夜狼(1)
「綜ちゃん……」
綜一狼の胸に顔を埋めて、楓は子供のように泣きじゃくる。
「遅いっ。どうしてもっと早く俺の名前を呼ばないっ」
怒った声。
でもその声には優しさがにじみ出ている。
「呼んだわ。何度も心の中で。けど、声に出して呼んじゃだめだって思ったから」
「馬鹿だ。どうしてそう思う」
苛立たしげに言葉を吐き出す。
「嘉神綜一狼。こんなところで会うとはな」
聖が低く笑う。
「それはこちらの台詞だな。お前たちのしつこさには感服する」
静かに、けれどその声には、深い怒りが織り込まれている。
「お前ごときが私に逆らうか。その女、コチラに貰おうか」
楓は、自分を抱きとめている綜一狼の手に力がこもるのを感じる。
その力に勇気付けられる。
自分を抱きしめているこの手は信じられると思う。
「綜ちゃん、一人で立てる。ありがとう」
そう言って、楓は綜一狼から体を離すと聖に瞳を向けた。
楓は真っ直ぐ聖を見据える。
「十年前、私は『ヒジリ』に記憶を封印された。空の涙の在り処と一緒に」
綜一狼が驚ろいたように楓を見る。
「ほぉ」
「私がすべてを忘れてしまいたいと、そう望んだから」
『僕がしてあげられることは、こんなことしかないんだ。全部、忘れてしまうといい。僕のことも悲しい悪夢も』
憶えていてほしいと言ったのに、すべての記憶を封印してしまった。
それは『ヒジリ』にとって悲しい選択だったはずだ。
「でも、分からないこともある。あの人は? 私の好きだった『ヒジリ』はどうしたの?」
会って謝りたい。
悲しみに負けて逃げ出して、ずっと忘れていたことを。
「言っただろ。あいつはもういない」
聖はそう言って低く笑う。
「嘘っ。だって、私は『ヒジリ』に会ったわ」
『やっと会えたね』
そう言ってくれたのは確かに『ヒジリ』だった。
「ああ。ほんの数分、俺の気まぐれで表面化させてやっただけのこと。もっとも、もう用は済んだからな。消し去ってやった」
「嘘……」
「それよりも、思い出してくれたのなら好都合だ。やはり、お前には一緒に来てもらう」
聖が楓に瞳を向けたのを見て、綜一狼は楓の前に立つ。
「お前には、二度と楓に触れさせないっ」
そう言うと綜一狼は、聖に殺気だった目を向ける。
バンッ!
「クッ」
その瞳を受けて、聖は不愉快そうに眉根を寄せる。
その瞬間に、楓はその場の空気が瞬時に重くなるのを感じた。
「え?」
自分を守るように盾になっていた綜一狼が、小さくうめきその場に崩れ落ちる。
慌てて支えた楓も、その重さに耐え切れずその場に座り込む。
「綜ちゃん!」
綜一狼の体には無数の切り傷が付いていた。
ガラスの破片が飛んできたかのように、小さな傷が、顔や腕、足に付いている。
「そういうことは、実力を伴わせてから言うんだな。出来もしないことを口にするのは、ただの愚か者だ」
そんな綜一狼の姿を聖は冷たく見下し、そう言い放った。