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第一話「はじめて」








 ぱちり、とピースがはまる音がする。


「はる、見て。綺麗だねぇ…」


姉さんが嬉しそうに微笑んで、できたばかりのパズルをなぞった。


 この蔵の中の、唯一の僕のおもちゃ。夕焼けの「海」の、とっても綺麗なパズル。橙色のその色が、姉さんの髪の色みたいで、すごく美しい。


 そんなはずないのに、この色が姉さんがそばにいてくれる気がして。


 もらってもう随分経つのに一個もピースを無くしていない僕の宝物を、姉さんの指が優しくなぞる。ほっぺにあたる橙色の髪がくすぐったくて、これ以上ないほど愛おしい。


「へくちっ」


姉さんが小さくくしゃみをした。


「姉さん、寒い…?」


僕に毛布を貸してくれたから、姉さんは何も羽織っていない。部屋から抜け出してきたままの服装だ。


 たぶん、僕の服よりはずっとあったかいんだろうけど、でも僕はここにいるのなんて慣れているから、姉さんが風邪を引いてしまわないか心配だった。


「ううん、平気!…でも、そろそろ帰んなきゃだね。父さんにバレたら怒られちゃうもん」


少しいじけたように、姉さんが言う。そうだよ、こんなところにいて、姉さんが怒られちゃったら、怖い。さすがに父さんも僕にするみたいに蹴ったりはしないだろうけど、何もないのが一番良い。


「じゃあね、はる。また明日来るからね。…約束だよ」


差し出された小指をそっと、自分の小指と絡ませる。


 同じ大きさのその手は、びっくりするほどあったかくて、柔らかくて、でもやっぱり小さかった。


 がたんと二人で体重をかけて戸を開けると、寒い空気が流れ込んでくる。


 ひゃ、と同時に首をすくめて、顔を見合わせて笑った。


 手を振って、姉さんが屋敷のほうに走っていく。すごく寒いけど、最後まで見送りたくて、土が足につくのを感じながら外で風に吹かれた。


 八歳にしては僕も姉さんも、小柄な方だったんだって。姉さんは自分のご飯をわざと残して僕にくれていたんだって気づくのはもっと、後だった。



◇◇◇



 馬車に乗っている間に眠ってしまっていたらしい。ふと気がつくと、大きなベッドの中だった。


 確か、東雲様に手を取ってもらって馬車に乗せてもらって。そこまでは辛うじて思い出せるものの、その後の記憶がない。


 …どうしよう。馬車の中で色々説明してくれるっておっしゃっていたのに…!


 怒っていらっしゃるだろうか。失望されているだろうか。そういうことを考えると、胸がぎゅっと冷たくなる。呑気に寝てしまった自分に腹が立つ。


 …しののめ、さま…。


 体を起こして周りを見回すけれど、いない。謝らなくては。勝手な行動をしたことを謝罪しなくては。


 慌ててベッドから降りようとし、けれど、ふわふわすぎる感触に乱雑に扱うのを躊躇った。普段は近くにあんまりない、姉さんが寝ていたところみたいな柔らかな手触り。


 …ベッドってこんな触り心地だったんだ。


 もうずっと布団でしか寝ていなかったから、驚いてしまう。こんなところに僕なんかが寝てよかったのだろうか。


 恐る恐る床に足を下ろす。もふ、と絨毯があたたかかった。


 こんこん。いきなり聞こえた音に驚いて、弾かれるように背筋を伸ばす。


「失礼するよ」


穏やかな声が聞こえて、ドアが開いた。おや、と小さく呟いて驚いたように東雲様が目を丸くする。


「起きたんだね。よく眠れたかい」


にこ、と柔らかく東雲様が微笑んだ。赤い目が、ふわりと細められる。


 …勝手に寝たの、怒ってないの、かな…?


 なんて話せばいいんだろう。わからなくて、ただ数秒間見つめ合う。


 ぱちぱちと少し不思議そうに瞬いたあと、東雲様は軽く頷いた。


「あ、そうか。済まない、話せないんだったね。どうしようか」


 …あ。忘れていた。危なかった。


 僕の声は中性的らしいけど、それでも声で男性と気づかれてしまう可能性もあるから話さないに越したことはない。生まれつき話せないことになっている、と姉さんが言っていたような気がする。


「家ではどうしていたのかい。筆談かな、それとも口の動きでかな」


 …っ、どうしよう…。


 本当に僕は話せなかったわけではない。でもそれを言うわけにはいかないから、なんとか答えなくては。


 どうしよう。できるだけ、自然な回答をしなきゃいけない。そう思うのに、心臓がどくどくと速くなって、息が苦しかった。


 嘘をつくって、自分で人を騙すって、こんなに怖いんだ。ふと、そう思う。


 なにか返事をしたくて、でも矛盾ができたら困るから焦る。


 文字なんて姉さんとのしりとりとか手紙でしか使わなかったし、最後に誰かに見せるために使ったのなんて、五年以上前だ。書ける気がしない。


 でも口の動きだとつい話してしまいそうだし、どうすればいいのだろうか。


 俯いてしまった僕を急かすでもなく、東雲様は微笑んでいる。僕が何かしないといけない。この方は僕を待っていてくれているんだから。


 僕がどうするか、これからは僕が決めるんだ。


 震える手で、机の上のペンを取った。紙とペンはもう、東雲様が用意してくださっていたらしい。ずしりと重厚な重さだった。


『僕は文字があまり書けません』


かりかりと音を立てて紙の上で線が踊る。ざらざらと引っかかる感じがあんまりなくて、上質な紙なんだな、とぼんやり思った。


 書けない、をそれっぽく言い換えるにはどうしたらいいだろう。


『ふだんは書かないので、あんまり上手くできないと思います』


書き終わったけれど声が返ってこないことに不安になって、顔を上げる。ぱちんと目が合うと、東雲様が優しく細めた。


「十分に書けているから大丈夫だよ。あと、君の顔や手の動きを見たら大体わかるから、無理に完璧に書こうとしなくてもいい」


それと、と東雲様が続ける。


「まだ子供たちはあまり漢字を読めないから、ひらがなの方が会話しやすいかもしれない」


 …褒めら、れた?


 …え、こども、たち?


 一瞬、言葉が処理できなかった。こども。子供…?どういうこと?


 戸惑って東雲様を見る。え、と小さく彼が呟いた。


「…あれ。もしかして、何も聞いていないかな」


困ったように東雲様が笑う。その笑顔に申し訳なくなった。迷惑をかけてしまっている。


「ええと。私のことはどこまで知っているかい」


そう問われ、焦った。どうしよう、思い出せ。


 …あんたの旦那様は東雲和真様、という方よ。こういう漢字を書くの。書けるようになっておきなさい。年齢は三十、だったかしらね。まあせいぜい、疑われないように頑張って。あんたは鈍臭いから、無理かもだけどね。


 姉さんの言葉を必死に再生するけれど、お子さんがいらっしゃるというのは聞いたことがなかった。そもそも父さんや母さんとなんて話してすらいないから、何もわからない。


『ごめんなさい』


どうしていいかわからなくて、ただ、それだけ書く。他に何か言えることがないか、一生懸命に探した。


「ううん、大丈夫だよ。上手く情報伝達ができてなかったのかな。不安にさせてしまったね、悪かった」


座るね、と言って東雲様が鏡の前の椅子を引いて、ふわりと座った。僕にもベッドに座るように示してくださる。


 それにほぼ無意識に従いながら、僕は言葉をゆっくりと認識する。音声としては聞いていたけれど、言葉の意味がわからなかった。


 …僕は謝られたのだ。違う、東雲様は何も悪くない。


 ようやく、その言葉に辿り着く。僕が悪いのに。僕が知ろうとしなかったから、こうして東雲様にわざわざ説明させてしまっている。


 そう言いたくて、謝りたくて。でも声を出してはいけなくて。言葉になれない思いが渦巻いて、ひどくもどかしかった。


「じゃあ改めて、自己紹介するね。私は東雲和真。えっと、三十歳で、アルファ男性。…って、こんなことを言ってもだよね。うーん、とりあえず家族のことについて話そうか」


結局謝るタイミングを逃してしまった。何か言いたいけど話を遮るのは失礼だから、黙る。


 …ごめんなさい。


 唇を噛んでいたことに、血の味がして気がついた。いけない、話を聞かなくては。


 顔を上げると、す、と視線が合った。赤い瞳が怖くて、なのにどこか優しかった。それでいてどこか、痛みを孕んでいるような、そんな目だ。


 ふっとそれが微かに揺らいで、逸らされた気がした。


「…私には元妻がいてね。二年前に逝ってしまったんだけれど」


 …え。


 いった。逝った?亡くなられた、ということ?


 僕が唖然とした顔をしたのに気付いたようで、東雲様が慌てて手を振る。


「ああ、済まない。いきなりすぎたね。そこまで重く捉えないでほしい。…それとも、こういう話は嫌かい」


咄嗟に首を振る。それから自分の気持ちを考えてみる。

 結局、嫌ではない、という結論に辿り着いた。


 たぶん、僕はびっくりしたんだ。目の前の人がそんな過去を抱えていることに驚いた。どんなに辛かったんだろうって、苦しかったんだろうって。今、笑って言えるようになるまで、どんなに苦しかったんだろうって。


 お子さんがいると聞いた時点で奥さんがいたんだろうなとは思っていたけれど、その人がどんな人なんだろう、と気になった。東雲様の目が、どきりとするほど柔らかかったから。とても優しくて、穏やかで、寂しそうな笑顔だったから。





 

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