それは突然に(4)
「えっ?」
早山と綜一狼が動くのは同時だった。
早山は素早く、持っていた鞄から小型の刃物を取り出し、楓たち目掛けて振りかざしたのだ。
その瞬間、綜一狼は機敏に反応し、楓をその場から押しやる。
唐突に力を加えられ、楓はバランスを崩し、数メートル先に飛ばされしりもちをつく。
廊下を歩いていた他の生徒達から悲鳴が漏れる。その声で、呆然としていた楓は我に返る。
「!?」
言葉を失う。
そこには、血だらけのナイフを握り締めている早山と、右腕を抑えうずくまっている綜一狼の姿があった。
「くっ!」
綜一狼が眉を顰め、小さくうめたいたのが楓の耳に届く。
「あはっ。あははは・・・・・・」
早山は血の付いたナイフを握り締め、顔面蒼白で干からびた笑いを漏らした。
尋常でないことは、誰の目にも明らかなことだった。
その光景に、楓は言葉を発することすら出来ない。
知らず知らずのうちに、握り締めた両手が小刻みに震え出す。胸の鼓動が早鐘する。
「綜ちゃ・・・・・・」
「楓! 来るなよ」
震える声でやっと紡いだ幼馴染みの名前。
だが、同時に上がった綜一狼の鋭い声にかき消される。
「消えろ。お前など死んでしまえっ!」
早山は奇声を発し綜一狼に襲い掛かる。
(どうして早山先生が綜ちゃんを?)
ギラギラと血走った目で、早山は綜一狼ただ一人に刃を向ける。
横にいる楓にも、遠巻きにそれを見守っている他の生徒たちにも、一瞥さえもしない。
早山と幾度となく言葉を交わしている。
いつもニコニコと穏やかな笑みを絶やさない人。
それが、楓の知っている早山という教師だ。
今まで悪い噂の一つも聞いたこともない。
むしろ、一部の生徒に媚びる教師が多い中、どの生徒にも変わらぬ態度で接しているという早山は、評判が良い方だ。
決して、こんな騒ぎを起こすような人物ではない。
それに、例え何らかの理由で綜一狼に敵意を持ったとしても、これほどまでの憎悪を、いや殺意を抱くものだろうか?
今目の前で起こっている光景が、楓には信じられなかった。
怖くてしょうがないのだが、そこから目を逸らす事は出来ない。
いっそのこと、このまま意識を失えたらとそんなことを思ったりした。
しかし、そんな楓の気持ちとは裏腹に、目の前で乱闘は未だ続いている。
早山はナイフを振り上げ綜一狼に襲い掛かっていくが、それをスレスレの位置で避けている。
綜一狼はそれなりの武術を心得ている。
その動きには無駄がない。
だが、何分狭い廊下での行動である。
すぐにまた襲い掛かってくる相手をただ避けるのには限度がある。
楓の目にも、綜一狼の動きが危ういのがよく分かる。
斬り付けられた綜一狼の腕から、血が何滴か床に滴り落ちる。
勢いで壁に体を付いた後には、血がベッタリと張り付いている。
「や・・・・・・」
無意識意に楓の口から言葉が漏れる。
目を瞑り、耳を塞いでしまいたいという衝動を、楓は寸でのところで押さえ両手を強く握り締める。
昔、これと似た光景を見たことがある。正確にはその後の光景だが。
忘れていた。
いや、忘れようとしていた。それが今鮮明にプレイバックしてくる。
周りにこびり付いた血の色。
切り裂かれた人の肌。
足元に転がる、「人だった物」
もう二度と決して笑うことはない、冷たく固くなった物言わぬ大切な人たち。
それは、暗闇で不意に浮かんだ月明かりで、はっきりと見えた。
「死ねぇーっ!」
「やめてっ!」
早山の奇声と共に楓は動いた。
「楓っ!」
それに気がついた綜一狼が、叫ぶように名を呼んだのが楓の耳にも届いた。
だが、そのまま綜一狼に襲い掛かろうとする早山の腕にしがみ付く。
「くっ! 離せ!」
早山は楓を引き離そうと暴れ出す。
握られたナイフが無意味に空を切りつける。
楓は必死に歯を食いしばりながら、早山の腕に食い下がる。
「もういい! 楓、離れろ!!」
「きゃあっ!」
綜一狼が声を発してすぐ、楓の体がふわりと宙に浮いた。
相手は一見軟弱そうであっても、れっきとした成人男性なのだ。
ほんの数秒争っただけで楓は早山に振り落とされる。
ザッ。
その拍子に、ナイフが楓の手の甲を切り裂く。
手に熱さが走ったと同時に、楓は地面に落下する。
だが、それだけでは終わらなかった。
目の前に翳りを感じて見上げてみると、そこには目を血走らせている早山の姿があった。
早山の放つ威圧感に、楓は床に手を付いたままの状態で凍りつく。
「お前も殺してやる」
今まで聞いたこともないような地を這うような早山の低い声に、楓の恐怖が再び蘇える。
冷水を浴びたように体から血の気が引く。
迫る死の影に成すすべもなく、楓はただ目を見開き早山を見つめる。
自分に向けられたナイフが、静かに迫ってくるのを見た。