17.不安定なこころ
「……」
――う。
「……」
――あうっ。
「……」
――うえー。
私は今、閣下の膝の上で苦行に耐えていた。
閣下の手にはお湯で湿らせた手巾が握られている。
閣下は真剣な顔……ではなく、いつも通りに無表情で、窓から差し込む金色の朝日を銀の煌きに変換して輝いていらっしゃる。
あれ、人間って自然発光するものだったかな?
朝からそんなきらきらしい閣下に、手巾で私が何をされているかというと。
ただミルクで汚れた口元を拭われているだけ。
だけ、なんだけど……。
何せ閣下は不器用なので。
頭を撫でるときと同じように、私の口元を拭う閣下の仕種は乱ぼ……いえ、力強くていらっしゃる。
あんまりぐいぐいするものだから、私の口は半開きになってしまって、絶対に変な顔になっていると思う。……鳥の巣頭さん笑ってるし。
口の周りもちょっと痛いです、閣下……。
わざとじゃないよね……?
いや、元はと言えば私がミルクを飲み散らかすからいけないんだ。
困ったことに、私はどうにも本能で補完できないほどにミルクを飲むのが下手みたい。
注意をしていてもいつの間にかお皿の周りにまで零してしまっているし、飲み終わる頃には口の周りもびしゃびしゃになっている。
結果、私の口の周りは食事が終わる度に誰かに拭ってもらうことになってしまっていた。すごく申し訳ないです。
誰かと言っても二人しかいないから、最初の頃は鳥の巣頭さんがちゃんと丁寧に拭ってくれていた。
鳥の巣頭さんは私のことを不審だと思っているのに、きちんと世話を焼いてくれるのは仕事だからなのか、単に面白がっているのか。顔を見ると割りと楽しそうにしているので後者かもしれないけれど、そうだとすると本当に、鳥の巣頭さんって人はわからないな、って思う。掴みどころがなくて、何が彼の不審感を深めるかわからないから、ちょっと怖い。
閣下はそんな鳥の巣頭さんが私の世話を焼くのを見るとも無しに眺めていて、特に何か反応を示すことはなかった。
でも何を切っ掛けにか、私の口元を拭う作業に閣下が興味を持ってしまったらしくて。
以来、ミルクを飲んだ後は閣下が私の口元を拭いてくれるようになった。
「……」
手巾をぐいぐい押し付けられて、首が仰け反る。うう。
頭を撫でるときと一緒で、どう見ても力加減を間違っているんだけれど、それに気づいているはずの鳥の巣頭さんは訂正を入れてくれない。それどころか凄い笑顔で眺めているので、やっぱり絶対に面白がっているんだと思う。
厨房での一件以来、鳥の巣頭さんの笑顔を見ると無性に噛み付きたくなるのはどうしてだろう……。でも実行すると確実に返り討ちに合う予感がするので、耐えている。
閣下の動作はまだ少し乱暴だけど、回を重ねる毎に余分な力が抜けていっているから、成長はしているんだなあ、と実は微笑ましく……は流石に思えないけれど、一応、学習はしているようだからこちらも我慢だ。
それに閣下の場合、作業が終わった後に、ほんのちょっとだけ満足げな空気を出すのが面白いんだ。
表情はそんなに変わらないんだけれど、灰青色の瞳が満足げに少しだけ細まるのに気づいたときは、驚いたというか可笑しかったというか、嬉しかったというか。複雑な気持ちになって困った。だって、閣下の表情が動くのはとっても貴重なんだもの。
それはさておき、もうそろそろ終わって欲しいかも。
そう思い始めた頃、鳥の巣頭さんが笑いを噛み殺すような声で言った。
「閣下、そろそろセレスタを部屋の外に出してやっても宜しいんじゃないですか?」
只今絶賛成長中の閣下の手がぴたりと止まる。
「セレスタも閣下の仕事中には退屈でしょうし、執務室と私室の往復だけでは、運動不足にもなります」
――え! 外に出ていいのっ?
唐突な鳥の巣頭さんの言葉に一瞬反応が遅れた私だけど、内容を理解すると同時に閣下の手を押し退ける勢いで跳び起きた。……ちょっと膝から落ちそうになった。でも、それだけ嬉しい提案だったんだ。
閣下のもとで生活し始めてもうすぐ一週間が経つ。
だけど私の行動範囲といえば、閣下の私室と執務室、あとは湯殿や食堂だけで、湯殿と食堂に至っては移動は閣下の手によってなので自由に行けるわけではなかった。
小さな身体だから直ぐに疲れてしまったりもするけど、鳥の巣頭さんの言う通り、自由に動けるのは閣下の私室と執務室の中だけ、というのは流石に飽きてきていたのだ。
生まれ変わる以前は忙しく立ち回る仕事だった所為か、一所にじっとしているのは何処か落ち着かない。特に活動時間である昼間は、転寝から覚めるといつも身体を動かしたくなっていた。
だから、鳥の巣頭さんからの提案は、この前の厨房での出来事を水に流してあげてもいいかも、と思えるくらいに嬉しい。
私は急いで閣下を仰ぎ見た。提案に対する最終的な決定権は閣下にあるから、瞳に期待を込めて閣下を見つめる。でも何故か閣下は無言で静止していた。
――あれ。……駄目なの?
閣下は返答をしないまま、鳥の巣頭さんにちらりと視線を投げた。その視線にはほんの少し棘のようなものがあった気がして、私は首を捻る。
……気のせい?
閣下は直ぐに瞑目してしまったので、瞳に浮かんだものが何であったのかははっきりしなかった。
私がお屋敷を歩き回ることは、何か問題があるのかな?
許可を渋るような何か……。
もしかして。
厨房で鳥の巣頭さんに脅されているときは庇ってくれたけど、実は閣下も私の素性を怪しいと思っていた? だからお屋敷を勝手にうろうろされるのは気分が悪いとか……。
頭に浮かんだ可能性に、急に不安が押し寄せる。
閣下に私の素性を疑われるのは、正直、鳥の巣頭さんにそうされるよりも、ずっと辛い。
まだそうと決まったわけじゃないけど、想像するだけで胸をひやりと冷たいものが撫でていく。
そこで唐突に気づいてしまった。
私はいつの間にか、ほとんど無防備と言っていいほどに閣下に心を預けていたんだ。閣下も私のことを無条件で受け入れてくれていると、何故か確信的に思ってしまっていた。
私の中で閣下は、既にとても大きな存在になっている。
ファラティアの記憶を持ったまま生まれ変わって、記憶とはまるで違う生を送らなくちゃいけなくなった。性別までもが心とはちぐはぐで、どう折り合いをつけたらいいのかわからずに投げやりにもなった。
なんとか上辺だけは受け入れると心に決めた私が、本当の意味でちゃんと向き合っていこうと思えたのは、閣下のお陰であるところが大きい。
閣下の周りにはいつも静かな空気が流れている。人形のように整っていて、仮面に覆われた顔に表情は無く、たまに動きでさえ止まっているから、本当に精緻な人形かと見紛うことだってある。
でもいつも側に居てくれて触れれば温かくて、私にとっては閣下の何にも動じない揺ぎ無さが、落ち着いて考えるゆとりと安心感を与えてくれていた。
時折沈みそうになる思考も閣下の突拍子のない行動のお陰で沈みきらずに済んでいるのだとわかっている。
静かに考えるときと、考えすぎないような配慮。意識してなのかはわからないけれど、そういう閣下の雰囲気が、何か見守ってくれているみたいに私には思えていた。
拾ってもらってまだほんの一週間足らずだけれど、自分自身でさえ受け入れることの難しかった私を躊躇うことなく側に置くと言ってくれた閣下。反対していた鳥の巣頭さんを即座に退けた閣下。そんな閣下を見て、私は勝手に味方だと判断してしまっていたのかもしれない。そして知らず知らずのうちに寄り掛かり始めていたのかも。
たとえ、閣下にとってはただの幼い魔獣に見えるからこその行動だったとしても、転生してからは何の拠り所もなかった私が閣下に支えを求めるのは、ごく自然なことだったんじゃないかと思う。
それなのに、もしも閣下が私に疑いを持っているのだとしたら。
私が寄り掛かっていたものが、実はそれほど揺ぎ無いものなどではなかったということになる。
心が寄り掛かり始めていた私は、閣下に見放された瞬間、支えを失ってしまう。
見通しの利かない魔獣としての人生、何を頼りに頑張ればいいのか、わからなくなってしまう。
まるで道を照らす光を失ったように、前へは進めなくなってしまうんだ。
そしてきっと、現実的にも身動きが取れなくなる。
だって、些細な言動から疑いを深められて閣下に放り出されたら、そこで私は本当に途方に暮れることになる。魔獣として生活していく気力もなく、知識もなく、どう生きていけばいいのか……。
ああ、私って凄く勝手で、無責任だ。
これではまるで、私の全てを閣下任せにしているようじゃないか。ううん、実際に全て閣下に覆い被さっている状態なんだ。閣下に自覚がなくても、実情がそうであることに変わりは無い。
もしも閣下が私に不審を抱いていたとしても、閣下は何も悪くない。
こんなに不安になるのは、私が一方的に閣下に頼り切っていたのが悪いんだ。
大丈夫だと思っていたのに、私の気持ちは今すごく危うい位置で保たれているんだと、気づいてしまった。
鳥の巣頭さんの嬉しい提案のことなどすっかり頭から吹き飛んで、私はひたすら閣下の様子を伺った。顔色とか、機嫌とかではなくて、何を考えているのかが少しでも知りたかった。
鳥の巣頭さんには、私の身の潔白は時間を掛けて証明すればいいと思っていた。疚しいことなんてないから、時間を掛ければわかってもらえると思っていた。
だけど、閣下には今すぐにでも私は何も企んでいないと弁解したい。
閣下に危害を加えることなんて有り得ないから、感謝の気持ちしか持っていないから、だから見捨てないで欲しい。そんな身勝手なことを、本気で訴えたいと思った。
人の言葉を話せないことがこれ程にもどかしいと思ったのは初めてだった。
――どうしよう。
私は自分の中に湧き出た不安と焦燥で、完全に混乱し始めていた。ことの始まりは、ただ行動範囲を広げるという些細な話題だったはずなのに。
――閣下にとって、本当に私は信用ならない怪しい獣なの?
未だ瞑目して何かを考え込む閣下に益々不安が募って、どうしていいかわからなくなる。
何か言おうかと口を開けるけど、ああ喋れないんだった、と思い直して声を発しないままに閉じた。
それを何度か繰り返している中、重く感じる静寂を破ったのは鳥の巣頭さんだった。
「何か懸念事でも?」
その言葉にどこか面白がるような音が滲んでいるのにも気づかないまま、私はひたすら閣下を見つめていた。
――懸念、って。やっぱり疑っている……?
閣下はソファに背を預け黙然と瞑目していたけれど、暫くして徐に瞼を開いた。少し俯き加減だったから、膝の上にいた私と視線が重なる。灰青の瞳は凪いだ色をしていた。
「……否」
静かな声が降ってくる。
「許す。――但し、朝餐と昼餐の間だけだ」
その言葉だけでは許可までに躊躇った理由を解釈するには足りなくて、私は喜ぶことも出来ずに閣下と視線を合わせたまま固まっていた。ゆっくりと上下する銀の睫毛の奥の瞳も、何も語ってくれない。
「承知致しました。では、まずは私以外の使用人にセレスタを紹介しなければなりませんね。本日の朝食が済みましたら、セレスタをお借りします」
鳥の巣頭さんはそう言って、静かに退室していった。
私の心に浮かんだ不安は、まだ澱のように胸のうちに広がっていた。