22.恐怖の空中遊泳
――閣下、助けて……!
心の叫びも虚しく、身体は何かに引っ張られるように加速を続けている。
どうしよう、どうしよう!
どこへ向かっているのかはさっぱりわからない。だって、怖くて目を開けられないんだ。
生垣のアーチを抜けた直後に感じた浮遊感を思えば、結構な高さを飛んでいる気がする。高いところは苦手じゃないけど、足場がある場所に居るのと飛んでいるのとでは全然違う。何も触れない四本の足に風が当たって、凄く心許無い。
風は鼻にも当たり、濡れていたはずのそこはあっという間に乾いてしまった。
どこまで飛んで行ってしまうのか、焦りで頭が真っ白になっているところに、ほんの少しだけ今までとは違う風が、頬を撫でたような気がした。
その直後、頭の中がざわりと波打つような、おかしな感覚が走って、何かが聞こえた。
――くすくす……
密やかなその音は、笑い声のように聞こえる。
笑い声……?
でも、そんなはずなんてない。ここは地上から離れていて、結構な速さで私は移動している最中なんだから。
きっと気のせいだ。
そう思うのに、頭の中から聞こえるようなその音は、止む気配がなくて。
私は今まで以上に身を硬くした。
今度は私の身に何が起きるんだろう。もう十分、色々と驚かされている。これ以上は受け入れられない!
頭の中に響く音が怖すぎて、何も考えられなかった。
やだやだ、やめてよ……!
あまりの恐怖に心の内でそう叫んだとき、ぴたりと音が止んだ。
え、と思う。
本当に突然、水を打ったように静かになってしまって、逆に不安になる。一体なんだっていうんだろう。
困惑しながら様子を窺うと、頭の中にあった気配がどこか気落ちしているような雰囲気を感じた。
気落ちなんて、姿が見えない状態でそんなの感じられるはずがないのに。
でも、そこで私はふとある可能性に気づいた。
……もしかして、風の精霊、というものなんだろうか?
風の精霊が実際にいるかどうかはわからないけれど、存在するとするなら、風を友にするというイェオラにその声が聞こえたとしても、おかしくはないんじゃないかな。
急に身体が浮いたのも、私があんまりにも不器用で風を操ることができないから、精霊が悪戯をしたのかもしれない。
そう考えたら、すごく納得できるような気がした。
そして、頭の中の気配が精霊だとするなら、何も怖がる必要はないんじゃないかとも思った。
だって、イェオラと風の精霊なら、きっと仲がいいはずだもの。
そう考え至って私は、それなら、とそっと頭の中の気配に声を掛けてみることにした。
……あ、あのね、精霊さん? そろそろ地面に……というか、閣下のところへ戻してもらえないかな?
……。
呼びかけてみたはいいけれど、暫く沈黙が続いて、居た堪れない気持ちになった。
もしこれが精霊じゃなかったら、私はなんて滑稽なことをしちゃってるんだろう。
ううん、滑稽だとかの前に、精霊じゃない存在だとしたら……怖すぎる!
私がまた不安にかられそうになっている頃、やっと小さく反応が返って来た。
――……もう少し。
え……?
もう少し。
確かにそう聞こえた。
もう少しって、一体何が……?
聞き返そうとしたとき、突然身体に衝撃が走って、それどころではなくなってしまった。
ガサガサガサ――ッ!
身体を浮かせていた風の力が消え、ふっと重力が掛かった後、悲鳴を上げる間もなく私の身体は何かに突っ込み、弾かれてぼてりと地面に落下した。
うう、身体が痛いよう……。
痛む手足を動かし、頭を振る。辺りを見渡すと、そこは緑の生い茂る森の中、だった。
目の前にはところどころ葉っぱが散り、細い枝が折れ曲がった荒れた低木がある。
たぶん、ここに落とされたんだと思う。
……閣下といい、みんな私の扱いが酷くない……?
低木がクッションになったとは言え、もう少し優しく地面に降ろして欲しかったよ……。
でも、とにかく下りられてよかった。
足にしっかりと地面の感触があることで、少し冷静さも戻った。
あの浮遊感は、本当に心臓に悪い。慣れればもしかしたら気持ちがいいと思えるかもしれないけれど、今の私には無理だ。自分の意識外で身体を勝手に操られるというのは、とても恐ろしいものなんだと思った。
ああ、そんなことより、そろそろお昼だよね?
早く帰らないと!
お昼御飯までには閣下のところへ帰る、というのが私が自由行動を許された条件だった。閣下とちゃんと約束したのに、戻らなければ失望されてしまうかもしれない。
私は慌てて駆け出そうとした。
駆け出そうとして、はたと気づく。
此処、どこ……?
この場所へ来るまでずっと目を瞑っていたから、此処がどこの森かなんてさっぱりわからない。
私はすごく後悔した。怖くて怖くて目をぎゅっと瞑っていたけれど、せめてどの方角へ進んでいるのかくらい、見ておくべきだった。そうすれば、どうにかして自力で帰れたかもしれないのに。
森の中に落とされてしまっては、前後左右どこを向いても似たような木ばかりで、どちらの方向に閣下のお屋敷があるのか見当もつかない。
時間的にはそれほど長く飛んでいたわけじゃないから、この森は閣下のお屋敷の裏手にあった森かもしれない、とは思う。だけど、閣下のお屋敷から見て裏手でも、この森からしたらどの方向にお屋敷があってもおかしくないんだ。
せ、精霊さん! どうやったらお屋敷に戻れるの!?
……。
呼びかけても、答えてくれる気配がない。
乱暴な扱いは諦めるとしても、こんなところまで連れて来た責任はとってくれなくちゃ、困るよ!
闇雲に歩き出すわけにもいかなくて、私は途方に暮れてしまった。
閣下が探しに来てくれるのを待つしかないのかな。
でも、もし探しに来てくれなかったら……?
その可能性が無いとは言えない。
閣下に拾われて、まだ一週間くらいしか経っていない。少しくらいは情が移っていると思いたいけれど、ちょっと探して見つからなければ、すぐに諦めてしまうんじゃないだろうか。
身元のわからない獣。育てるにも気を遣う保護対象種の魔獣。わかるはずのない人の言語を理解する幼獣。
側に置いて面倒なことはあっても、居なくなって困ることはない。
これってすごく後ろ向きな考えだ。
最近、悪い想像ばかりして不安になっている気がする。
このままじゃ駄目だと思って、私は気分を切り替えるように頭を振った。
とにかく、戻る方法を考えないと。
探しに来てくれるかわからないなら、それを期待して待っているだけじゃ駄目だよね。
とはいえ結局、戻るためには精霊さんになんとかしてもらうしかない。
私が意を決して頭の中にもう一度呼びかけてみようとしたとき、ふいに風が身体を包んだ。
この感じは!
ふわりと身体が浮く。
お屋敷に帰してくれるんだと思って喜んだのも束の間。
スルスル……――ズボッ!
私の身体は低空を進んだかと思うと、思いっきり目の前にあった低木に突き刺さった。
……泣きたい。
低木の下の部分に頭を突っ込んだまま、私は暫く脱力してしまった。
もう本当、いい加減、こんな扱いには怒ってもいいんじゃないかなあ。
緑と土の匂い、それと少しじめっとした感じがして、流石にその場でずっと嘆いているわけにもいかなくて、なんとも言えない脱力感を抱えたまま身体を起こそうとしたときだった。
薄っすらと差し込む光の先に、深い紫色の何かが見えた。
明らかに落ち葉の色でも土の色でもないそれに引き寄せられるように、私はその何かに目を凝らす。
濃紫の端からは、桃色の細長いものが二本、飛び出している。一瞬、ミミズかと思ったけれど、先端に丸いものがついていたから、すぐに違うとわかった。
どこかで見た色の合わせに、心臓が一つ大きく脈打つ。
恐る恐る近づいてみて、それが何であるか判明したとき、私は息を呑んだ。
こ、これ……!!
小さな、濃紫の飾袋。
それはこんもりと盛り上がっていて、中に何かが入っているのがわかる。
逸る気持ちを抑えて苦戦しながら中身を取り出すと、薄水色の美しい石が、ころりと中から転がり出た。
見間違えるはずなんてない。
それは、私がセイレア様に頂いた、小さなセレスタイトの原石だった。