嵐の前の静けさ(1)
晴れ渡る空と温かな日差し。
雀の鳴く声が、安穏な平和な様子をよく表している。
とある高級住宅街。
所狭しと立ち並ぶのは、豪邸と呼ぶに相応しい家々。
欧米並みに広い庭とその豪華の門構え。
人々の日常とは少しばかりかけ離れた者たちの住む処。
その中の一つ、建物・庭共々純和風の造りで、綺麗に植えられた草木と、庭に敷き詰められた小石。
庭の奥には、鯉が泳ぐ池。
堂々とかがけられた表札には『南条』の名が刻まれている。
日本を代表する名家の立ち並ぶ住宅街。
『南条』もその一つに属している。
だが、そんな名家の朝の風景は至って普通そのものだったりする。
トントントン。
「ふんふーん。ふふーん♪」
台所からはこぎみよい包丁の音と、食欲をそそるにおいが漂ってくる。
鼻歌交じりに、仕事をテキパキとこなしているのは、ショートカットの小柄な女性。
名前は日比春重。
見た目二十代でも通りそうな年恰好だが、すでに二十年以上南条家で女中をしているという女性である。
彼女は、ほとんど家にいない主の変わりに、通り一切をこなしている。
「もうそろそろ静輝坊ちゃんも戻って来る時間ですよ。楓お嬢ちゃん」
チラリと時計を見て、隣にいる少女に声をかける。
「うん。急がなきゃ。早くしないと綜ちゃんも来ちゃう」
そう言って、少女は火にかけたフライパンに、卵を慎重に落とす。
今日の南条家のメニューの一つは目玉焼きだ。
たかが目玉焼きと侮るなかれ。
卵を完璧な半熟にするというのもまた難しいものなのだ。
少女は、真剣そのものの眼差しで、フライパンに落とした卵と睨めっこ状態に入る。
黒に茶がかかった髪は、肩にほんの少しかかる程度のセミロング。
決して垢抜けた美人というわけでもないのだが、その容貌は愛嬌があり柔和でどこか人を惹きつける。
名前は南条楓。
楓を見ながら春重は徐に息を吐く。
「楓お嬢ちゃんも、本当に大きくなりましたわねぇ」
と、後に続いたその言葉に楓は思わず春重の顔を見返す。
「どうしたの? 唐突に……」
「いえ、今日で、ちょうど楓お嬢ちゃんが南条家に来て、十年になりますでしょ?」
「うん。そっか。そうだったよね」
楓は小さく微笑む。
あの日……初めてこの家に迎え入れられた日も、こんな温かな晴れた日だった。
「ここに来た時は本当に小さくて、あまりにも内気でいらっしゃったでしょ? ちっとも、笑顔をみせてくださらないし、近づくだけで逃げてしまわれて……。それが今じゃあ、こんなにかわいらしい笑顔を向けて下さって、素直で優しくて目玉焼きが焼けるまでに成長して下さて! 春重は嬉しいです」
そう言って、春重は今にも泣き出しそうな程瞳を潤ませる。
「お、大げさだよ。春重さんてば」
「いいえ! 春重は嬉しくて、涙が止まりません」
そう言いながら、エプロンで顔を覆う。
「春重さん……。ありがとう」
春重は楓にとって、母親であり父親でもある存在だ。
本気で親身に自分を思ってくれている春重の姿に、心がホッコリと温かくなる。
「ここに来てもう十年か。本当に早いね」
楓はしみじみと言う。
強盗に襲われ死んでしまった両親。
楓はたった六歳で、一人ぼっちになってしまった。
心細くて淋しくていつも泣いていた自分。
あの頃は、今のこの幸福な時間など想像もしなかった。
「私って幸せものだよね。こんなお屋敷に引き取られたってだけでもすごいのに、その上……」
「その上、お兄さんはとびっきりかっこよくて頼りになるしな」
その時、ヒョッコリとキッチンに顔を出した青年が、勝手に楓の言葉を続けた。