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エドモン・ルフェーヴルは、静かな微笑を浮かべながら、セリーヌの手元をそっと包み込んだ。サロンの開設準備を進める日々の中で、彼は変わらず彼女のそばにいた。
「今日はずいぶんと忙しかったんじゃない?」
「ええ。でも、思ったより楽しかったわ。新しい空間を作るって、こんなに充実感があるなんて思わなかった。」
セリーヌが穏やかに微笑むと、エドモンは目を細めた。
「君が何かに打ち込んでいる姿を見るのが、僕は好きだな」
「そんなことをさらりと言わないでちょうだい。驚くじゃない」
唇を少し尖らせながら、セリーヌは彼をじろりと睨む。だが、その仕草にエドモンは可笑しそうに笑った。
「本当のことだからね」
セリーヌの手を離すことなく、彼は指先でそっと彼女の手の甲をなぞる。優しく、けれどどこか確かめるような仕草だった。
「ねえ、エドモン」
「うん?」
「……こうして普通に誰かと向き合うことが、昔はできると思ってなかったの」
エドモンは驚いたように瞬きをした後、彼女の瞳をじっと見つめた。
「昔の君は、きっと僕のことなんて目にも入っていなかっただろうね」
「そんな……」
言葉を濁したセリーヌの頬が、ほんのり赤く染まる。出会の当初、エドモンはジュリアの兄という認識しかなく、こうして並び立つ未来を想像したことすらなかった。だが、彼は変わらずそばにいて、今では当たり前のように隣にいる。
「でも、今は違う」
セリーヌが小さく息を吐くと、エドモンはゆるく微笑んだ。
「君がそう言ってくれるなら、僕はそれだけで十分だ」
そう言って、彼はそっと彼女の指先に口づけた。
「……やっぱり、あなたって、ずるい人」
くすぐったそうに眉をひそめながらも、セリーヌは彼の手を握り返した。
夜会の華やかな喧騒の中、貴族たちは次々と話題を変えながら談笑していた。
「カトリーヌ・ベルフォールは、相変わらず見事な方ね」
「あの毅然とした態度……王家の一件があったとは思えないほど、気品に満ちているわ」
「婚約破棄を経験しながらも、むしろ以前より影響力を増しているなんて、ただ者じゃないわね」
夜会の中央で、カトリーヌは静かに紅茶を口にしていた。彼女の姿は端整で、隙のない美しさをまとっている。男たちはもちろん、女性たちですら彼女に目を奪われる。
「王家の動揺が続く中で、彼女の立場はますます重要になっているのよ」
「どんなに時が経っても、あの方の誇り高さは揺るがないのね」
カトリーヌは耳に届く褒め言葉にも気を留めることなく、ただ優雅に振る舞っていた。その気品に満ちた姿は、もはや「王子の元婚約者」という枠に収まるものではなく、貴族社会の中心に立つべき女性そのものだった。
「そういえば、リリア・エヴァレットのことを知ってる?」
「もちろん! 彼女、隣国の研修室に勤務が決まったんですって?」
「学園の支援もあって、見事な進路を切り開いたわね」
「まあ、王家の騒動の後だから、さすがに貴族社会に残るのは難しかったのかもしれないけれど……」
「けれど、彼女はきっと強く生きていくわよ」
話題に上るリリアの名には、学園時代とは違った響きがあった。あの騒動の中でただ振り回された少女ではなく、自らの道を選び、新しい未来へと進んでいる。
「彼女のように、自分の力で道を切り拓ける女性って素敵よね」
「ええ、本当に。輝かしい未来が待っているわ」
誰もが、彼女の前途を祝福するように微笑む。その場にリリアはいなくとも、その話題の温かさが彼女の未来を照らすかのようだった。
セリーヌは会話の合間に紅茶を口に運びながら、ちらりと隣を見る。エドモンは静かに微笑んでいた。
「カトリーヌ様も、リリア嬢も、それぞれの道を歩んでいるのね」
「そうだね」
彼は穏やかに頷いた。
「セリーヌも、もう過去に囚われる必要はないよ」
そう言って、そっと彼女の手を包み込む。
「……ええ、わかってる」
セリーヌは微笑んだ。
過去の影を振り払うように、未来へ向かう自分を確かめるように。彼女の視線はもう、前を向いていた。




