27.溢れ出す、感情
森での出来事以来、自主軟禁の間も何度か私は精霊さんの声を聞いていた。
それまで毎日のように風の力を借りるための練習をしていた成果なのかも。
ただ、精霊さんの言葉はいつも一方的なもので、森に飛ばされた日のように会話(のようなもの)が成立することはなかった。
会話は出来なくても精霊さん側からの接触は増えていて、言葉だけじゃなく悪戯紛いのことをされたりもしていた。……というか、言葉より断然こちらの方が多かったりする。
風の精霊さんは悪戯好きみたいだ。
森へ飛ばしたり、原石を見つけるために飛ばしたり……、というのも、今考えると悪戯のうちだったのかもしれない。ちょっと乱暴すぎるような気もするけれど。
でも、わざと手荒にしているわけじゃないみたいで、加減を知らないというか。
――あれ? 誰かに似ているような……? 気のせいかな?
特に軟禁中にバルコニーから外を眺めていたときに、いきなり風に仰がれたカーテンが顔に撒きついてきてちょっと窒息しそうになったときは本当に吃驚したけれど、そんなふうに精霊さんがちょこちょこ悪戯を仕掛けてきてくれるお陰で、自主軟禁中にも思考の渦に沈み込まずに済んでいた。
でも、そろそろちゃんと考えないといけない時機だ。
色んなことを考えるには、この静かで穏やかな場所は最適だと思う。
閣下の傍だって騒がしくない――むしろすごく静かだけど、私がうんうん呻りながら色んなことを考えていると閣下に心配を掛けてしまいそうだった。実際、森に出た日の夜は心配を掛けてしまったみたいだったから、余計に。
そんなわけで、森での出来事を考えなくちゃいけないとは思いながらも、閣下の私室から出られるのを待っていたんだ。
それに、閣下の私室よりも、この場所の方が精霊さんも力を発揮し易くて意思の疎通も上手くいくんじゃないかと思ったのもあった。
今日はちゃんと応えてくれるかな……。
私はゆっくり一つ深呼吸をしてから、そっと目を閉じて何処ともつかない場所に向かって心の中で呼びかけてみた。
――精霊さん……? 近くにいるよね?
――…………。
沈黙。やっぱり駄目なんだろうか。
そもそも、こちらから呼びかけて応えてもらえたことなんてないから、本当は全く上手くいく保障なんてない。ただいつも傍にいるのは確かだから、どこかにいるだろう気配を取りこぼさないよう、集中するしかなかった。
――精霊さん。お願い、応えて……!
――……。
――……。
何度か呼びかけてみても応えがなくて、やっぱり今日は駄目なんだろうかと諦めかけたとき、もそりと何かが動く気配がした。周りには他の生き物なんて虫くらいしかいないから、きっと精霊さんだ。
私は嬉しくて、精霊さんの言葉を聞き逃さないよう耳をピンと立てながら返事を待った。
それにしても、姿は見えないのに動作の気配を感じられるってすごいなあ。どういう仕組みなんだろう?
どうでもいいことを考えていると、少しの沈黙の後、頭の中に声が聞こえてきた。
――……。……ふ
――ふ?
ふ、ってなんだろう? 疑問に思ったけれど、静かに次の言葉を待つ。
でも続いたのは、どうにも気の抜けるような反応だった。
――ふあ――ぁふ。……ぶしゅんっ
え。
えーっと……?
ね、寝てたの……かな?
大きな欠伸の後のくしゃみは一体何だろう……。
それまでの緊張が嘘のように、なんだかちょっと脱力してしまった。
精霊さんでも欠伸とかくしゃみをするんだね……。
ううん、それより。
――あ、あのね、精霊さん。休んでいたのに起こしてしまってごめんなさい。ちょっと聞きたいことがあって……。
気を取り直して、眠そうな気配を漂わせる精霊さんにもう一度話しかけてみる。すると、ぼんやりとした声が返って来た。
――……うん? なに?
――っ!
自分で呼びかけておいて、返事があったことに少し驚いてしまった。
本当に外に出たことで精霊さんの力が強まった所為なんだろうか? それとも、ただの偶然――?
ああもう、余計なことにばかり気を取られてしまう。
何て言ったって、精霊さんときちんと話すのは森での出来事以来だから、本当にそこにいるのだとはわかっていてもその反応がいちいち珍しくて、驚かされるばかりだ。
だけど、きちんと会話が成立する時間がどれくらいなのかもわからない。急いで本題に入らないと。
とは思ったものの。
本当に転生して今の姿になったのかどうか。
それを聞くのには勇気が必要だった。
だってその質問は、精霊さんの答え次第では、魔獣としての新しい人生を受け入れようと頑張っていた努力を全て覆されてしまう可能性があるんだ。
これからどうなってしまうのか。どうすればいいのか。
また一から考え直さなくちゃいけなくなる。そしてきっと、今度は受け入れるだけでは何も解決しないだろうということも、わかり過ぎるくらいにわかってしまう。
転生したんじゃないとしても私が魔獣の姿であるのには変わりなくて、人の言葉を理解できても話せないのも変えられない。そんな中で事実を知ったとして、何が出来るって言うんだろう。
物事には原因があって、それがわからなければ完全な解決は有り得ないと思う。
今の私に原因を探ることが出来るだろうか?
きっと簡単なことじゃない。
誰かの協力なくしてそれは不可能だと思うんだ。
じゃあ、一体誰に?
――精霊さん?
精霊さんに協力が得られたとして、それは情報だけの話だと思う。実際に行動することは、実体の無い精霊さんには難しいだろうから。
だけど、今の私は魔獣の子供の姿で、出来ることなんて限られている。
そんなことを考えれば考えるほど、不安で仕方なくなってくる。
先の見通しなんて全然つかなくて、足元すら定かでない視界の悪い道に進もうとしているような気分だった。初めの一歩すら躊躇してしまう。
だけど、その先には絶対進まないといけないんだよね。右も左も、後ろでさえきっと続く道はなくて、目の前にある暗い道だけが進むべき道なんだ。
不安になっているだけでは何も好転しない。私の身体が魔獣となって、さらに性別が男の子だと発覚したときがそうだったように。
そのときの不安は、どうやって解決したんだっけ。
そう考えて、パッと閣下の白い顔が浮かんだ。
このお屋敷に来て一週間以上、閣下の傍で過ごして、何度も不安に襲われるときがあった。でもいつも閣下が、“なんとかなる”って、そう思わせてくれた。
どうしてだろう。閣下の笑顔を見たのはほんの一度切りで、しかもそれも微笑んだと言うにも怪しいほどささやかなものだったのに、それでも確かな支えだと思える。思い出すのは仮面で隠された感情の読みにくい青灰の瞳ばかりで、扱いだっていつも手荒だと思えるようなものばかりなのに、身体が覚えているのは閣下の手の暖かさと鼓動の音だ。それが、妙に安心する。
思い返せば自分で不安を払拭できたわけじゃなく全部閣下のお陰だけれど、気持ちはちゃんと前進できていたと思うから、今回だってきっと何が起こっても、どんな形でも進んでいけるはず。
転生したわけじゃない、というのだって、仮定に過ぎない。もしかしたら、何か私の想像もつかないような偶然が重なった結果、この不自然なことが起きてしまっただけかもしれないんだから。
だから、悩んで不安になるのは事実がわかってからにする。
ほとんど無理矢理に自分を叱咤して意を決すると、私は口を開いた。
――あのね、精霊さん。森にあった飾り袋、精霊さんは私のものだって知っていたよね? だから私を森に連れて行ってくれた。私、ずっと私はファラティアから転生してイェオラになったんだって思ってたの。……だけど、あの飾り袋を見たら、そうじゃないのかもしれないって思った。
私はそこで一端言葉を切って、ぐっと唾を飲み込んだ。口の中がからからだ。
それでも私は意を決すると、首を傾げて待つ精霊さんに尋ねた。
――私って、実はまだファラティアのままだったりするのかな……?
有り得ないって思うけど、でももしかしたら何かの魔法でこの姿になっているだけなんじゃないかな。
あのとき……、馬車が襲われたときに、全身に物凄い圧力を感じたの。全身の骨がバラバラになっちゃうんじゃないか、っていうくらいに痛くなって……。目の前が一瞬弾けたように、光に包まれた気もする。
それが、もしかしたら姿を変える魔法だったんじゃないかって思うの。
精霊さんは、そのことについて、何か知らないかな……?
――うん? ……よくわからないけど、ファラはファラだよ。
精霊さんの応えは、とても簡潔なものだった。
――ファラはファラ……?
それって、やっぱりファラティアのまま、転生はしていない、っていうこと?
――うん。
――……っ!
私が勇気を振り絞ってした質問は、あっさりと肯定されてしまった。本当に、呆気ないほど簡単に。
当然のことでしょう? とでも言うように、小首を傾げながら返されたその答えに、咄嗟に次の言葉が見つからなくなる。
転生したと思い込んでいた。
魔獣の身体となったのは新しい人生だからだと思わなければ、受け入れられなかった。
だけど転生したというその確信は、飾り袋を発見した時点でかなり可能性が低いんじゃないかと思い直した。そのことをはっきりさせなくちゃ、とも思った。
それでも本当は、転生したのだと信じていたかったのかもしれない。
今、転生という防壁が打ち砕かれて、私の頭には一気に感情の奔流が押し寄せていた。
転生したんじゃないなら、どうして魔獣なんかの姿に?
私が何をしたっていうの?
しかも男の子だなんて、私は女の子なのに……っ!!
戻る方法はあるの!?
戻りたい、戻りたいよ……!
私は人間だよ! 魔獣なんかじゃない!!
人と話したい。
話しかけられるだけじゃなくて、ちゃんと私の気持ちも言葉で伝えたいよ!
人としてなら、私にだってやれることはあるのに!
実るかもわからない努力ばかり重ねるんじゃなく、ちゃんと、ちゃんとできることだってある……!
恩を返すのなら、きちんと人の姿で……。
この姿じゃ、ありがとうも言えない……!!!
今まで押さえ込んでいた思いが急激に噴出して、自分でも何が言いたいのかわからない。
どんなに前向きに考えたところで、何も昇華できていなかったことに、初めて気づいた。
受け入れていられたのは、あくまでもそれが新しい人生であって、仕方の無いことだと思ったからだった。
無理に捩じ伏せていた憤りは、反動のように私の中で激しく荒れ狂う。不安や不満、憤り、嘆き、そんな負の感情ばかりじゃなかったはずなのに、噴き出したそれらによって他のものが全て薙ぎ倒されて吹き飛ばされてしまったみたいだ。
人としての意識が残ったまま別の生き物として生活することは、私自身が思っていた以上に精神的な負担が大きかったのだと、このときになってようやく気づいた。
どうしてこんなことになってしまったのか。何が目的で?
そんなことを考える余裕もなく、ただ嘆きばかりが頭を占める。
泣きたくて、でも魔獣の姿では人のような涙は出ない。そのことがまた私を打ちのめした。