第33話 トイレの花子さん
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わたしたち五年A組があるフロアにはトイレが二つある。
まずB組のとなりに一つ。
それからいちばん奥のD組のとなりにも一つ。
その奥にある女子トイレの、てまえから三つ目の個室はどんなに混んでいても、だれも使わない。
最後にここを使ったのはまだ時代が昭和だったころで、その子は個室を出るとこんな風にしゃべった。
「たしまれらわさをそみうのつせくょちてっあにこのなんおのまたあパッカオとるいてっよまにちみでかなのりもいかふはこそらたっもおとだれいと」
女の子はそれからずっとそんな調子でしゃべった。
彼女の言葉を親は理解できず、教師や同級生もお手あげだった。
ただそれまで平凡だった彼女の成績は、その日をさかいにばつぐんによくなった。全国共通テストで三年連続トップをとったというからすごい。
そのまま中学高校を優等生ですごした彼女は東京大学に進学し、今は熊本大学情報電気工学科の教授をつとめている。
話し方は変わらないから、彼女の講義を理解できる学生は一人もいないそうだが。
ともかくそんなことがあってから、この個室を使う生徒はいなくなった。
使えば頭はよくなるかもしれない。
でも「あんなへんなしゃべりかたをしたらお嫁に行けなくなるよ」といわれたら、ほとんどの女の子は冒険をやめる。
ついでにいうとへんなしゃべりかたをするようになった元女の子は、同じ熊大の教授と結婚した。
子どももいるそうだ。
その日わたしは下校しようと三郎とならんで校内を歩いていた。
空は一日中鉛色の雲におおわれている。
日差しを見ないさびしい日だったと思いながら、正門のてまえでふいに足を止めた。
「どうしたの?」
「わ、わすれもの」
と三郎に告げ、いそいでA組の教室に引き返した。
A組に人はだれもいなかった。
がらんとして薄暗い教室を見わたし、自分に問いかけた。
(わすれものってなんだっけ?)
わからない。
わからないけどなにかわすれたのはまちがいない。
教室を離れ、となりのB組をのぞいた。
やはりだれもいない。
それからとなりのトイレを見て、C組とD組の教室を見て、最後にフロアの突き当たりにあるトイレにたどり着いた。
わたしは女子トイレに入った。
人の姿はない。
奥に向かって個室が四つ並んでいる。
薄暗くさびしい空間をながめてさとった。
(そうだ。ここに用事があったんだ)
すっかりわすれてた。
まずいちばんてまえの個室の扉をノックした。
返事はない。
そのとなりの個室をノックした。
やはり返事はない。
「……」
今目の前に、本城小の生徒が決して使わない、三つ目の個室がある。
その扉をノックした。
「まーだだよ」
と女の子の声で返事があった。
聞き覚えのない声だ。
もう一度ノックした。
「まーだだよ」
同じ返事が返ってくる。
もう一度ノックした。すると
「もーいーよ」
(返事が変わった)
窓から一瞬夕日がさし、すぐ暗くなった。
ゆっくり扉をあけた。
「こんにちは」
赤いスカートをはいたオカッパ頭の女の子が、洋式便器の閉じたふたに腰かけていた。
こんにちは、と見覚えのない子にあいさつを返すとその子がいった。
「扉をしめて。中でいっしょに遊ぼう」
「せ、せまいよ」
「平気よ。あなたの脳みそをさわらせて」
「ど、どうしてさわるの?」
「頭をよくしてあげる」
と語る女の子の顔が、いつのまにか血にまみれていた。
「じゃ、さわるね」
血まみれの女の子が手を伸ばす。
わたしは金縛りにかかったように動けない。
女の子の指先が髪の毛に触れた、と思った次の瞬間、わたしは大きな繭に閉じ込められた。
「ふむふむ」
女の子が興味深そうに外から繭を覗き込んでいる。
繭の表面に、お経みたいに文字がびっしりならんでいるのだ。
内側から見ると文字が反転していて、なにが書かれているのかわからない。
「あなたのこころを引っ張り出して裏返したの」
繭の文字を見ながら女の子がいった。
「こころは情報とはちがう。こころの文字はあなただけが読めるように内側に印字されている。だから他人が見るためには引っ張り出したこころの生地をひっくり返さなければならないの。すぐ元通りにしてあなたの中へもどすから心配しないで。前ここへきた子はこころを裏返したままもどしちゃった。悪いことした……あら?
あなたのこころ、なかなか大きな傷があるわ。ていうかこんなに大きな傷見たことない。えっぐい……」
「こんにちは花子さん」
そこで人の声がした。
声が聞こえるとわたしを覆っていた繭は消えた。
いつのまにか三郎がうしろに立っている。
「こんにちは三郎くん」
花子と呼ばれた女の子もあいさつを返した。
さっきと同じように洋式便器のふたに腰かけている。
その顔に、血は一滴もついていなかった。
「花子はあだ名だよ。本当の名前はだれも知らない。本人もわすれてる」
正門を出て三郎と並んで歩いた。
「花子は昭和四十年代の半ば交通事故で亡くなった。正門前の横断歩道をわたっていて居眠り運転の車にはねられたんだ」
「あの子は幽霊?」
「そう。ときどききみのように勘のいい女の子を、無声の霊波でトイレに呼んでいたずらする。いたずらといっても他人のこころを本のように読んでひまつぶしするだけでたいした害はない」
「は、祓わないの?」
「祓わない」
「ど、どうして?」
「幽霊ぐらいいたほうが学校はさかえるから。座敷わらしがいる家と同じだよ」
「は、花子はトイレから出られないの?」
「廊下ぐらいまでなら出られる。あのフロアが彼女の結界」
そういわれて校舎を振り返ると、果たして廊下の窓からオカッパ頭の女の子がこっちを見ていた。
その顔がまた血まみれだ。
ああやって人をこわがらせるのが花子の趣味なのだ。
(もうその手は食わないよ)
平気な顔で手を振ってやると、花子の姿はあっというまに消えた。
「は、花子ってシャイね」
「人の好意になれてないんだよ。悪い子じゃないからときどき遊んでやって」
三郎はわたしを片手で拝んだ。
「わ、わかった」
「ありがとう」
「そ、その代わり帰りにチョコモナカジャンボ買って」
「えー、買い食いはAにしかられるのに……」
ぶつぶつ文句をいう三郎を見て近くの電柱に止まっていたカーキチが「ケケケ」と笑い、わたしも笑った。
花子にはじめて会った日、早川家の夕食はクリームシチューとハンバーグとレタスのサラダというメニューだった。
最近食事はサンジが作ってくれる。
「気にしなくていいよ」
シチューをすすりながら三郎がサンジにいった。
「彼女ふつうの食事が食べられないんだ」
「せ、せっかく作ってくれたのにごめんね」
そうサンジにわびながら黒糖ドーナツ棒をかじった。
わたしはお菓子しか食べられない自分を呪った。
「わたしもドーナツ棒大好きです」
ピンクのエプロンをはおったサンジはわたしをなぐさめ、ニッコリ笑った。
「わたしはマタタビ大好き、ウフフ」
と笑うのはAだ。
彼女は今日も茶色いスティックの、ネコ科の動物にしか嗅げない香りを楽しんでいる。
「ぼくはハンバーグ大好き」
とこれは三郎の台詞。
「みんな好きなものがちゃんとあってすばらしいです。失礼」
サンジはエプロンの先っぽで、三郎の頬についたシチューをぬぐった。
わたしはすばやく唇の横にドーナツ棒のかけらをつけた。
「あはは、ご飯つぶつけてどこ行くの」
「あ、だめ……」
と抗議の声もむなしく、サンジにとってもらいたくて唇にはりつけたドーナツ棒のかけらは、Aにあっさりとりのけられた。
その夜眠る前神さまにお祈りした。
(今夜の夢にサンジが出てきますように)
眠りはすぐやってきた。
最初に結論をいうと祈りはかなえられなかった。
そもそもわたしはほとんど夢を見ないのだが、その夜は見た。
だから祈りは半分かなったといえるが、その夜夢にあらわれたのは、サンジと似ても似つかぬ人物だった。




