第39話 シャボン玉
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「……」
だれか叫んでる。
そう思って目がさめた。
壁の時計を見るとまもなく午前零時になろうとしている。
目をさましたとき、ここどこ? と思った。
自分の居場所がわからない。
そのとき闇にうっすら漂う蚊取り線香の匂いが鼻をついた。
ふだん嗅がない草っぽい匂いが、自分のいる場所と昼間の記憶を思い出させてくれた。
(早川家の別邸にきてるんだ)
と、気づいたとき
「ムニャムニャ、もう食べれない……」
となりで畳に直接横になったAが、すばらしく古典的な寝言をつぶやいた。
わたしは声を出さずに笑うと、Aを起こさないようそっとふとんを抜け出した。
それから玄関でサンダルをはき、赤い水玉のパジャマ姿のまま外に出た。
(だれか泣いてる)
その人を助けなくちゃ。
坂を下り、近くの井芹川を目指して闇を歩いた。
すると上熊本の駅へ向かう橋の上に人がいた。
黒いスーツを着た大人の男性が二人。
その足もとにうずくまって泣いている女の子が一人。
女の子は五歳くらいの年齢に見える。
わたしは橋のたもとにしゃがみ込み、耳を澄ませた。
「しくしく」
「どうする?」
「かわいそうだが祓うしかない」
「悪霊には見えないけど」
「今はな。しかし子どもが悪霊になったら手に負えない」
(榊家の呪術師だ)
二人の会話からそう察した。
「やはり祓うしかないか……祓うのと成仏はちがうんだよな?」
「初歩的な質問はやめろ。祓われたものは無に帰る。成仏したものは眠りにつく。嘉子さまがよくそうおっしゃってるだろう?」
「それは知ってる。でもやっぱ似てるよな?」
「ぜんぜんちがう。眠りにつくのは物語が終わるようなものだ。どんな物語にも終わりがあり、終わりには安息がある。
無に帰るのは虚無に帰るってことだ。
はじまりもなければ終わりもない。安息もない。そこにあるのは無明の闇だけだ。
人の手で祓われた霊は無明の闇を永遠に漂い続ける。正直ゾッとする」
「たしかに。でもおれたち今からこの子をそんな闇の世界に送り込むんだよな?」
「そうだ」
「……しかたねえ、おれたち呪術師だもんな。やるか」
「ま、待って」
声をかけると黒いスーツの二人は驚いた顔で振り向いた。
「なんだ?」
「きみは早川三郎の……」
「ふ、二人とも帰って」
わたしがそういうと二人は入部したての野球部員のようにピン、と背筋を張った。
「はい!」
「帰ります!」
二人は従順に駅のほうへ去った。
彼らの姿が見えなくなってから女の子に声をかけた。
「も、もう大丈夫よ」
「しくしく」
女の子は顔をあげずに泣き続けた。
そこでわたしはひさしぶりに呪文を唱えることにした。
「シャボン玉飛んだ」
「え?」
なにがはじまったの? と女の子はようやく顔をあげた。
「屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで
こわれて消えた……見て!」
「わあ!」
わたしが指さした夜空に一筋星が流れ、それを見て女の子は歓声をあげた。
それから女の子と手をつないで川沿いの道を上流の山鹿に向かって歩いた。
「わ、わたしはユイ。あなたは?」
「みどり!」
自分の名前をいって女の子はニコニコ笑った。
よく泣く子はよく笑う。
それはこの子がいちいち感情を抑制しなくてもいい幸福な環境を生きたあかしだ。
正直うらやましい。
「お姉ちゃん、お顔どうしたの?」
みどりはわたしの左のこめかみにある赤いアザを指さした。
「む、むかしケガしたの」
「ふーん、痛かった?」
「い、痛かったけどもう痛くないよ」
「アザがあってもお姉ちゃんはきれいだね」
「ありがとう。でも、子どもがそんな気を使わなくてもいいよ」
「ウソじゃないもん! お姉ちゃんほんとにきれいだもん!」
「あ、ありがとう」
とうろたえていたら、前方に白い光が見えた。
「あ、ママ!」
わたしの手を振りほどき、女の子は駆け出した。
「みどりちゃん」
若い母親はその場にしゃがんで走ってきた女の子を抱き止めた。
「ママ!」
「よかった。もう会えないと思ってた」
娘を抱きしめ、母親は泣いた。
だいぶ時間がたってから二人は立ちあがった。
「どうもありがとうございます」
「ありがとうお姉ちゃん!」
手をつないで頭をさげる母娘に、よかったね、と笑顔を見せると
「あなたはいかないの?」
と母親がわたしに尋ねた。
「ま、まだいきません」
「そう。じゃあ、お元気で」
「バイバイ!」
母親はまた頭をさげ、みどりは笑顔で手を振った。
わたしも二人に手を振り返した。
「さよなら」
なぜか「さよなら」だけはどもらずいえる。
母娘は川の上流に向かって歩き、すぐ闇にまぎれて見えなくなった。
一人でぼんやりその場に立っていたら、また夜空に一筋星が流れた。
わたしは流れ星を見ながら、無意識のうちにつぶやいた。
「破壊せよ」
そういってすぐ自分の口をおさえた。
「……わたし今、なにいったの?」




