第27話 とって食べよ、とイエスはいった
聖体の祝日は有名な最後の晩餐で、イエスが弟子たちにいった
「とって食べよ、これはわたしのからだである」
という言葉にちなむ日だ。
ミサの最後、祭壇の宮下神父はサンジが黄金の盆に乗せて運んだホスチア(イースト菌を使わないパン)を頭上にかかげ、奉納文を唱えた。
祭壇の背後に飾られた大きなイエスの絵に向かってこういったのだ。
「神よ、あなたは万物の造り主
ここに使えるパンはあなたからいただいたもの
大地の恵み 労働の実り
私たちのいのちの糧となるものです……」
宮下神父のそんなに大きくない声が、聖堂のすみずみにクリアに反響する。
それを聞いてうっとりした。
石の壁がワックスみたいに声に磨きをかけている。
教会の音響設計はかんぺきだ。
(ここでギターを弾いたらたまらないぞ)
神父が奉納文を唱えたことでパンは聖別された。
パンはイエスの体、すなわち聖体となった。
宮下神父はうやうやしい手つきでホスチアを聖体顕示台に入れた。
顕示台はカトリックの祭具だ。
聖体行進ではこれを旗のようにかかげて歩く。
真ん中が円型のガラスになっていてパンはそこに納められた。
ガラスのまわりに三六〇度乱反射する太陽光線のような黄金の飾りがあり、てっぺんから黄金の十字架がつき出ている。
吸血鬼の大塚富士子がこれを見たら一瞬で灰になるだろう。
「サンジ」
神父がうなずくと、サンジは祭壇で高々と顕示台をかかげた。
「おお」
「アーメン」
信者のどよめきが、リヴ・ヴォールド(コウモリ)と呼ばれる袋状の天井にこだました。
見よ、聖堂にちいさな太陽がのぼった。
内に救世主の肉体を孕んだ、黄金の太陽が。
教会の外に出るとろうそくをわたされた。
着火式ライターで火をつける。
いよいよ今夜のクライマックス聖体行進のはじまりだ。
二列縦隊になり、そばに防火用の赤いバケツを持った大人の信者がついた。
さて出発、とワクワクしていると
「三郎くん、ちょっときてくれないか」
教会の入口で宮下神父が手を振り、ぼくを呼んだ。
「きみに頼みがある」
「今行きます。これを」
ぼくはろうそくをAにわたした。
(すぐもどるよ)
と不安そうにこっちを見るユイに無言でうなずき、教会ヘ向かった。
「サンジ、先に出発しなさい」
「はい、神父さま」
サンジは聖体顕示台をかかげて歩き出した。
あとに続く信者が聖歌を合唱する。
教会の入口から振り返ると人々の姿はもう闇にまぎれていた。
星々の光を吸って妖しく輝く黄金の顕示台と、夜風に揺れるろうそくの、ちいさな炎の隊列だけ見えた。
幻想的で敬虔な風景だった。
聖堂に入ると重厚な音楽が聞こえた。
パイプオルガンの自動演奏で、聞こえてきたのはバッハのトッカータとフーガだ。
悲愴な旋律に耳を澄ませながら鼻をこすった。
聖堂に甘い匂いが満ちている。
通路の赤いじゅうたんの上で宮下神父が振り香炉を振っていた。
振り香炉は長いくさりにとりつけられたちいさい壺だ。
中で乳香が焚かれている。
神父がたくみにくさりを振ると「ルルル」と笛のような音とともに、白いけむりと甘い匂いが壺からせいだいに流れ出した。
「みんながもどってくる前に空気を清めておこうと思ってね」
くさりを振りながら神父はいった。
「人に聞かれたくないだいじな話だ。三郎くん、告解室で待ってて」
ぼくはうなずき、聖堂のすみにある黄色い木の小屋に向かった。
二つある扉の一つをあける。
告解室は信者が自分の罪を懺悔する場所だ。
入ると座面が丸い木の椅子があったので座った。
振り香炉のけむりは告解室にも侵入していた。
濃厚な甘い匂いに頭がくらくらする。
部屋はしきられていて、しきり壁の上のほうにちいさい格子窓がある。
その格子窓を見あげながらこんな懺悔を妄想した。
「神父さま、ぼくは罪をおかしました」
「どんな罪を?」
「この前祖父江唯を見ていたらへんな気持ちになったんです。彼女寝るときいつもトレーナーを着るんですが、その服がかなりくたびれてたんで代わりに赤い水玉のパジャマをあげました。それを着ておやすみをいいにきたユイがすごくかわいくて、それで頭の中で彼女を……」
そこで妄想を中止した。
しきり壁の向こうで扉がひらく音がする。
「頼みってなんですか?」
「うむ」
しきり壁の向こうで神父は咳払いした。
「最初にいっておこう。わたしはもうクリスチャンではない」
「なんですって?」
「神兵なんだ、今のわたしは」
(え)
すぐ告解室から飛び出そうとした。
しかしどういうことだ、体がまったく動かない!
「振り香炉のけむりに運動神経をマヒさせるガスをまぜた」
薬の効能を説明する薬剤師のように、宮下神父は淡々と語った。
「わたしは解毒剤を飲んでるから効かない。長い時間効き目のあるガスじゃないから心配しなくていい。さて、頼みというのはかんたんなことだ。三郎くん、死んでくれたまえ。
サンチャゴ」
宮下神父が唱えたのは、ソルダードが術を発動させる呪文だ。
「子どもを殺すのはむずかしい」
宮下神父の口調は相変わらず淡々としている。
「たとえば今ここできみを殺して死体をかくしたとしよう。大人ならそのままかくしおおせるかもしれない。しかし子どもはそうはいかない。
きみが消えたら最初にきみの友人たちがさわぐ。それからあの胸の大きな女教師がさわぎ、友人の親たちもさわぐ。それはまずい。
だから死体はここへ残す。
でもわたしがきみを殺した事実はだれにも気づかれない。そういう術なのだ。
子どもは大人よりも共同体とのつながりが強い。逆にいうと大人になれば共同体とのつながりは自然に失われる。大人になるのはさびしい。大人にこそ信仰は必要だ。共同体の代わりに自分に安心と安全をもたらす信仰がね」
「……それが」
体に力がはいらないから壁に寄りかかり、かすれ声でささやいた。
「サルバドールだと?」
「その通り。さっき振り香炉を振りながら奉納文を唱えた。三郎くん、きみはすでに聖別され、神にささげるホスチアとなった。ホスチアはラテン語だが意味はわかるかね?
イケニエという意味だよ。
もう術ははじまっている。わたしはずっとここにいる。こわがらず、こころ静かに死を待ちたまえ」
「……食らえ」
「なんだね?」
「クソ食らえ」
「フフフすばらしい。きみを殺すよう命じた神も、きみの旺盛な闘争本能をきっと祝福するよ」
「どの神、が?」
「もちろんサルバドールだよ」
(そうか)
サルバドールは信者にとって教祖ではなく現人神なんだ。
「宮下、神父」
もつれる舌をけんめいに動かし尋ねた。
「あなたは、なぜ、キリスト教を、捨てたんですか?」
「……わたしがむかしバングラデシュで活動したことは知ってるね?
あの国で、わたしはある決断を迫られた。
三つの選択肢の中から一つだけ選べといわれた。
選択肢がどんなものであったのかはいいたくない。ともかくわたしは選んだ。
それが正しい選択だったことはわたしの生存が証明している。
その代わりキリストへの信仰を捨てた。
わたしにいえるのは、それだけだ」
「チャンス、を」
「なんだね?」
「チャンス、が、ほしい。今から三つ、問題を、出します。すべて、いいえ、と、答えて、ください。あなたの、声を、聞いて、ぼくが、選びます」
「なにを?」
「自分の、未来を」
宮下神父は「選ぶ」ことに強迫観念を持ってる。
だからきっと誘いに乗る。
いや乗ってくれ! と念じながら、白髪を一本ぷつりと抜いた。
白髪を鼻先にかざし、小声で呪文を唱えた。
(この盃を 受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが
人生だ)
「……よろしい。やろう」
(よし!)
と、こころでガッツポーズした。
それから手にした白髪をふっと吹いて宙に飛ばした。
白髪は頭上をフラフラさまよい、格子窓の手前で遊泳をやめた。




