第16話 傷ついた家の赤い紙
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駅の近くのせまい路地を歩いていた。
うららかな春の日差しが長雨に濡れたアスファルトを照らしている。
私が歩く路地の両脇に地震で倒壊した家がならんでいた。
屋根瓦が落ち、柱が折れて建物全体がかたむき、煮崩れた豆腐のようにぐずぐずになった家々が。
熊本大空襲の直後もこんな風景だったのだろうか。
玄関がつぶれて中に入れない家の壁に、立ち入り禁止の赤い紙が張られている。
(美しい)
思わずため息をついた。美は崩壊にあり。
「ひどいですね」
ふいに声をかけられた。
横を見ると二歳くらいの男の子の手を引いた、若い母親がそばに立っていた。
「まさかこんなことになるなんて」
長い髪を茶色に染めた母親はため息をついた。
私のため息とは意味がちがう。
息子はぽかんと口をあけ、無心に私を見つめていた。
「あなたのようにきれいな男の人はじめて見たから驚いてるんです、この子」
母親はそこで頬を赤らめた。
「ごめんなさい、へんなこといって……この近くのマンションに住んでるんです」
なにも聞いていないのに、母親は自分のことをペラペラ勝手にしゃべりはじめた。
不安は女を多弁にする。
「ほかの部屋の人はみんな避難してるけどうちは行くところがなくて。親はいないし離婚した夫には頼れないし。DVするんですあの人。二度と会いたくない! マンションの部屋は地震でぐちゃぐちゃで、足の踏み場もないから本当はどっか学校か公民館の避難所に移ったほうがいいんです。でもわたし事情があって人に会いたくなくて。車もないから車中泊とかできなくて。部屋にいて地震がきたらこわいから今日はこうして坊やとお散歩してるんです。ね、ユーちゃん。ええ、仕事はしてません。まだ貯金があるんでそれで生活してます。でも貯金ももうすぐなくなりそうで……」
マンションの場所を尋ねると母親はその番地と部屋の番号まで話した。
私はさりげなく、貯金がないと不安ですか? と尋ねた。
「ええ、とっても」
「その不安、消してあげましょう」
「はい?」
「サンチャゴ」
私が呪文を唱えると、若い母親の姿が路地から消えた。
「ママは?」
幼い息子はきょろきょろまわりを見わたした。
「ユーくんママに会いたい?」
「うん」
「じゃあすぐ会わせてあげよう」
私がそういうと坊やははじめて笑顔になった。
胸がうずくようなかわいい笑顔だ。
私も笑顔になって呪文を唱えた。
「サンチャゴ」
ユーくんの姿も路地から消えた。
「マンションの退去手続きは信者にやってもらおう」
とつぶやいてその場を離れた。
路地を出ると空が急にくもって雨が降ってきた。
はげしい雨だ。
私は目を閉じ、その場に立ち尽くし全身に雨を浴びた。
「……」
若い母親が幼い息子を胸に抱き、宇宙の暗黒空間をただよっている。
その光景がはっきり見えた。
母子は目を閉じ、静かに眠っていた。
二人の頬に日差しのなごりのように、微笑が宿っている。
雨が急速にはげしさを増した。
雨音に消され、町のノイズがまったく聞こえない。
私は雨音を隠れ蓑に絶叫した。
「サンチャゴ!」
雨に打たれながら、私は目をつむったまま涙を流した。
●
それは学校が再開して最初の日曜日のことだった。
天気は曇りで暑かった。
まだ暗いうちに学校へ行き、被災者への給水ボランティアをやった三郎は朝早く帰ってくるとわたしにいった。
「服を買いに行こう」
わたしは三郎とAに連れられ、家の近くにある産交タクシーの営業所に向かった。
「ど、どこ行くの?」
地震のため凸凹隆起した地面に気をつけながら尋ねると、ファッションセンターしまむら、と三郎が答えた。
「田崎市場のそばにあるんだ」
「た、田崎市場のそば」
「そう。きみの服だいぶくたびれてるから、かわいい服買おう」
「か、かわいい服」
「しまむらのとなりに東京靴流通センターがあるから、かわいい靴も買いましょうね」
Aが横から口を添える。
「か、かわいい服と、かわいい靴……」
自分が着ているよれよれのトレーナーの胸もとに描かれたメロンパンナちゃんを撫で、わたしは何度も歌うようにかわいい服とかわいい靴、とつぶやいた。
家に帰ってすぐ買ってきた服に着替えた。
「とってもすてきよ」
「ほ、ほんと?」
「ほんと」
Aはいつくしむようにわたしの頬を撫でた。
「わたしが知ってる女の子の中で、ユイがいちばんきれい」
それからAと階段をおりて、地下にある自分の部屋で本を読んでいた三郎に服を見せた。
「ユイが着替えたわよ、どう?」
「わお!」
わたしを見て三郎はおおげさな歓声をあげた。
「白地に黒いラインのボーダーTシャツ、青いミニスカート、白いサイドラインが入ったコンバースのネイビースニーカー……最高にクールだよ」
「Aさんのコーディネートのおかげよ」
「くるっと一回転してくれる?」
「うん」
最初の発音が母音だと言葉がすんなり出る……と思いながらその場でまわって見せた。
ミニスカートのすそが雨の日の傘のようにふんわりひらく。
「あんまり速くまわるとパンツが見えるから気をつけて」
「す、スケベ!」
「オホホホ」
わたしと三郎のやりとりを見てAが笑った。
下着に気をつけながらもう一度まわった。
「か、かわいい服と、かわいい靴……」
わたしはまた歌うようにつぶやいた。
かわいい服がうれしくて、自然に笑みがこぼれた。
熊本地震の本震からちょうど一か月後、学校の授業が再開して一週間目になる五月十六日の昼休み。
昼食を終えたわたしは三郎とならんで廊下の窓から外を眺めていた。
三郎はあんパンに牛乳、わたしは栗まんじゅうにオレンジジュースの昼食だった。
校舎の一階にある給食室が地震でこわれたままなので、生徒はしばらくのあいだ弁当を持参しなければならない。
三郎は毎朝通学路の途中にあるコンビニに寄って自分のパンとわたしのお菓子を買った。
コンビニとスーパーは本震の翌日からいち早く営業を再開し、熊本の人々を飢えや物資不足から守ってくれた。
現場の店員さんやトラックの運転手さんのがんばりのおかげでわたしは毎日お菓子を食べられる。
こんな非常時にお菓子なんてといわれそうだが、わたしはお菓子しか食べられない。
そういう体質なのだ。
窓の外は雨が降っている。
二度の地震のあと、すっきり晴れた日はほとんどない。
もっとも今本城町は十日も続く断水の真っ最中で、この雨のおかげで洗濯やトイレの水にこまらないのだから長雨はむしろ不幸中の幸いといったほうがいいのかもしれない。
雨に打たれる暗い町並みのところどころに、緑や黄や赤の紙がひらめいている。
あれは建物の応急危険度判定をあらわす紙だ。
緑は「調査済み」でこの紙が張られた建物は使用可能つまり安全。
黄は「要注意」で今すぐ危険はないが注意が必要。
赤は「危険」でこれが張られた建物は中に入るのも近づくことも危険とされる。
三郎の家に紙は張られてないが、クラスには自宅の壁に黄色い紙を張られた生徒が何人かいる。
家に赤紙が張られた女の子も一人だけいた。
その子の家族は離れた土地にある親戚の家に一家をあげて避難中で、女の子も地震後一度も学校に顔を出してない。
たぶんあの子はこのまま転校するんだろうな……と悲しい気持ちで町の風景を眺めているときだった。
とつぜん異臭が鼻をついた。
真夏の路上に捨てられた生ゴミのような匂いが。




