15.侍従たるもの
夕食の時間が過ぎた後の厨房は魔法の灯りが落とされていて、薄暗い。
その中で、ゆっくりとこちらへ身を屈めて来る鳥の巣頭さんの顔は影になっていて、隠された表情がどんなものなのか分からずに不安が募る。
何もしていないのに疑われるなんて。
ここでもまたファラティアの記憶が邪魔をするというの。
私自身が受け入れようと決めた、私が私であった記憶。
ファラティアの記憶を持っていることは、そんなにいけないことなんだろうか。
否定、したいのに。
ああ、それよりも、ご褒美と言った直後に手の平を返したように脅しに掛かるなんて、鳥の巣頭さんはなんて非道なんだろう!
もう頭が混乱して、まともな思考ができない。
身体は本能的に恐怖に反応していて、既に目一杯まで毛が膨らんでいる。喉では自然と威嚇音がぐるるとくぐもった響きを上げ、まだ柔らかい爪が飛び出して調理台をカリカリと引っかく音がする。
そうだ、ここが調理台の上なんて、なんて皮肉。
私は今、まさに調理される前の食材の状態だということに気づいた。まさかそれを意図して、厨房へ連れて来たわけじゃないよね?
でも、たとえそうだとしても、飛びかかって抵抗することは出来ない。飛びかかったとしても直ぐに叩き落されてしまうだろうと本能的にわかる。それくらい、鳥の巣頭さんには隙がなかった。
そして、襲い掛かってきたからとかなんとか理由をつけて即刻処分されそうな気がした。
いくら保護対象の魔獣だとしても、今の鳥の巣頭さんならそれくらい平気でやりそうな雰囲気を持っているんだ。
鳥の巣頭さんは口元に笑みを貼り付けたまま、ゆっくりとこちらに手を伸ばしてきた。
――ああ、もう駄目。
あまりの緊張感に視界がチカチカしてきた時――。
――ゴィンッ! ビヨーン! バサバサバサーッ!
突然厨房に響き渡った音が私のぴんと張った緊張の糸をぶった切って、反動で身体の倍は飛び跳ねてしまった。手足が固まっていたので、うまく着地できないまま私はべしゃりと落下し、目を瞬く。
目の前からは鳥の巣頭さんが忽然と姿を消していた。
――な、何? え?
鳥の巣頭さんの消失と共に、辺りの張り詰めた空気までもが霧散してしまったみたいだ。厨房には夜の静寂だけが満ちている。
状況の急な転換についていけず呆然としていると、間もなく身体に衝撃が……。ぐぇっ。
……この胸を絞るような苦しさは。
「……遊ぶな」
うん、この簡潔な物言いはまさしく――。
見上げたら予想通り、薄灯りにも煌く閣下の白銀のお姿があった。
光量を落とされた魔法の灯りでは厨房の隅さえ照らしきれていないというのに、そんな僅かな灯りを集めて発散しているかのように、閣下は光輝いて見えた。
――……後光?
まさに救いの神のようなお姿。ああ、助かった……!
閣下はまだ少し硬直していた私のお尻から足に掛けてを左手で支え、同じ方の腕に寄りかからせるような形で私を持ち替えた。少しは私のことを持ち慣れたみたいだ。――って、そんなところに感心している場合じゃなかった!
体勢が安定し、慣れた体温を感じた私は多少冷静さを取り戻して、閣下の視線を追って下へと目を向けた。
閣下の足元にはこんもりと本の山が出来上がっているのが見えた。……厨房なのに。
――本の山。
そういえば、つい先日もこんなことがあったような……?
記憶を探っていると、床に積もった本が俄かに震えだした。
本の下からは低く振動に合わせてクックッという得体の知れない音が響いてきて、思わず閣下にしがみ付いてしまう。
――こ、怖!
いや、わかってる。うん。わかってるの。下には鳥の巣頭さんが埋まっているのは分かっているんだけど……。
でも、怖いものは怖い。
振動によって本の山はどさどさと雪崩を起こし、まるで波を割るように鳥の巣頭さんがプハァと頭を出した。昨日と同じく綺麗に撫で付けられていたはずの栗色の髪の毛は、頭から本の雨を浴びた所為で初日のようにめちゃくちゃになっていた。そっちの方が鳥の巣頭さんらしいんだけどね。
鳥の巣頭さんがゆっくりと立ち上がると、周りにあった本は執務室のときと同じようにふわりと浮いて折れ曲がったところは元に戻り、するすると厨房の外へ消えていった。
あ。あと、最初のゴィンっていった音の正体である鍋もちゃんと調理器具のところへ戻っていった。……結構、硬そうな鍋だったけど、鳥の巣頭さん、頭大丈夫かな?
鍋が追加されていたのは、前のときより厳しいお叱り、ってこと……なのかな。閣下的に。
鳥の巣頭さんはこちらに背を向けていて、その表情は未だに見えない。ただ、肩がぶるぶると震えている。
怒りの所為かと怯えながら見つめていると、くるり、とその場で鳥の巣頭さんが振り返った。
振り向いた顔に浮かぶ表情は――。
「――プッ、アハハハハハハッ」
表情を確認するまでもなく、厨房に朗らかな笑い声が響き渡った。
……。
……頭おかしくなっちゃった?
不穏な雰囲気から一転、お腹まで抱えて笑い転げている。
やっぱりあの鍋の所為で……なんて、ちょっと心配になって閣下を見上げてみた。
でも視線に気づいた閣下はぴくりとも表情を動かさず、気にするな、とでも言うように私の顎をするりと一つ撫でただけだった。
……それどころじゃないんだろうけど、その仕種が妙に艶っぽくて内心少し動揺してしまった。閣下、無駄に魔獣にまで色気を撒き散らさないようにお願いします。
私の動揺など気づかない閣下はそのまま静かに鳥の巣頭さんの方を眺め始めたから、私も黙って鳥の巣頭さんの笑いが治まるのを待つことにした。
程なくして鳥の巣頭さんは一人嵌まっていた笑いの渦から脱出した。ちょっとだけ余韻を残しつつ。
「いやあ、ごめんごめん! ちょっと脅かし過ぎちゃったかな? アハハハ」
ちょっとどころじゃないよ! 笑い事でもない!
思わず心の中で叫んでしまう。そんな軽い空気じゃなかったよね?
「しかし凄いなあ。セレスタ、毛を逆立てると、まん丸になるんだね!」
正に毛玉だアハハハ、って。
……引っ掻いてもいいかな? 噛み付いても許されるよね?
さっきまでの不穏な空気は何処へいったのか。本当に調理されてしまうんじゃないかと命の危険まで感じたというのに、その原因たる鳥の巣頭さんは暢気に笑っている。
私が人の言葉を、細かな内容に至るまで理解しているのが不審だと言って、威圧感たっぷりに迫ってきていたのに。
その落差に少し腹が立ってきて抗議の声を上げたら、鳥の巣頭さんは『ごめんごめん』と悪びれない様子で謝ってきた。全然反省してないでしょ!
「不審なところが沢山あるのは本当だろう?」
私が理解していると確信した上で、私自身に向かって鳥の巣頭さんは言う。
ああそうか、とそこで思った。
鳥の巣頭さんは、私を人格のある個人のように扱ってくれていると思い込んでいたけれど、本当はそうじゃなかったのかもしれない。最初は本当に何気なくそうしていたのかもしれないけれど、途中からはきっと違う。
どこかで、閣下や鳥の巣頭さんの言葉に対する私の反応が的確過ぎると気づいてからは、自然な調子で私に話しかけながら、私がどう反応するのかを試していたのかもしれない、と気づいてしまった。
そんな考えに至ったら、少しだけ悲しくなった。嬉しいと思っていたことだったから尚更に。
でも、それが当然の対応なんだと思う。
主を守るのが仕えるものの務めだし、少しでも不審な芽は花開く前に摘み取らなきゃいけないんだ。
その点では、どんなに軽薄そうに見えても、鳥の巣頭さんは優秀な侍従なんだろう。
だけど、やっぱり疑われるのは辛いし、寂しかった。
一番シリアスな外見の癖に、率先してシリアスをぶち壊す閣下です。無意識の産物。