15
王宮の空気は決定的に変わった。
第二王子レオナール・ヴァルモンが正式な王位継承者として認められ、貴族たちは次代の王を迎える準備を進めていた。
カトリーヌ・ベルフォールは、貴族社会の中心で王宮の安定に尽力し続けた。彼女の周囲には、すでに新王を支えるための有力な貴族たちが集まり、その中にはエドモン・ルフェーヴルの姿もあった。
「カトリーヌ様、王宮の内情は安定してきましたが、王妃陛下の動向にはまだ注意が必要です」
エドモンは書類を整理しながら言った。彼は元々政治の表舞台に出ることを望んではいなかったが、セリーヌとの未来を守るためにも、今の時代の流れから目を背けることはできなかった。
「王妃陛下は、表向きにはフェリクス殿下の幽閉を受け入れています。しかし、彼女の中で完全に諦めたわけではないでしょう」
「ええ、私もそう思っています」
カトリーヌは落ち着いた表情で頷いた。
「彼女がまだ何か手を打つ可能性はあります。これ以上、混乱が生じないよう、王宮の監視を強めなければなりませんね」
エドモンは静かに頷いた。
「新王即位の儀式まで、油断はできません」
だが、その警戒が現実となるのは、そう遠くない未来だった。
――王妃が密かに動いていた。
彼女は、かつて王宮でフェリクスの側近だった者たちを呼び寄せ、彼の復権を願う最後の手を打とうとしていた。彼女にとって、フェリクスが王位を失うことは、自らの存在が否定されることに等しかった。
「このままでは終わらせない……フェリクスは、私の誇りなのだから」
王妃の最後の賭けは、絶望へと変わる瞬間を迎えた。
夜の王宮は静かだった。
廊下を抜け、離宮へと続く扉を開ける。王妃の後ろには、彼女が密かに呼び寄せたかつての側近たちがいた。彼らはフェリクスに忠誠を誓っていた者たちであり、今なお彼の復権を願う者たちでもあった。
「……鍵を開けなさい」
王妃が低く命じると、従者が手早く扉の錠を外す。
フェリクスが幽閉されている部屋の前に立つと、王妃は僅かに息を整えた。
(フェリクス……あなたを迎えに来ました)
彼はまだ王となることができる。王家の血を引く限り、彼が正統な王であることに変わりはない。貴族たちの決定など、彼女にとってはただの茶番にすぎなかった。
(私があなたを助け出せば、あなたは再び輝くはず)
そう信じていた。
そう、扉を開けるまでは。
――そこにいたのは、かつての王子ではなかった。
フェリクスは、暗い部屋の片隅にいた。以前は常に整えられていたはずの髪は乱れ、痩せた頬には影が落ちている。王宮にいた頃の華やかさは見る影もなかった。
だが、王妃が扉の前に立つと、フェリクスの表情が一変した。
「……リリア……?」
王妃は息を呑んだ。
「フェリクス……? 何を――」
フェリクスはゆっくりと立ち上がり、光の差し込む扉の前に立つ王妃をじっと見つめた。
「……リリア、迎えに来てくれたんだね……僕は、君をずっと……」
彼の足が、ふらふらと王妃に向かって進む。
「フェリクス、私は――」
言葉を止める間もなく、フェリクスは王妃を抱きしめた。
「……会いたかった……君が、僕を捨てたなんて、そんなはずないよね……?」
その声は、幼い子供が母を求めるような、あまりにも儚いものだった。
「……フェリクス……?」
王妃の目が見開かれる。
「リリア、僕を愛しているって言ってくれ……可愛く僕に誓ってくれ……君だけが、僕を救えるんだ……」
フェリクスは、王妃の肩に顔を埋めた。
「愛しているよ、リリア……僕を、見捨てないで……」
王妃の背筋が、ぞっと冷える。
彼は、彼女をリリアだと思い込んでいる。
「違う……私は……フェリクス、私はお前の――」
「ねえ、僕を愛しているって言って……もう、独りにしないで……」
フェリクスの腕が強くなる。まるでこのまま王妃の存在そのものを抱きしめて、自分の中に閉じ込めようとするかのように。
王妃の喉が震えた。
「……これは、違う……こんなの……」
彼の声には、すでに理性がなかった。
フェリクスは、王妃の手を握りしめると、まるで恋人に誓いを乞うように震えた声で囁いた。
「お願いだよ……リリア……僕を、愛しているって言ってくれ……」
王妃の体から、力が抜けていく。
これは、王家の正統な後継者の姿ではない。
これは、彼女が誇りに思っていた息子の姿ではない。
「……ああ……」
王妃の唇が震えた。
「……フェリクス……あなたは……」
彼女は、最後の希望を失ったように、ふらりと足を一歩引いた。
フェリクスはそれを拒むように、さらに強く抱きしめる。
「行かないで……僕を見捨てないで……」
王妃の頬を、何かが伝う。
それが涙なのか、汗なのか、彼女には分からなかった。
「……私は、何をしてしまったの……?」
息子を助けるつもりだった。
王家を守るつもりだった。
けれど、彼女が向き合ったのは、もはや王の器を持たぬ男だった。
「……すべて、終わりなのね」
呟いたその瞬間、王妃の心は砕けた。
この息子を王にすることなど、不可能だ。
フェリクスの手が、ゆっくりと緩む。
「……リリア?」
彼が顔を上げたとき、王妃の目には涙が浮かんでいた。
だが、それは母としての涙ではなかった。
それは、彼女が王家の運命を悟った者の涙だった。
「……いいえ、私はリリアではありません」
その言葉とともに、彼女はそっと彼の腕を解く。
フェリクスは、まるで理解できないように王妃を見つめた。
「……母上……?」
王妃は何も言わず、一歩下がる。
彼の瞳には、王家の未来はない。
「フェリクス、あなたは……」
最後まで言葉を継げず、王妃は静かに背を向けた。




