第36話 線は河野通勢、色は佐伯祐三
水飲み場のさわぎがあった翌日、六月三日金曜日の朝。
本城小の五年生は全員登校してすぐ、正門前に待機していた四台のバスにクラス毎にわかれて乗り込んだ。
これから年に一度行われるスケッチ大会に出かけるのだ。
昨日へんなさわぎがあったから中止になると思ったが「中止にするのは余震が続いてストレスがたまった生徒がかわいそう」という校長の鶴の一声で開催が決まった。
去年までスケッチの舞台は熊本城と決まっていたが、今年は地震の影響で崩落寸前の城に近づけない。
そこで遠出することになった。
目的地に向かうバスに揺られているとまるでこれからピクニックに行くようで楽しかったが、そばにユイがいないのは残念だ。
体調が悪くて家で寝ているのだ。
Aが看護についている。
国道三号線に入ってからバスのうしろの車両を見た。
へんな車がつけてくるようすはない。
(田島先生に催眠術をかけたのは白人の美少年だ。そんな美少年がこんないなかにあらわれたら目立ってしかたないはずだけど)
でもそんなうわさ聞かないな? とぼくはちょっとふしぎに思った。
北熊本駅の近くでバスを降りた。
空は曇っている。
日差しが淡く、スケッチ日よりとはいえないがしかたない。
ぼくたちは歩いて線路を二つ越え、石の階段を登った。
階段を登りきると、真っ先にオサムが歓声をあげた。
眼下に大きな公園が広がっている。
緑川緑地公園だ。
ジャングルジムやすべり台は当然あるが、さらに向こうに野球場があって、すぐ目の前のサッカー場では赤と白のユニフォームをそれぞれ着た中学生が試合をしていた。
BCD組は勇んで階段を駆けおり、絵のモチーフを求めて広い公園に散った。
A組も階段をおりようとしたが
「みんな待って。もう少し先にここよりいい場所があるわ。きのう下見して見つけたの」
さゆり先生にそういわれ、ぼくたちA組はほかのクラスと別れ、さらに歩くことになった。
土手を歩きはじめてすぐだった。
「うわ!」
「なにあれ?」
聞こえてきたのは試合中のサッカー選手の声だ。
公園に散ったほかのクラスの生徒のどよめきも聞こえる。
しかしいそいでいたぼくは彼らが指さしさわぐ野球場に目を向けなかった。
長い橋をわたり、坪井川沿いの土手を歩いた。
一足ごとに、ふだん嗅がない緑の匂いが濃くなってゆく。
「あ、鶴だ鶴!」
川の浅瀬で休んでいる大きな白い鳥を指さし、うれしそうにオサムが叫んだ。
「ちがうよ、サギだよ」
物知りの太一があきれたように訂正した。
川からサギが飛び立ち、クラスメートは歓声をあげた。
「みんな、魚釣りのじゃまになるから静かに」
さゆり先生は生徒を注意し、川向こうに頭をさげた。
対岸で作業着姿のおじさんが釣り糸を垂れている。
「あのおじさん、なんで平日の昼間から魚釣りしてるの?」
まじめな太一が心底ふしぎそうにつぶやくのが聞こえた。
それからしばらく歩いて目的地に着いた。
「ここよ! 坪井川遊水地」
先生がそういった瞬間空が晴れ、まるでコートを脱いだかのように、眼下の湿原が色あざやかにうかびあがった。
ぼくらは丈の短い草が、敷きつめられたようにびっしり生えた窪地で絵を描くことになった。
大雨で川が増水したらこの窪地に水を流し込んで水量を調整するのだ。
「みんな絵を描くときの水は用意したわね。絵の具で汚れた水を川に捨てちゃだめよ。手洗い場があるからそこに捨てて。緑地の花も摘んじゃだめよ。いい? じゃはじめましょう!」
「はーい!」
さゆり先生の号令で、A組の生徒は歓声あげて窪地に散った。
クラスメートは思い思いに花や風景を描き始めた。
画板にB4の画用紙を、パレットに数種類の絵の具をセットし、水さしの水に絵筆をひたした。
それからパレットの絵の具を溶かし、色彩に染まった筆を画用紙に走らせた。
ぼくは窪地を見おろす道にレジャーシートを敷いた。
正面に見える丘の上でのぼりがはためいている。
あれは片岡演劇道場ののぼりだ。
スケッチの天才といわれた二郎兄さんのようにうまくは描けないが、絵筆を走らせるのは楽しかった。
「線は河野通勢、色は佐伯祐三のごとし……」
とぶつぶつぶきみにつぶやいていたら声をかけられた。
「なに描いてるの?」
振り向くと女子の学級委員雨宮蘭がそこにいた。
ぼくが絵筆で目の前の、大きなせんべいみたいな石をさすと、ランは首をかしげた。
「それ、なに?」
「たぶん石碑。表面がすり減ってなにが書いてあったのかもうわかんないけど」
「ふーん?」
とランがもう一度首をかしげたときだ。
なにかの大きな影が、窪地に落ちた。
海を泳ぐエイみたいな形の影が。
影はぼくとランの頭をゆっくり撫でた。すると
「なんだい?」
急にランが近づいてきた。
こっちの手もとをじっと見つめている。
ぼくの筆さばきに見惚れてるのかなと思っていると、ランはどこかから薬を包むような白い紙包みをとりだした。
「それ風邪薬?」
ぼくの質問に答えず、ランは持っていた包みを水さしにポイッと投げた。
紙包みが水にポチャリと落ちると、水さしから垂直に青い炎があがった。
(紙包みの中身はギリシャ火薬だ)
「エマホー」
呪文を唱えると炎は消えた。
今ぼくはとっさに山田高文と戦ったときコピーした秘術ブラック・ダリアを使った。
人体をバラバラに分解する妖術を応用し、炎を原子レベルに分解したのだ。
まわりを見わたしたが炎に気づいた生徒は一人もいない。
ランを見るといつもはつらつとしている彼女らしくない、ぼんやりとした顔をしている。
その顔の前でパチンと指を鳴らした。
「……わたし今なにかした?」
「なんにもしてない。ねえ雨宮さん、今日白人の男の子に会わなかった?」
「会った」
ランは目を輝かせた。
「すっごくかわいい男の子に会った」
「その子になにか頼まれた?」
「ごめん、なにも覚えてない……あ、いた!」
「え?」
「白人の子、空にいるよ!」
見あげた青空を、ハンググライダーがゆっくり飛んでいた。
窪地の真上を旋回している。
ランは上空に手を振った。
「おーい!」
ほかの生徒もにぎやかに手を振った。
「おーい!」
ハンググライダーの操縦士も地上に向かって手を振り返した。
ヘルメットをかぶっているから金髪はかくれて見えない。
「ほら三郎くんも!」
ランにうながされ、ぼくも空に向かって手を振った。
(ハンググライダーの影に頭を撫でられたら命令を実行するようランに催眠術をかけたのか。やるじゃないか。
でも無関係な女の子に手を出したのはやりすぎだ)
手を振りながら、ぼくは頭上の美少年に無声で呼びかけた。
(きみはぼくの友だちに手を出した。その報いは受けてもらうぞ、バチカンのエクソシスト)




