月と狼(4)
女は月夜の下、歌を口ずさむ。
遠い昔に流行り、そして廃れ捨てられた歌。
しかし、女はその歌が好きだった。
昔と変わらず。
変わることなく。
「予定が少し狂ってしまったわ」
女は歌を止め、呟くように言葉を吐く。
サワサワと風がすり抜けていく。
「ここにおびき出せたんだ。まあ、いいだろう」
風に紛れて声が響く。
木々に囲まれたその場に木霊するかのように。
「……あなたにしては、回りくどくて面倒なやり方だわ」
呟くように言葉を吐く。
「壊したら元も子もない」
風に紛れて答えが返ってくる。
「壊すことしか知らないあなたが?」
どこかイライラと非難めいた言葉。
「お前も楽しんでいるんだからいいだろう……ルナ」
その声と共に姿を現す。
夜狼を束ねる長たる男。
聖。
闇夜がこの上なく似合う男だ。と、ルナは思う。
黒い髪に青い瞳。
美しく冷たい。
見慣れているはずなのに、会うたびにドキリとする。
恐怖とそして愛しさで。
「楽しい? そうね、まるでおかしの家に迷い込んだようで楽しいわね」
クスリと皮肉めいた笑みを零す。
甘い。
甘い世界。
『楓』という少女のいる空間は、どこまでも甘く温かい。
少女は疑うことを知らない。
拒絶されることを知らない。
憎しみを知らない。
彼女の周りには、嫌というほど『負』の感情が満ちているのに、それを溶かしてしまう。
「ここまでご苦労だった。後は俺が行く」
男は笑う。
笑うというよりは、口元を歪ませるというほうが正しいのかもしれない。
「あの子の隣りには『彼』がいるわ」
「だから?」
月明かりの下、男は青い瞳を鋭く光らせる。
「『彼』はあの人の……」
「好都合だ。裏切り者の罪。その身をもって償ってもらう」
「……」
男の言葉に不愉快そうにルナは顔を顰める。
「もっと喜べ。アレさえ手に入れば、夜に紛れて生きることもなくなる。俺たちの力を世界に知らしめることが出来るんだ」
男は煌々と輝く月に手を延ばす。
まるで、それすら掴み取れるというように。
「そんなもの今更……」
美しく狂ったその男を見ながら、ルナは眉を潜め言葉を吐き出す。
「まだあの男に期待しているのか? 無駄な努力はするものじゃない。あいつはもういない」
「!」
聖の言葉が、冷たい刃のようにルナを突き刺す。
「ここに来れば、奴が戻ってくるとでも? 俺が何も知らないとでも思ったのか。お前の目的など最初から分かっていた」
不快な笑い声がルナの耳を掠める。
「健気で涙が出る。いや、笑えるな」
憎しみと侮蔑。
悲しみと怒り。
負の感情すべてをぶつけるように聖を睨み、ルナは寸分の隙さえ与えない素早い動きで、聖の背後に回りこむ。
制服の裏側から取り出したのは、数十センチの長さの針。
それを背後から、聖の喉元に突きつけた。
「……」
けれど、それに抵抗を見せることもなく、聖はされるままにその場にただ立っている。
針は後数ミリという位置で動きを止める。
数秒の空白。
聖もルナも動こうとはしない。
「それでもお前は俺を殺せない。哀れだな」
その沈黙は破ったのは聖だった。
小さく喉を鳴らし嘲りの言葉を投げつける。
ルナの手が力を失い、針は地面に落ちる。
「気が変わった。お前も来い」
聖はルナを一瞥することもなく言葉だけを残しその場から姿を消す。
後に取り残されたルナは呆然とその場に立ち尽くし、虚ろな瞳で空を見上げる。
「ごめんなさい……私にはやっぱり無理だわ」
贖いの言葉。
けれどその声はもう届かないのだ。
そして、自分ももう逃げられはしない。
いや、元から逃げようという方が無理な話だったのだ。
ルナは一度瞳を閉じてから、静かにもう一度空を見上げる。
煌々と光る月に目を細め、唇をキュッとかみ締めると、その場から踵を返し、聖の後を追うのだった。