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18.こころの在り様



 鳥の巣頭さんが退室して、部屋には閣下と私だけが残された。


 まだ朝日が昇り始めて間もない時間帯、いつも閣下は紅茶だけを飲んで直ぐに仕事に執りかかる。だから、私はミルクを飲み終わって口元を拭いてもらったら直ぐに閣下の膝から降りることにしていた。

 閣下はソファに移った私を捕まえて執務室まで一緒に連れて行くこともあるし、そのまま置いていくこともある。私はそんな閣下に合わせて、連れて行かれたときは執務机の上で大人しくしていたし、そうでないときはテラスから外の景色を眺めていたりした。

 それがこの一週間近くの間で出来上がった朝の過ごし方だった。


 でも、今日は膝の上から降りることを躊躇ってしまう。


 邪魔になることはわかっているのに、気持ちが妙に落ち着かなくて、もしも置いていかれたらと思うと、いつになく胸が詰まった。

 閣下が私を置いていくことは今までだってあったことで、特別なことじゃない。執務室の扉はきっといつも通りに開けておいてくれるだろうし、なにも森に置き去りにされるわけでもないのに、同じくらいの怖さが胸に浮かんで、それが私の足を閣下の膝の上から離れられないようにしていた。

 急に気持ちが弱くなってしまったみたいだ。身体だけじゃなく心まで幼くなってしまったみたい。

 これじゃあまるで、出かける母親に縋る子供じゃないの。そう思ったら恥ずかしくて堪らなくなった。

 羞恥と申し訳なさで居心地が悪いのに、それでも膝から降りられず視線すら上げられないまま、私は黙して身を縮める。

 今は閣下のいつもの無表情でさえ、私への猜疑の念が篭もっているんじゃないかと深読みしてしまいそうな自分が嫌だった。


 ――どうしよう。閣下、絶対おかしいと思ってるよね?


 いつもは鳥の巣頭さんの退室と共にいそいそと膝から降りるのに、未だにそこに居座っていればそう思って当然だ。でも、いつも通りに振舞うには心が混乱しすぎていて、閣下の側を離れることができないんだ。

 ひたすら息を殺すようにして、全神経を閣下に向ける。

 閣下も動かないからそのまま時まで止まってしまったように思えたけれど、静寂が流れたのはたぶんほんの短い時間だった。

 置物みたいにじっとしている私の頭上から、軽いはずの私の毛を揺らさないほど小さな吐息が、ふっと零された気配がした。

 溜息ほどには重くなかったけれど、呆れられてしまったのかと焦りが増す。こんな些細なことで怯えるなんて本当に馬鹿だと思うのに、勝手に心が萎縮してしまうから自分でもどうしようもなかった。

 動揺しながら次の閣下の行動を待っていると、急に視界がぐらりと揺らいだ。


 ――っ!?


 突然のことに声も出せず、数回瞬いてぶれた視界を落ち着かせる。

 何が起きたかは直ぐに分かった。

 分かったんだけど……、どうして?


 閣下が私をお腹まで引き上げ、抱えたままソファにだらりと横になってしまったんだ。


 いつもなら、紅茶を飲み終わって鳥の巣頭さんが居なくなったら直ぐに執務室へ向かうのに。

 今までにない行動に、私は頑なに逸らしていた目を思わず閣下に向けた。

 閣下は、涼しい――ように見える無表情で、こちらを見下ろしていた。


 動かない閣下に、やっぱり私が邪魔だったんだろうかと落ち込みかけて、でもそれならいつものように鷲掴んで退ければいいだけだと思い直す。

 じゃあもしかして具合が悪かったのかと慌てて、まじまじと見た顔がいつもの血色をしているのを確認して安堵する。ほっとしたら、もし閣下の具合が悪ければ、鳥の巣頭さんが真っ先に気づくだろうということに気づいて胸のうちで苦笑した。


 でも、ならどうして……?


 目まぐるしく考えても答えは出なかった。


「?」

「……」


 今日はお仕事をしなくていいんだろうか。

 もしかして昨晩は寝不足だったの? もう一度眠るつもりなのかな。

 そう思ったけれど閣下が完全に瞼を閉じる気配はなくて、やっぱり閣下の行動の意味がわからず、私はただ首を捻るしかなかった。


 閣下はソファいっぱいに均整の取れた身体を投げ出して、くつろいだ体勢を取っている。私が拾われてきた最初の夜を思い起こさせる姿で、あのときは本当に人形だと思ったんだったと、ちょっとだけ懐かしくなってしまった。

 あまりお行儀のいい姿勢とも思えないのに、肘掛に零れる銀色の艶やかな髪やソファに流れる白い長衣は整えられたように綺麗で、仮面に嵌め込まれた貴石が朝日に煌く様は、そのまま名のある画家がこぞって筆を取りそうなくらいだ。

 ただ寝そべっているだけで絵になる閣下は、そのままの姿勢でお腹の上の私を静かに撫で始めた。

 さっきまで全身に力を入れていた余韻で、触れられた瞬間少しだけビクついてしまったけど、そんな私に頓着することなく閣下は黙々と私を撫で続ける。

 慣れた温かさが背に流れて少しだけ気持ちが落ち着いてくるのを感じた。


 閣下と二人きりの空間は本当に静かだ。

 私は人の言葉を喋ることが出来ないから滅多なことでは声を上げないし、閣下も同じくらい無口だから、鳥の巣頭さんが居ない部屋は静寂に満ちている。

 人がいるのに流れるこの静けさが、いつも私に冷静に考える時間を与えてくれていた。

 私は閣下のお腹の上で伏せながら、ぼんやりと閣下を見上げる。

 本当に、閣下は何を考えているかわからない人だ。それは鳥の巣頭さんとは種類の違うもので、鳥の巣頭さんの笑顔の向こうには何か企んでいそうな怖さがあるけれど、閣下の場合は無表情の先が“無”なんだ。

 何も考えていないとか感情が無いということではなくて、それらを読み取れないということで、企みごとさえ匂わせないだろうということでもあった。


 閣下が何を思っているのか知りたい。


 突然そんな思いが浮かんだとき、ずっと私の背中を撫で下ろしていた閣下の手が、ぴたりと止まった。


「――昼餐までに戻れ」


 ぽつりと、閣下が言った。

 私はせっかく落ち着いた心を波立たせないよう、忍び寄る不安に気づかない振りで首を傾げてみせる。

 閣下が何を言いたいのか、もう少し話して欲しかった。

 また暫く沈黙が降りる。

 閣下も首を捻る私を見て、何か考えているようだった。


「……お前の身体では、屋敷内と言えど部屋の外は危険だ」


 セネジオも私も目が行き届かない。そう閣下は続けた。

 私は、今までで一番長く閣下の声を聞いた、と変なところに感動しながら、その言葉の内容に驚愕していた。


 だって、これって、私のことを心配してくれてる、ってことだよね?


 閣下が鳥の巣頭さんの提案に躊躇ったのは、いくら私が元気になったとはいえまだ身体が小さい私が、誰も側につくことなくお屋敷を歩き回るのは危険だと思ったからなんだと気づいた。決して、私のことが不審で屋敷に野放しにするのを心配したわけじゃなく、私自身のことを心配してくれていたんだ。

 それがわかって、連鎖的にもう一つ気づいたことがあって、私は先ほどまで不安で堪らなくなっていた自分が猛烈に情けなくなった。


 閣下が私を信じてくれていないかもしれないなんて思って不安になった癖に、本当に信じきれていなかったのは私の方だった。閣下に寄り掛かりきって気持ちを預けていた癖に、少し不安になったからって閣下を疑ったのは私の方だったんだ。

 

 確かに閣下の表情は分かり難くて、何を考えているかは分からないことが多い。

 でも、端々に見え隠れする閣下の“感情の欠片”は温かかった。それを私はこの一週間足らずの間で垣間見て来たはずだ。だからこそ、直感的に閣下を頼ろうとしていたんだと思う。この人なら信じられる、って思ったんだ。

 それなのに、自分が生み出した不安に負けるなんて。


 少し前の晩に鳥の巣頭さんが私を試すような行動を取っていたと知ったことで、これからは何も考えずに行動するのはやめようと身を引き締めた一方で、何処かに足場が揺らいだような不安が残っていた。それが少なからず影響したんだろうとは思うけれど、それでも。

 私を拾って屋敷に置いてくれると言った閣下に、私は頑張って恩を返すと決めたんじゃなかった?

 立派な騎獣になって、役に立つと息巻いていたのに。


 私が閣下を信じていなきゃいけないんだ。


 そうすれば、私はしっかり立っていられるんだと思う。

 閣下にもしも捨てられたら、と思うと今でも怖い。でも、そんな起こるかどうかもわからないことに不安になって結局身動きが取れないなら、実際に見放されたときの結果と何が違うんだろう。

 ただ閣下の心証だけを窺って何も出来ずにいるなら、たとえ不審が深まらなかったとしても、閣下だって最後には役立たずの烙印を押してしまうかもしれない。閣下の側にいれば、少しずつ魔獣の雄としての生も受け止められると思った、その気持ちも投げ出すことになってしまうかも。

 頼り切っていたのは事実だけれど、これからはちゃんと目の前の見るべきものを見ていこうと思った。



「キュウッ!」


 私は閣下に大きく一声鳴いて、背中に乗っていた閣下の手を避けると、その手を一生懸命舐めまわした。


 ……えっと、変な言い方だけれど、私、魔獣だからね……?


 心配をしてくれていた閣下へのお礼と、疑ったことへの謝罪を込めて。

 伝わるかわからなかったけれど、閣下に目を向けたら、ちょっと目が細まっていたから何となく伝わっているのかな、と思うことにした。






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