第32話 早川家の書生
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今日のわたしは朝起きてからずっとニコニコしている。
わたしがご機嫌なのは「黒髪のレオ」こと伊能三次が家にいるからだ。
宮下神父が不慮の事故で亡くなり、居場所をなくしたサンジを三郎は書生として早川家にひきとった。
「し、ショセーってなに?」
昨日学校からの帰り道、わたしは初耳の言葉の意味を三郎に尋ねた。
「自分の勉強をしながら掃除とか留守番とか家の仕事をやってくれる若い人、かな? 明治時代の小説によく出てくるよ、書生さん」
「そ、それってお手伝いさんみたいなもの?」
「お手伝いさんの掃除は義務だけど書生はちがうよ。手があいたとき適当にやってくれればいいんだ。することなかったら寝てればいいし」
「ね、ネコみたい」
「それそれ、ネコだよネコ」
三郎はいいかげんな相づちをうった。
三郎はいいかげんだが、わたしはサンジが早川家にくると聞いてうれしかった。
それはAも同じだった。
夕方手提げカバン一つ持って玄関にあらわれた、白いセーラー服姿のサンジを見て
「まー、こんなきれいな子見たらアンドロイドの寿命も伸びるわ」
そんな奇妙な台詞をいって、ふだんクールなAはめずらしくはしゃいだ。
それから彼女はおお張り切りでタイピーエン(福建省の郷土料理をアレンジした春雨麺にトンコツスープ、具沢山の野菜に煮卵をのせた熊本の名物料理)に麻婆豆腐にギョーザにチャーハンの夕食を作った。
Aが張り切って作った料理をサンジはニコニコ笑って食べた。
美味しそうに食事するサンジを見て、わたしは満ち足りた気分になった。
美味しそうに食事する人はまわりの人間も幸せにする。
三郎もサンジ同様すごく美味しそうに食べる。
箸の使い方もきれいだ。
わたしは三郎が食事する姿を見るのが好きだ。
へんないいかただが食事する三郎を見ていると、わたしのこころに自信が満ちてくる。
「ウフフフ」
「?」
茶色いスティックの匂いを嗅いで、ニヤニヤ笑うAを見てとまどうサンジに三郎が説明した。
「彼女の夕食はマタタビなんだ。匂いを嗅ぐといい気分になるんだって。晩酌みたいなもんだよ」
「おお晩酌」
「キリスト教徒はお酒を飲むのはだめなんだっけ?」
「そんなことはありません。主は最後の晩餐で盃をかかげ『これはわたしの血である』と仰ってます。ワインはわたしたちキリスト教徒にとって神聖な飲み物です」
「なるほど。キリスト教徒って意外とさばけてるね」
「ウフフフ」
Aがまた笑い、それを見て三郎とサンジも笑った。
夕食代わりに熊本の銘菓陣太鼓を頬張りながら、わたしは
「食事ってこんなに楽しかったの?」
とふしぎな気分になった。
ちいさいころのわたしにとって食事は罵倒と殴打を伴う、憂鬱な人民裁判の舞台だったから。
夜おやすみをいいにサンジの部屋へ行った。
サンジは白地にブルーのストライプのパジャマ(かわいい!)を着て、聖書を読んでいた。
どんなお話なの? と自分が着ている赤い水玉のパジャマがかわいく見えるか気にしながら尋ねると、サンジは今読んでいるところを音読してくれた。
「さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、エリ、エリ、レマ、サバクタニ、と言われた。それは、わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか、という意味である……」
音読を聞いていたら胸がうずいた。
イエスの最期を語るサンジの目に、真珠のような涙がうかんでいたから。
その翌日の今日。
サンジといっしょにキッチンで夕食の準備をしていたら、地下室から三郎がやってきた。
お茶をいれる彼の顔を見てドキッとした。
頬がパテでそいだみたいにげっそりこけてる。
なにかあったの? と尋ねると三郎は
「旅をしてきた」
と、いつものようにいい加減な返事をした。すると
「旅をしてなにか得るものがありましたか?」
野菜を洗いながらサンジが聞いた。
「うん、あった」
「それはなんですか?」
「……ごめん、あらたまって聞かれるとわかんない」
三郎はお茶をすすった。
わたしは亡くなった宮下神父がいった言葉を思い出した。
「旅は人を賢くしません」
それから三人で午後のおやつに羊羮を食べた。すると、
「イエスは戦うことについてなにか発言してる?」
三郎が唐突に尋ねると、サンジはすばやく唇をぬぐってこんなことをいった。
「主は弟子のペテロに『剣をとる者は剣で滅びる』と仰っています」
「うん」
「それから別のところで『わたしが地上に平和をもたらすためにきたと思うな、平和ではなく剣を投げ込むためにきた』ともいわれています」
「へえ。なんか意外」
「『敵を愛し、憎む者に親切にせよ。呪う者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ』ともいわれています」
「立派な教えだけど、それ実際にやるのはむずかしいなあ」
「はい。わたしもなかなかそういう気持ちになれません」
そこまで語るとサンジは顔の前で十字を切った。
三郎は、ぼくお腹減ってないから、と自分のぶんの羊羹をわたしに差し出した。
いいの? と一応聞いて彼のぶんの羊羹を食べた。
やさしい甘さを楽しんでいたら、窓の外でカラスがカーッと鳴いた。
「か、カーキチだよ」
嘴に傷はあるけどカーキチの声はほかのカラスよりずっときれいに澄んでいるからすぐわかる。
「ユイさんのお友だちですね」
そういいながらサンジは手を伸ばし、わたしの唇のはじについていた羊羹のかすをつまんだ。
そしてそれをパクッと食べた。
その日のわたしは眠るまでずっとニコニコ上機嫌に笑って過ごした。
その夜寝床に入ってこんなお祈りをした。
「神さま、今日はとってもいいことがありました。
わたしはきっといい子になります。
だからあしたもいい目に合わせてください。
アーメン」




