にかっちりとした服装だった。
普段はゆったりとした衣装が多い閣下も今日は身幅に沿った上衣とズボンだ。ちょっと窮屈そうに感じるのは気のせいかな? でもとっても似合っている。頭から足先まで白っぽいのは相変わらずだけど、きらきらしさが増している。全部お客様を迎えるためだったんだね。
そういえば昨日、使用人さんたちが随分と忙しく立ち働いていたんだったということも思い出した。その後に起こったことですっかり頭から抜け落ちていたけれど、私もきっとお客様がいらっしゃるんだと思ったんだった。
あのときは浮き足立つような気持ちでいたのに、今はあまり魅力を感じない。ただ、そうなんだ、と事実を認識する程度だった。
「……キュゥ」
わかった、というように小さく鳴いて応えると、何故か鳥の巣頭さんが苦笑した。いつも曇りない笑顔(胡散臭いけれど)なのに、珍しいな、と思っていると、鳥の巣頭さんが給仕カートの上からお皿を一つ取り上げて、私の目の前に置いた。
鈍い頭で首を傾げつつ覗き込むと、そこには綺麗に皮の剥かれたタリアの実が数個入っていて、さらに蜂蜜まで掛かっている。
栄養が足りないとか体調が悪いわけではないというのを知っているから、鳥の巣頭さんなりに私を元気付けようとしてくれているのだとわかった。
「今はお腹がいっぱいなら、後で食べるといいよ。暫くしてから持ってきてあげればよかったんだけど、今日はちょっと忙しくてね」
それはそうだ。お客様がいらっしゃるのだから、私の相手ばかりはしていられないよね。
しかもさっきの言い方からするとどうもお客様は一人じゃないみたいだ。色々な準備もあるのに、私のことを気に掛けてくれている。
素直に嬉しいと思う気持ちと、居た堪れないような気持ちが浮かぶ。心配を掛けているとわかっていながら、元気な姿を見せられない自分が情けなかった。
それから、紅茶を飲み終わった閣下は何か鳥の巣頭さんに視線で合図を送り、私を寝台へと連れて行った。昨日は執務室も湯浴みも全部一緒に連れて行かれたけれど、これって今日は動かず静かに寝ていろ、ってこと、だよね。
お客様がいらっしゃるのは当然屋敷の主人である閣下に用事があるわけで、閣下はそちらの対応に追われることになる。そこに私が連れ立って行くことはできないだろうし、執務の時間以外はあまりここには戻ってこないかもしれない。
寂しい気もしたけれど、一緒に居て心配を掛けてしまうのも気が引けていた私はどこかホッとした気持ちで、寝台に寝そべった。
閣下はバルコニーの窓を薄く開き、寝台の脇の机にタリアの実が入ったお皿を置いてくれる。閣下はそれから直ぐに鳥の巣頭さんと連れ立って執務室へと消えていった。
夕方頃だろうか、お客様が訪れている割には静かなお屋敷。
私は相変わらず、ずっと寝台で眠っていたのだけれど、昨日の今日で流石に眠り疲れてしまって、のっそりと起き上がった。ぼうっと見るともなしに部屋を見渡していると、バルコニーからとても気持ちのいい風が流れてくるのに気づく。
少し風に当たって、気分転換をした方がいいかもしれない。
そう思った私は、もそもそと寝台の端まで進むと、後ろ足から先に絨毯の上へと下りた。自力で寝台に上ることはできないけれど、下りることなら出来るんだ。それでも閣下の寝台は高さがあるから、最終的にはぼてりと落ちることになるんだけれどね。しかも足がまだ短い所為か、ちゃんと着地できずにひっくり返ってしまうから、閣下がいる間は出来る限りその間抜けな姿を見られないようにしている。もちろん今はまだ閣下は戻っていないから、見られる心配なんてない。
ちょっと両手の傷に響いたけれど、無事に床へ下りた私は、バルコニーへと向かった。鼻先で薄っすらと開いていた窓を開け、隙間から外へ出る。空は薄い橙色へと染まっていた。
どれくらいぼんやりと空を眺めていたんだろう。時々微睡みながら、気づいたら日は沈み、辺りは薄っすらと暗くなり始めていた。少し肌寒くもなっていて、そろそろ部屋の中に戻らなくちゃいけないかな、と思っていたときだった。
視界の端で何かが動くのが見えて、不思議に思って内庭へと視線を向ける。
偶に庭師の人がいるのは見ていたから、初めはその庭師さんかと思った。でもよく考えると庭師さんが仕事をするには辺りが暗くなり過ぎている。ということは庭師さんじゃないんだろう。じゃあ一体誰だろう。
目を凝らして見つめると、それは綺麗な薄水色のドレスに身を包んだ女の人だった。
――お客様って、女の人だったんだ……。
そう思ったら、妙に心臓が跳ねた。焦りのようなもやっとした感覚が胸を込み上げてきて、眉を顰める。
何だろう、この気持ち。
女の人に何かあるのかな、と思って凝視する。その人は、どこか遠くを見つめるようにして緩々と内庭を歩いていた。
テラスから零れ出る僅かな明かりを弾いて煌くハニーブロンドの髪。
纏め上げられ覗く項は白く、薄闇に浮かび上がるようだった。
歩き方が本当に綺麗だ。滑らかに流れるようで、歩く度にふんわりとドレスの裾が空気を含む。閣下の隣に並んだらとても絵になるだろうと、遠目からでも思えるくらい洗練された人。
不意に、女の人が振り返った。
――……え?
私の居る二階のテラスからは少し見えづらいけれど、長年見続けていた顔を見間違うはずなんてない。
夜色の瞳は私の記憶よりも憂いを含んでいるみたいに見える。あの方の瞳は昼間は暖かな春の空色だけれど、宵闇の中では夜色に染まる。それでも暖かさを失わないのは、彼女の性質のためなのかもしれない。
――セイレア様……っ!?
私はその懐かしい姿に思わず両手の痛みも忘れてバルコニーの柵に飛びついた。けれど、一階のテラスから誰かに呼ばれたらしいセイレア様は、あっという間にお屋敷の中へと消えていってしまった。
うじうじしていたファラですが、そうばかりもしていられない状況に。
浸っているだけじゃ駄目だと、そろそろ立ち直ってもらいたいです。