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微かな光が、薄く閉じられた瞼の裏を照らしていた。
ゆっくりと意識が浮上してくる。重たいまぶたを開くと、ぼんやりとした天井が目に入った。
(……ここは?)
視界がまだ完全に定まらない。だが、かすかに染みついた薬草の香りや、整えられた空気の冷たさから、屋敷の一室であることはすぐに分かった。
「……目が覚めましたか」
落ち着いた低い声が響く。
視線を巡らせると、ベッドの脇に椅子を置き、腕を組んで座っている男がいた。
エドモン・ルフェーヴル。
彼の静かな瞳が、こちらを冷静に見下ろしていた。
「セリーヌを助けていただきありがとうございます。主治医の話では、数日は安静にすべきだとのこと。」
そうか。
自分は――あの夜、剣を振るい、そして――
「……セリーヌ……は?」
かすれた声で尋ねると、エドモンは無言のまま少し顔を上げた。
その視線の先に、彼女はいた。
ベッドの反対側、少し距離を置いた位置で、静かに立っている。
彼女の瞳は冷静だった。
「……助けてくださったことは、感謝します」
丁寧な言葉遣い。だが、そこに温度はなかった。
むしろ――どこか躊躇いがちに視線を落とした彼女の瞳には、ほんの僅かに違和感があった。
(ああ……これは)
彼女は、今――
ほんの一瞬だけ、虫でも見るような目をした。
表面上は感謝の言葉を述べながら、心の奥底では、どうしても拭いきれない感情が滲み出ている。
それを見た瞬間、アランの胸の奥に、ざわりと得体の知れないものが広がった。
(……ああ)
それは驚きではなく、失望でもなかった。
ただ――ひどく、甘美だった。
セリーヌはほんの僅かに息を整えると、落ち着いた声で続ける。
「どうか、ご静養を」
そして、それ以上何も言わずに背を向けた。
(ああ、行ってしまうのか)
その背中を見つめながら、ゆっくりと唇を綻ばせる。
すぐ隣でエドモンが眉をひそめたのが分かったが、それすらどうでもよかった。
(僕は、死ねなかった)
ならば。
ならば、生きて彼女の視線を浴び続けるのも悪くない。
それでいい。
アランは静かに目を閉じた。
アラン・ド・モントレイユが社交の場に復帰したのは、療養から数週間が経った頃だった。
彼は相変わらず、新しい婚約者を探す様子もなく、ただ静かに貴族社会に身を置いていた。
夜会にも顔を出すが、派手に振る舞うことはない。
そして、変わらず同じようなセリフを呟くのだ。
「君がこうして微笑んでいるなら、それだけで僕は満たされる」
「……はぁ」
また、だ。
夜会の片隅、ワインを片手にくつろいでいたセリーヌのもとに、彼はいつの間にか立っていた。
「お久しぶりですね、アラン様」
努めて冷静に言葉を選ぶ。
「お元気そうで何よりですわ」
「ああ、君のおかげでね」
アランは微笑む。
その表情には、相変わらずの余裕が滲んでいた。
「君の幸せを、こうして遠くから見守れるのだから。それだけで、十分だよ」
セリーヌはグラスを置き、ゆっくりとエドモンの方へ視線を向けた。
彼は近くで別の貴族と談笑していたが、アランが来たことに気付き、こちらへ向かってくるのが見える。
(……あと少しの辛抱ね)
「お優しいことですわ」
「君に優しさを向けることくらいしか、僕にはもうできないからね」
朗らかに言う彼の顔を見ながら、セリーヌはふと考える。
(この人は……何をしているのかしら)
婚約破棄からすでに時間が経った。彼は公爵家の嫡男であり、そろそろ次の婚約者を迎えていてもおかしくないはずだ。
なのに、彼は何も決めず、ただこうして時折彼女の前に現れては、意味深な言葉を残していく。
「アラン様、新しいご婚約者の話は進んでいないのですか?」
彼女はあえて問いかけた。
すると、アランは目を細める。
「……そうだね。今のところは考えていないよ」
「まあ……それはまた、どうして?」
「なぜだろうね」
彼はワインを軽く揺らし、思わせぶりに微笑む。
「たぶん……まだ君のことを見ていたいから、かな」
「…………」
一瞬、言葉を失う。
彼は何の躊躇いもなく、そんなことを言うのだ。
セリーヌは、なるべく表情を崩さないようにしながら、小さく息を吐く。
そこへ、エドモンが静かに歩み寄ってきた。
「アラン様、ご機嫌麗しゅう」
「ああ、ルフェーヴル卿」
アランは軽く会釈をし、グラスを傾ける。
「君たち、いい関係を築いているようで何よりだ」
エドモンは微笑を保ちながらも、どこか冷ややかな視線を送った。
「ええ。おかげさまで、忙しい日々を送っております」
「それはいいことだ」
アランは微笑を深める。
「君が支えているなら、セリーヌはきっと幸せだろう。……羨ましいよ」
「……」
セリーヌはグラスを持ち直しながら、彼の表情をそっと伺う。
そこに嫉妬はない。
むしろ、彼は「ただ見ているだけで満たされる」とでも言うような表情を浮かべていた。
エドモンが静かに言う。
「アラン様は、お忙しくないのですか?」
「ああ、僕は君たちのように大変ではないよ」
優雅に肩をすくめながら、彼は言った。
「……まあ、今日はこのあたりで」
アランは静かにグラスを置き、ゆっくりと立ち上がった。
「また、どこかで会おう。……セリーヌ」
そう言い残し、彼は穏やかな足取りで去っていく。
「……」
「……」
エドモンが、ゆっくりと息を吐く。
「……何を考えているのか、本当に分からない男だ」
「ええ……私にも、よく分かりません」
セリーヌは微かに眉をひそめた。
拒絶されても、気にする素振りすら見せない。むしろ、それを愉しんでいるような雰囲気さえあった。
「セリーヌ」
エドモンが、そっと彼女の肩に手を置く。
セリーヌは、ゆっくりと頷いた。二人はアランのことを頭から追いだし、ダンスを楽しむことにした。




