第17話 赤い靴ひも
異臭に驚いて振り向くと、見知らぬ男子生徒が廊下を歩いていた。
白いTシャツにブルージーンズ、青いスニーカーという格好は今の時期やや寒々しいが、まあふつうだ。
しかし汚れてる。
汚れすぎだ。
はじめはデザインとかんちがいしたがTシャツに点々と散っているのはしょうゆかソースの染みだ。
もしかしたら血もまじってるかもしれない。
坊っちゃん刈りの髪は油光りして頭皮にべったり張りついている。
頬はこけ、首はつまようじのように細く、目はうつろで生気がまったくない。
「五年B組の羽生豊くんだよ」
そばにきたA組の学級委員上林太一が三郎にささやいた。
「今年ずっと不登校だったけど今日は珍しいね」
「くさいわ」
と顔をしかめたのは女子の学級委員雨宮蘭だ。
「そんなこといっちゃだめだ。きっと親に虐待されてるんだ。かわいそうに……」
「それはちがうな」
「なにがちがうんだよ」
三郎に異を唱えられ、プライドが高い太一は唇をとがらせた。
「あの服見てよ」
三郎は羽生豊を指さした。
「Tシャツとスニーカーはニューバランスでジーンズはリーバイスだ。けっこう高いよ。子どもをいじめる親はあんなの買わない」
「じゃあ羽生くんがホームレスみたいに汚れてるのはなんでだよ?」
「それは……」
そのとき三郎の顔色が急に変わった。
「あの靴」
三郎の視線をたどった太一が羽生豊の足もとを指さし、こんなことをいった。
「赤い靴ひもの結び目が真ん中ではなく靴の外側にきてる。あれブッシュウォークって結び方だよ」
知識を披露する機会を得た太一はあっというまに機嫌が直った。
「ブッシュウォークってハイキングのことだけど、ああいう結び方すると歩きやすいのかな?」
「あ、チャイムだよ」
ランと太一が去り、羽生豊もいやな匂いを海の曳航のように廊下に残してB組の教室に消えた。
「さ、さっき急に顔色変わったけどどうしたの?」
「羽生豊の靴ひも見ただろ」
B組の教室を見つめながら三郎はつぶやいた。
「あれ太一がいうようにブッシュウォークって結び方だけど、赤いひもを使ってあの結び方をすると暗号になるんだ。冷戦中CIAが使った秘密のメッセージ」
「ど、どんなメッセージ?」
「HELP ME」
■
電車通り沿いにある二階建てのその家は、熊本でいちばん古い老舗書店長崎次郎書店の正面にあった。
長崎次郎書店は本震からわずか二日後の四月十八日に営業を再開し、人々を勇気づけたこの町のシンボルだ。
ぼくはその家の二階にある六畳間にいた。
部屋の真ん中に置かれたオレンジの椅子に座っている。
床はフローリングで、電車の停留場が見える窓は緑のカーテンでふさがれていた。
窓の外から静かな雨音が聞こえる。すると
「ツイッターに『天災にうろたえる熊本土人を見て大笑いしてる』と書きこんだやつがいる」
こちらに背を向け、パソコンに向き合ったまま憎々し気につぶやいたのは五年A組のクラスメートで、ぼくの親友小島健だ。
タケシは小一の二学期からずっと家に引きこもっているが、テストの成績は常に学年トップの秀才だ。
「ツイッターなんか見るのやめなよ。精神衛生上よくない」
「そうはいかない。非常時に真夏のカメムシみたいにあらわれる中二病的あおりツイートの収集がぼくの趣味なんだ」
振り向いたタケシはかけていたメガネを持ちあげ、自分の悪趣味を得意げに告白した。
タケシは秀才だがA組で唯一ぼくよりちいさく、かけっこが遅い生徒でもある。
「ツイートたくさん集まったよ。見る?」
「気分が悪くなるからいいよ。羽生豊のことわかった?」
「羽生義春」
ふたたび机に向き合ったタケシがマウスをクリックすると、ノートパソコンの画面にメガネをかけた童顔の中年男性の顔写真が写った。
「豊の父親。四十一歳。フィンランド語の翻訳家。最近まで熊日新聞に毎週コラム書いてた。けっこう人気あったけど本人の申し出で今年の二月連載は終了してる」
タケシはまたマウスをクリックした。
パソコンの画面にやはりメガネをかけた中年女性が写った。
「母親の美咲。夫と同い年の四十一歳。熊本予備校の現国教師だったけど三月に仕事を辞めてる」
またマウスをクリックする。
さっきの夫婦によく似たやさしい顔立ちの女の子が写った。
「姉の真理。四月に中学生になったけど学校には一日も行ってない。対人恐怖症による引きこもりのためって学校に届け出があった。そんな風に見えないけど」
真理の笑顔を指さし、タケシはいったん画面をクローズした。
さっきタケシはあおりツイートの収集が趣味といったが、彼が集めているものがあと二つあった。
一つは本城小の生徒とその家族に関するすべての情報。
そしてもう一つは今日本で起きているすべての犯罪に関する情報だ。
ぼくはタケシに質問した。
「両親が仕事を辞め、お姉さんは引きこもり。豊も不登校の理由は引きこもりだ。家族四人が同時に外部との縁を切って家にいる。どういうこと?」
「こいつのせい」
タケシがマウスをクリックすると、はでな赤いドレスを着たおばさん(おばあさんかな?)が画面に写った。
肥ってメイクが濃く目つきも悪いが、若いころ美人だった面影はある。
「こいつ寄生虫ババア。こいつとこいつの手下が今羽生家に居すわってる」
「寄生虫ババア?」
「ぼくがつけたあだ名。家族の乗っ取り屋だよ。くだらないいんねんつけてなにも悪いことしてない人の家に乗り込み、土地や貯金などその家のすべての財産を奪う職業。それが乗っ取り屋。この仕事日本中で増えてるけどとくに九州で増えてる。九州の警察は民事不介入が徹底してて、めったなことでは家族のトラブルに立ち入らないから」
「こいつの名前は?」
「大塚富士子。六十八歳。熊本市生まれ。十四歳のとき同級生の男子生徒を半殺しにして鑑別所に入ってる」
タケシがマウスをクリックすると若き日の大塚富士子の写真が次々とパソコンの画面に写った。
「女子高を一年で中退して上京、錦糸町でホステスをやりながら副業として売春もはじめる。組織に属さず一人でやってたみたい。二十六歳のとき同棲していた会社員田川清三に全財産の二億円を持ち逃げされる。富士子の性格はこれで変わった。その後ブティックや宝石店を経営し、裏で売春グループの元締めを務めた。この稼業を二十年やって平成十六(二〇〇四)年とつぜん福岡に移住する。
ババアが乗っ取り屋になったのは福岡にきてからだよ。
福岡にきて八年間で六家族を乗っ取った。その中にあの田川清三の家族もあった。
こいつ久保田和美」
パソコン画面に黒いグローブを両手にはめてファイティングポーズをとる、上半身裸の精悍な若者が写った。
「ババアのパートナー。これ二十六歳の久保田。元日本ライト級一位のボクサーで世界タイトルへの挑戦権を賭けて当時日本チャンピオンだったリック吉村に挑むも判定負け。その後酒に酔って二度傷害事件を起こしてプロボクサーのライセンスをとりあげられる。今三十七歳。現役のとき体重は六十キロだったけど今は百キロあるらしいね」
タケシはやれやれと首を振り、またマウスをクリックした。




