02.どちらにしろ命は無かったということ
少し痛い表現入ります。
地面を擦るのは、明らかに人が地を踏みしめる音だ。
外へ意識を集中させると、直ぐに諍いの声が耳に届く。
「――おま――な……だ! ……うに――と――ど!!」
「……――――。――――」
怒鳴り声が聞こえるが、何を言っているかまでは聞こえない。
ファラティアが乗っている馬車は外装は慎ましやかだが、造りはしっかりとしており、完璧とはいかないが窓を閉めてしまえば外の冷気を通さぬように密閉率も高まる。
そのお陰で外からの声まで遮断してしまい、あまり内容は理解できなかったが、一つは御者の男性の声だ。もう一つは声量が小さく、何者かが喋っていることしかわからなかった。
(な、何? 何が起こってるの!?)
ファラティアは混乱し、慌てて前にのめった体勢を立て直した。
状況を見ようと咄嗟に窓に手を伸ばしかけて、直後、頭に浮かんできた予測にはっとして腕を引き戻した。
もしも馬車が賊に襲われたのだとしたら?
御者の怒声だけでは判断のしようもないが、賊による襲撃であるなら、不用意に窓から顔を出すのは危険だと思ったのだ。
しかしそもそも相手が賊であるなら、遅かれ早かれ最終的には馬車内とて確認するだろうから、いくら息を潜めようとあまり意味はないのだが、ファラティアにそれを考える余裕はなかった。
ファラティアは幼い頃に一度だけ、セイレアとともに乗っていた馬車が賊に襲われたことがある。
幸い、賊の数が少なく、護衛の者が直ぐに逃げ道を確保してくれたため、馬車自体は諦めることにはなったが命は無事だった。
その襲撃のときも、丁度今のように、馬車は突然急停止したのだったと思い出す。
ファラティアは嫌な記憶に指先が冷たくなるのを感じながら、とにかく落ち着かなければ、と深く呼吸をして嫌な音を立てる胸を誤魔化した。
まだ賊の襲撃と決まったわけではない。
そもそもこの馬車は乗用馬車だ。賊の襲撃を受ける確率は荷馬車に比べてずっと低いはず。
冷静に、冷静に、と呟いていると、ふと記憶との違いにファラティアは気づいた。
賊に襲われたにしては、剣や拳を打ち合うような音が聞こえないのだ。
御者台には護衛の者も居たはずで、全くの無抵抗でもない限りいくら密閉率の高い馬車とはいえ、そうした音が聞こえるはずなのに。
それに、怒声が御者からばかり聞こえるのも不思議だった。
賊と言えば野蛮に怒鳴り散らし、対象を威圧し萎縮させるのが通常なのに。
賊の襲撃でないのなら、街道に飛び出した者でも居たのだろうか。
今の時間は太陽が照っており、視界が悪いわけではないが、時折、長旅に疲れてよろよろと街道沿いを歩く旅人が馬車に気づくのが遅れ、避けきれずにぶつかってしまうこともあると聞く。
また、俗に言う“当たり屋”などという者も居るらしく、そうした人は怪我をしない程度に馬車にぶつかっては御者、あるいは馬車内の人物へと治療費だ何だと文句を並べ立ててくるらしい。
そのことに思い至り、ファラティアはほんの少しだけ肩から力を抜いた。
そうした者が居ることは周知の事実なので、御者も相応の対処法は持っているはずだ。
早合点で恐怖に震える必要はなかったのかもしれない。
とは言え、賊では無いとしても直ぐに外の様子を確認する勇気は無く、ファラティアは膝元のドレスをぎゅっと握りしめて、馬車の中で一人身を堅くしていた。
なるべく穏便に事が運び、再び馬車が何事も無く進むことを息を詰めて祈っていると、程なくして外の喧騒は治まった。
やはり賊ではなかったのだ。
そうでなければ、喧騒の勢いのまま馬車の中も押し入られていただろう。
ファラティアは小さく息を吐いて、そっと窓に手をかけた。
まだ外に出る勇気は無いが、状況を把握しないままじっとしているのも不安が募るものだ。
――――……バンッ!
「――ひゃあっ!」
そろりそろりと窓に手を掛けたところで、唐突に反対の扉が乱暴に開かれ、ファラティアは悲鳴を上げた。
弾かれたように振り返り、そこに立つ人物を目にして慌てて今し方手を掛けていた窓側に背中を擦り付けるほど身を寄せる。驚きすぎて再度の悲鳴は繰り出されることなく喉の奥に消えた。
(ああ、嘘でしょう……?)
ファラティアは全身の血がざっと音を立てて引いていくような気がした。
扉の外に立っていたのは、御者や護衛の者でも、まして街道へ飛び出した旅人や当たり屋などではない。
全身が黒い布で覆われ、目の部分ですら隠した男――体格からして男だろう――が一人、うっそりと立っていた。
怪し過ぎる。
ファラティアは、消えたはずの嫌な予測が見事に当たっていたことに唇を噛んだ。
(治安は良いって仰ってたのに……)
ファラティアは、天使の容貌をした主を頭に思い浮かべたが、ファラティアの頭の中の彼女は何故か身ほどもある大きな鎌を持っていた――。
「……蜜色の髪に青眼か」
ファラティアが一瞬現実逃避しかけたとき、男が徐に口を開いた。
口元は黒い布で覆われ声はくぐもっていたが、何を言ったかはちゃんと理解できた。
男が黒いフードの奥から、恐怖に硬直するファラティアを品定めでもするようにじっくりと眺めているのを感じる。
男の目元は黒い布で覆われ、フードも深く被っているのに、ファラティアが見えるのだろうか。
何処かに売り飛ばされるのか、それとも賊の間で慰み者として飼われるのか。悪い予感しかせず、ファラティアは一層身体を堅くして身構えた。
「――出ろ」
男は扉の前からすっと身を退いて低く呟いた。
ファラティアは一瞬躊躇ったが、抵抗して乱暴に扱われるのは恐ろしく、素直に従った。
震える足でゆっくりと扉まで移動し、身を屈めて扉を潜る。落ち着いた焦げ茶の内装とは違う、黄土色の地面が目に痛い。
散々怒鳴っていたはずの御者のおじさんはどうなったのだろうか。護衛の男は。
確かめる勇気はなくて、ファラティアは足元以外に視線をやれず、地面を見つめたまま馬車から降りた。
何処に連れて行かれるのか、何をされるのか、不安で恐ろしくて何も考えられない。
「真っ直ぐ進め」
馬車から出ると、男が再び口を開いた。
真っ直ぐ。目的地まで歩かせるということだろうか。
手は拘束されておらず、それならば或いは逃げる機会もあるかもしれない、とファラティアは無きに等しい希望を浮かべ、歩き出した。
しかし、歩き出して数歩、ファラティアの小さな希望は見事に即刻打ち砕かれた。
「――っ!!」
突然、全身に凄まじいまでの圧力を感じ、恐怖に震えていたことも相俟ってファラティアは碌に踏ん張ることも出来ず地面に強く叩きつけられた。
打ち付けられたことで全身に走った鈍い痛みは、直後、背中を駆け抜けた鋭い痛みにあっという間に打ち消された。
背骨を駆け上がり、脳天まで達する痛みは痺れを伴って、ファラティアは一瞬後には意識を手放していた。
背筋を駆け上がる痛みはファラティアが今まで経験した中で、比べようも無い衝撃のものだ。
身体をバラバラに砕かれているのではないかと錯覚するほどの鋭い痛みに、一瞬で意識がなくなったのは幸いだったのかもしれない。