13.温かくあるために
私が拾われた日を含めて、四日目の朝が来た。
昨夜はソファの上で眠ったはずなのに、気づくと閣下のお腹の上だったのは相変わらずで、目覚めた瞬間には少し混乱した。
だけど、昼間に何度も膝の上で目覚めたりしている私は、四日目の朝にして、目覚めて最初に閣下の姿が見えることにも少し慣れてしまったようで。昨日の朝のように寝台から転がり落ちるようなことはしなくて済んだ。
ちょっと図太すぎるんじゃないかとは思う。
でも、閣下にとって私は魔獣以外の何ものでもないと考えると、私ばかり恥ずかしがっているのも虚しいような気がして来て、少し開き直った部分もあるんだ。
それに実は私、閣下は私の体温で暖を取っているんじゃないかと疑っていたりする。
夜はまだ少し肌寒い季節だし、何より、わざわざ結構な重さのある魔獣の子供をお腹の上に乗せて眠る利点なんて、それくらいしか思いつかない。……絶対苦しいと思うんだけどなあ。
寒いなら上半身にもちゃんと衣を身につければいいと思うのだけれど、たとえば下穿きの中に上衣の裾を入れないと落ち着かない、という人がいるように、閣下も上半身は裸で眠らないと落ち着かない、という人なのかもしれない。
ということで、あんまり深くは考えないに限る、と思ったんだ。
居た堪れない気持ちはあるけれど、実は私も温かくて気持ちよかったりする、というのは秘密だ。
そんな目覚めの小さな混乱を乗り切って安心していたのに、今はまた問題が発生している。
朝日も昇りきった頃の執務室で、爽やかなはずの室内にはぴりぴりとした空気が流れていた。
うん。閣下がね、また朝食を拒んでるの。
やっぱり毎朝の攻防だったんだな、と昨日の朝に感じた嫌な予測が当たったことに私は肩を落とす。
「閣下」
「……」
鳥の巣頭さんが執務机の横で笑顔を振りまいている。……怖い。
閣下は押し黙ったままで、今日は私がパンのお皿を鼻先で押しやっても動かない。
もしかして体調が悪いのかな、と心配になったけれど、顔色は悪くは無いし、今朝お腹の上で感じた体温だっていつもと変わらなかった。
なんでそんなに頑なに朝食を拒もうとするのかが分からなくて、私は首を捻りながら閣下と鳥の巣頭さんのやり取り――一方的だけど――を見つめるしかない。
膠着状態を打ち破ったのはやっぱり鳥の巣頭さんで、疲れたように大きく嘆息して言った。
「――閣下。億劫なのはわかります。わかりますが、昨日の昼食も抜いたでしょう」
えっ。昼食を抜いた……?
言われて昨日の昼食時のことを考えみて、閣下が昼食を食べた姿を見ていないことに気づいた。
少なくとも、私は一緒には食べていない。私がお昼頃にミルクを飲んでいたとき、閣下は紅茶だけを手にしていた。
閣下は食べないのかな、とはちらりと思ったけど、閣下が遅めの朝食を摂った後、暫くして私はまた眠ってしまっていたから、その間に閣下だけお昼の食事を済ませたんだと思っていた。
私がミルクを飲んでいるときは、既に太陽が中天より少し傾いた頃だったから、それを疑っていなかった。鳥の巣頭さんも何も言わず閣下には紅茶だけ給仕していたし……。
「私が忙しいことと、セレスタが眠っていることをいいことに、誤魔化したのを知っていますよ」
「……」
鳥の巣頭さんは笑顔でお説教態勢だ。
私は思わず閣下を凝視してしまった。
鳥の巣頭さんと私の目を誤魔化してっ、て閣下。……子供ですか?
両親の目を盗んで嫌いな食べ物をポケットに隠し、食べた振りをしてしまう子供の姿が頭を過ぎる。この場合はちょっと違うけど。
涼しい顔……というか、完全に無表情なんだけど、とにかく冗談の一つも言わないような顔で、本当にそんな子供っぽいことをしたんだろうか、この方は。
閣下を見つめたら、閣下には相変わらず表情はなくて――どころか、瞼も閉じていた。
……寝たふり? ま、まさかね?
無表情で椅子の肘掛に両手を置いて、背凭れに寄りかかって微動だにしない様は、まさに人形のようなんだけれど……。こう、なんていうか、鳥の巣頭さんのお説教を適当に聞き流そうとしているような雰囲気を感じるのは……気のせい、なのかなあ?
なんとも言えない気持ちでいると、鳥の巣頭さんが続けて言う。
「重ねて言わせて頂ければ、昨夜の食事もです。空の食器を見て全て召し上がったのだとほっとしていたというのに、厨房のゴミ箱に夕食の残骸を見つけたときはもう。どうしてやろうかと……! 私の目を盗んで魔法でゴミ箱へ捨てるなど……」
やってた! 嫌いなものポケットに隠す子供のようなことを! 本当にやってた!
思わず絶句してしまう。
でも食事を魔法で捨ててしまうなんて、私の想像した子供より性質が悪いよ、閣下!
どこの幼子ですか、と続いた言葉には激しく頷いてしまいそうなほど、心の中で同意した。
全開の笑顔を振りまく鳥の巣頭さんは、表情とは裏腹に口調は恨みがましそうだ。引き上げられた唇があまり動くことなく言葉が発されているのも何だか恐ろしい。そのちぐはぐさは、私の白い毛がぶあっと膨らんでしまうくらい、不気味。
主人であるはずの閣下に対しても、ぽろっと不遜な発言もあったような……。
そんな黒さ全開の鳥の巣頭さんの様子にも動じない閣下はきっと、既に何度もこれを繰り返していたんじゃないのかな。
……って、ちょっと待って。
鳥の巣頭さんの言っていることを纏めると、閣下は昨日、朝食以外で口にしたのは紅茶だけで、他にはちゃんとした食事をしていないってこと?
しかも、夕食をゴミ箱に捨てたなんて――。
ぷちっ。
どこかで何かが切れる音が聞こえた。
――なんて罰当たりなの!
嫌いなもの、なんて限定的なものじゃなく、食事を全て捨ててしまうなんて。
私は、寒々しい空気の中でも執務机の上でこっそりちろちろと舐めていたミルクを飲むのを中断し、閣下に向き直った。
閣下を見つめたまま、机の上に寝そべる。
食事中に無作法にも程があるけれど、今はそんなことを気にしていられない。
閣下を睨みつけながら思う。
食事は、感謝して食べなくちゃいけないものだ。
人は無機物を食べて生きているわけじゃない。全て、命あるものから、その命を頂戴して生を繋げているんだ。
お肉として戴く動物はもちろん、野菜だって生きている。果実でさえ種のための栄養分であって、それを取るということは新しい命が育つ道を奪って、人はその恩恵を受けているっていうことなのに。
それらを粗末に扱うということは、刈られた命に対して凄く失礼で傲慢な行為だと思う。
それに、食事を作ってくれる人、延いてはその材料を調達してくれる人たちにだって、失礼だ。
働きに対する対価を払っているからそれでいい、というわけじゃない。
働く人にだって感情があって、自分の仕事に誇りを持っている人だって多い。
自分の仕事が誰かの役に立てば嬉しいし、お褒めの言葉を貰えればそれだけで苦労が昇華されたりする。
自分の仕事が、してもしなくても同じであれば悲しいし、まして無かったことにされるなんて……。
閣下にはそんなことしてほしくない。
でも私にはそれを伝える術がないから、私が考えている細かなことを理解はできなくても、少なくとも閣下にそういう行為をしてほしくないと思っていることを分かってもらうためには、態度で示すしかない。
だから、閣下が食事を取らないなら、私もミルクを飲まないと決めた。
命に感謝しなければと言った言葉に反する行為だけれど、私の足りない頭ではそれ以外に方法が思いつかなかったんだ。
せめて、閣下が食事をしないことで目に見えてどこかに影響が出れば、食べてくれるんじゃないかと思った。
「……」
私が動いた気配で目を開けた閣下は、ミルクから顔を背けて寝そべる私を黙ったまま、少し不思議そうに見つめている。
やっぱり寝た振りをしていたんじゃ……と思ったけれど、そこは突っ込まないでおこう。
鳥の巣頭さんは次々とお説教を続けているけれど、私は言葉で何も伝えられないから、ひたすら閣下の目を見つめ返した。
……ただ本当は、食べ物を粗末にしてほしくない、とか、食事に関わる人を蔑ろにしてほしくない、なんて綺麗な理由だけじゃなかった。
食事を摂らないということは、身体はどんどん弱っていくっていうこと。
本人がたとえ必要ないと感じていても、人は生きる上では食事で栄養を補わなくちゃいけない。
食事を拒否するということは、死に近づくことなんだ。
綺麗に筋肉のついた閣下の上半身を見るとまだそれほど影響を受けていないのかもしれないけれど、すごく心配だった。
いくら外見が精巧な人形のように見えても、閣下が生きた人間であること、私は知ってる。
閣下の動きが割と頻繁に静止しているとしても、その膝の上が暖かいことを知ってる。
眠るとき、その胸がゆっくりと上下していることを知ってる。
胸の奥で鼓動が穏やかに打っていることも、身体で感じて知ってる。
閣下は生きてる。
だから、健康で元気に生きられるように、ちゃんと御飯を食べて欲しい。
結局、それが閣下にきちんと食事をしてほしい一番の理由だった。
閣下には閣下なりの理由があるのかもしれなくても、それは譲れないと思った。
そんな私の気持ちの機微を閣下に気づいてもらうことは難しいことだ。でも、とにかく規則正しく必要な量の食事をして欲しくて、私はそれから閣下の食事態度に目を光らせることにした。
閣下の食事事情について、こんなに長引かせるつもりじゃなかったんですが……orz
でもちゃんと理由はあります。