5
王宮の回廊は、昼下がりの陽光を浴びて静かに輝いていた。
レオナール・ヴァルモンは、ゆっくりと歩を進めながら、傍らの女性に視線を向ける。
カトリーヌ・ベルフォール。
かつては兄フェリクスの婚約者として王宮に出入りしていた彼女は、今や王国の政治を支える要となる存在となっていた。
「殿下、本日の会議の議題については、各派閥の代表と交渉の余地があります。強硬に進めるより、段階的な改革を提案するのが得策かと」
「……君の判断を信じよう」
彼女の言葉には、いつものように迷いがなかった。
それを聞きながら、レオナールはふと、考える。
(もしも彼女が王妃となる未来があったとしたら――)
それは、決して不可能な未来ではなかった。
彼女はもともと王家に相応しい人物だった。
王妃としての品格も、知性も備えている。
それに、何よりも――彼女は、最も信頼できる存在だった。
だが、それでも彼は決してその道を選ばなかった。
そして、彼女もまた、そうしなかった。
「殿下?」
カトリーヌの声に、レオナールは小さく微笑む。
「いや……何でもない」
「そうですか?」
カトリーヌは、それ以上は何も言わなかった。
けれど、彼女がすでに察していることも、レオナールには分かっていた。
王が即位すれば、当然ながら王妃が必要となる。
レオナールの婚約は、国の安定を確実なものにするために決められた。
彼の婚約者は、名門貴族の令嬢だった。
彼女は王妃として必要な振る舞いを心得ており、政治に関与することは少なく、王宮の秩序を保つ役割を果たすと期待されていた。
婚約が決まった際、カトリーヌは淡々とそれを受け止めた。
「殿下に相応しい方ですね」
それは、王として最も安定した選択だった。
レオナール自身も、それが最善の道であると理解していた。
だが――
「カトリーヌ、お前が王妃となる選択肢はなかったのか?」
ある日、そう問われた時、彼女は一瞬だけ静かに息を飲んだ。
そして、次の瞬間には、微笑を浮かべていた。
「私には、王妃よりも適した立場がありますので」
それは、決して遠回しな言葉ではなかった。
彼女は、最初から「王妃」ではなく「王を支える者」であることを選んだのだ。
「私は、あなたの補佐官です。それ以上でも、それ以下でもありません」
彼女はそう言い切った。
レオナールは、その言葉を否定することはなかった。
それが、彼女の選んだ道なのだから。
そして、彼自身もまた――
(……それが、正しい選択なのだろう)
そう思うことにした。
彼の婚約が決まり、カトリーヌにも婚約の話が持ち上がった。
相手は、有能な貴族で、彼女を高く評価している人物だった。
「あなたがどのような立場にあろうとも、私はあなたを尊重します」
「私はあなたに“家庭の主”を求めるつもりはありません。あなたの道を歩めばいい」
そう言う彼は誠実であり、カトリーヌもまた、その申し出を受け入れた。
それは、合理的で、理想的な関係だった。
その報せを聞いた日、レオナールは彼女の顔を見ながら、ふと静かに言った。
「……おめでとう、カトリーヌ」
「ありがとうございます、殿下」
「君が選んだ相手なのだから、きっと素晴らしい関係を築くだろう」
「ええ」
何の迷いもない声。
いつも通りの彼女の態度。
それなのに――
ほんの一瞬だけ、彼女の瞳が揺れた。
それに気づいたレオナールも、また、彼女から視線を逸らすことができなかった。
けれど、それはほんの一瞬のこと。
次の瞬間には、何事もなかったかのように、カトリーヌは微笑んでいた。
そして、レオナールもまた、それ以上何も言わなかった。
王と、彼を支える者。
それ以上でも、それ以下でもない。
それが、彼らの選んだ道。
「……では、私は執務に戻ります」
カトリーヌは丁寧に一礼し、静かに去っていく。
レオナールは、その背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
――彼女は、振り向かなかった。
それが、二人の答えだったのだろう。
王と、その補佐官。
互いに最も信頼し、最も理解している相手。
だが、決して交わることのない運命。
それでも、彼らは変わらない。
彼が王である限り、彼女はそばで支え続ける。
――それが、彼らの「答え」だった。




