01.天使の悪ふざけとその代償
「……どうしてこんなことに?」
ファラティア・リングベルは、大きく嘆息した。
俯いた拍子に、ハニーブロンドの髪が肩を滑り落ちる。それを視界の端に捉えると頬を引き攣らせ、さらに肩を落として項垂れた。
本当に、何故こんなことになってしまったのか。
既に馬車に揺られて数刻経つにも拘らず、ファラティアは往生際悪く考える。
どうにか逃げ出せないものか、馬車を止めて引き返すことは出来ないか。
しかしどちらもファラティア自身の頭が制止の声を上げるので叶うことはない。
結局、そわそわと落ち着き無くドレスの裾を撫で、また溜息を零すという非生産的な行動を繰り返すしかなかった。
大切な主人の頼みとは言え、これから行なおうとしていることはどう考えてみても危険に過ぎる。
明るみに出れば、自分の命は当然ながら主の立場、延いてはその家族までが徒では済まないのは明白だ。
それなのに、お願いね、の一言で有無を言わせず自分を送り出してしまった主が恨めしい。
反対したとは言え、結局丸め込まれてしまった自分自身はもっと恨めしい。
◆◆◆◆
暖かな日差しの差し込む主の私室にて、主を前にファラティアは目を瞬いた。
何か、とんでもない言葉を耳にした気がするのだが、気のせいだろうか。
そういえばここのところ耳の掃除を怠っていたかもしれない、と無駄な逃避をしてみたけれど、脳にまで到達してしまった言葉を排除することは不可能だった。
何より、目の前の主人の美しい微笑みが逃避など許してくれなさそうだ。
「まさか、とは思うんですが――」
ファラティアは一度言葉を途切れさせ、唾を飲み込んだ。
喉がひどく渇いていて、必要以上にゴクリと嚥下の音が響いた気がするのは、きっと気のせいじゃない。
次の言葉を口にするのはとても勇気がいる。
生まれた妙な間を埋めるように、窓の外を小鳥がピチチ、と軽やかに囀りながら横切っていった。
主人は紅茶を手に、優しく穏やかに微笑んでいる。
暖かな日差しに小鳥の囀り、柔らかな主人の微笑み。
(――あれ? 冷や汗を掻いている私が可笑しいのかな……?)
一人緊張に身体を強張らせる自分が場違いなようで、ファラティアは首を傾げそうになった。
実際にそうしなかったのは、今まで何度も同じような状況に立たされた経験の賜物だ。全然、嬉しくはない。
ファラティアは、主の醸し出す穏やかな空気に流されそうになる自分に喝を入れ、ソファに座る主人を強く見返した。
「…………」
「…………」
見返して、強い意思を込めたはずの視線は、主人のきらきらしさに即刻弾き返された。
小さい頃から見慣れていても、その美しさには改めて感心する。
ハニーブロンドの長い髪は窓から差し込む日差しを弾き煌いており、まるで祝福の光が散っているようにすら見える。
今日のように晴れ渡る空のような青い瞳は、どこまでも澄み渡っている。
強い日差しに屈しない白い肌はほんのりと薄紅に染まり、その容貌はまさに天使のような清廉さである。
しかし先ほどの言葉が聞き間違いでないなら、目の前の天使は本来の仕事を放棄し、死神の仕事を肩代わりしたとしか思えない。
即ち、死亡宣告だ。
少なくとも、ファラティアにはそう聞こえた。そうとしか聞こえなかった。
それでも、そうでないことを願って確認せずにはいられない。
ファラティアは気を取り直すように息を吸うと、目の前の麗しい主人に向かい、殊更ゆっくりと問いかけた。
「セイレア様? 聞き間違いかもしれませんが、今、私に、セイレア様の代わりに……セイレア様の振りをして、ご縁談相手に会って来い、と仰いました……?」
セイレア様は天使、セイレア様は天使、死神じゃない、と心の内で呪文のように繰り返して待ってみた結果、
――にっこり。
「っいやいやいや! 笑顔とか、今は全然、いらないですからっ!」
呪文を中断して内心叫び――いや、遠慮なく実際にも叫んでいたようだ。ファラティアは衝撃を抑えきれなかった。
突然の大声に主人の大きな瞳がさらに大きく丸くなっている。
しかし主の驚きなど、この際かまっていられる場合ではない。
先ほどの主の微笑みがどんなに美しかったとしても、あれはファラティアの問い掛けへの肯定である。それはファラティアにとって、死神が大鎌を一振りしたに匹敵する威力を持っていた。天使から受けた仕打ちとは到底思えない。
「無理です! 無理無理! よく見てください、セイレア様! 私とセイレア様は一つも似ているところがありません! いえ、身長は同じくらいですけれどっ。でもそれだけじゃないですかぁ!」
そうかしら? と可愛らしく小首を傾げるセイレアの目が心配になってくる。
一目で別人と判るのに、身代わりなど出来る筈が無い。
ファラティアとセイレアは身長こそほぼ同じであり、年齢も大きく離れているわけではないが、共通項はそれくらいだ。
一介の侍女であるファラティアは貴族も貴族の伯爵令嬢であるセイレアとは、所作も見た目も滲み出る心の強さも、何もかもが違う。
確かに、ファラティアだとて腐っても伯爵家の侍女だ。伊達に幼い頃からセイレアに仕えているわけではない。見よう見まねだが所作は何とか誤魔化せるかもしれない。
頑張れば優雅な所作もできないことは――。
ほんの数瞬考えて、いやいや、とファラティアは激しく首を振った。
そもそも、所作よりも見た目を誤魔化せない時点で身代わりなど無理な話だ。
外貌で一番顕著な違いが髪で、天使と見紛うセイレアの髪はハニーブロンドで腰ほどまであるストレートであるが、ファラティアは紅葉のような紅で、顎の辺りから緩く波打っているのだ。長さも後ろは長いが、両サイドが肩につかない程度しかない。
瞳の色だって違う。同系色ではあるが、セイレアの瞳が暖かい春の空のような青であるのに対し、ファラティアの瞳は氷のように淡い水色だ。
さらに身長こそ同じであるものの、体型だって違うのだ。特にその、……上半身のあたりが。
セイレアは男性が皆うっとりするほどの豊かな胸を持っているが、ファラティアは良くも悪くも普通だ。小さくはないが、セイレアのようにコルセットを使わなくともふっくり、というわけにはいかない。
ぱっと見てわかるだけでもこれ程に違いがあるというのに、扮しろとは無茶にも程がある。
百歩譲って、胸は詰め物をし、髪の色は鬘で隠せたとしても、眉や睫毛の色は隠しようがないし瞳の色などは以ての外だ。
魔法で人の目に錯覚を起こし別の色彩に見せることはできるらしいが、それを長時間維持するためにはとても高度な技術と高い魔力を必要とするため、王族でもない限りはそのような魔法を使うことはできないと聞く。
しかも、問題はそれだけではないのだ。
「そ、それに! セイレア様のご縁談相手とは、あの、ベルツバラム大公閣下とお聞きしていますっ」
「その通りよ? 私のファラ」
何か問題でも? とでも言いたげに、どこまでも穏やかに告げる女主人に、ファラティアはいっそ幼馴染の誼で敬語も何もかなぐり捨てて泣きつきたい気持ちになった。
「その通り、ってそんなあっさり! 大公閣下と言えば、一度は王として国を治めた方ですよ!? ……そういえば、まだお若いのに何故慌てて王位を譲られたのでしょう?」
言ってから、ファラティアは直ぐにハッとして、セイレアが何か言う前に声を上げた。
「そんなの今関係無いです! 何言わせるんですか!
とにかく、大公閣下は退位してからもベルツバラム領を治めていらっしゃるんですよ!」
「そうね」
(その通り、とか、そうね、とか肯定のお返事が欲しいんじゃないですっ)
ファラティアは内心叫んだ。
自分で自分の言葉に突っ込むような可笑しな言動をしながらファラティアが言いたかったのは、要するに、彼女にとってセイレアの縁談相手であるベルツバラム大公は、中でも一等高い位置にある雲の上の人だということである。現国王陛下などは雲の上にすらいらっしゃらないわけだが、まあ今はそれは関係ない。
大公閣下は、甥に当たる現国王陛下に王位を譲り退位したとは言え、権威は未だ衰えず、その才覚はベルツバラム領を賜ってからは彼の領地にて発揮されていると聞く。
不思議なことにそれ以上の噂は聞かないのだが、それでも素晴らしい人物であるということに変わりはないだろう。
冷酷無比との噂もないが、それでも、婚約者候補を装って邸へ入ったことが知れれば、伯爵家に仕えているとは言え一介の侍女であるファラティアなど、即刻不審人物として首が胴と別れを告げてもおかしくはないのだ。
ジスダロワ伯の一人娘であるセイレアとて、侍女をそんな形で送り出せば徒ではすまないはずである。もちろん、旦那様とて同じである。
ただし、事実が明るみに出た際、セイレアが知らぬ存ぜぬを通さなければ、の話だが。
そんな非道な主でないことを、ファラティアは信じている。いや、信じたい。
一体、どんな悪い冗談なのか。
ファラティアはクラリと目の前が白く染まりそうなのを必死に堪えた。二・三歩よろめいたのは仕方がない。
「――まあ。ファラ、大丈夫?」
貧血かしら、などと言いながら天使は相変わらず微笑みを絶やさない。
ファラティアは恨めしげに悪びれない天使を見つめながら、嘆息した。
天使の微笑みは決して崩れない。それが、幼馴染であるファラティアの経験則である。
つまり、梃子でも意思は揺るがないわけである。
「……わかりました。他でもない、セイレア様の頼みです。私、死ぬ気で頑張ります」
本当に死ぬかもしれないけど。
頑張りようもないけど。
自棄気味に思いながら、ファラティアは出立の準備をすべく、退室したのである。
◆◆◆◆
「……はあ」
――――ガツンッ
「っ!」
ファラティアがもう何度目かになる溜息と共に夢とか希望とかその他諸々を吐き出した時、突然、馬車に大きな衝撃が走った。
馬の高い嘶きと、堅い地面をざりざりと削るような音が複数聞こえ、嫌な予感に身体が硬直した。
溜息を吐くと幸せが逃げていく、と誰かが言ったのを唐突に思い出した――。