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第15話



 ロストンは涙を堪えようと目を閉じた。

「大丈夫?」ジェーンがテーブルの向こうで言った。

「うん、ちょっと思い出してね」

 ロストンはスペースドームを眺めているうちに、まるで占い師が水晶の中を覗き込む時のように、記憶の風景をその中に浮かばせていた。それは薄暗い光景で、自分の生涯が視界不良の雨の日のように映っていた。じっと眺めていると、その暗闇は、数カ月前に行った映画館の中の暗闇を連想させもした。家族の愛がテーマだと謳いながら、伝統的な家族観とはまったく相容れない映画だった。

「実はね」ロストンは目を開けながら言った。「僕は母親に捨てられたんだ」

 ジェーンは驚いた表情をし、少し黙ってから口を開いた。「何があったの?」

「さあね。僕のせいかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

 彼はドームの中に、最後に母親を見た時の姿を思い浮かべていた。なるべく意識から追い払おうとしてきた記憶だった。

 自分が十歳ぐらいの時、まず母が去り、その後に父も姿を消した。だがその前の、家族が一緒に過ごしていた頃の記憶もわずかながらあった。

 たとえば、戦争が始まった時のこと。覚えているのは、不安感、空襲の度に鳴り響いた警報、地下の防空壕、ニュースで伝えられる被害状況だった。でもその中で何よりも覚えているのは、食糧不足だったこと。たまに配給があったが、お腹を満たすには足りなかった。だからロストンはよく道端のゴミ箱を漁り、林に入って草を毟り取って煮たり、蛙やバッタを焼いて食べたりしていた。だが、地下の防空壕に避難している時はそれすら出来ず、飢えにひたすら耐えていた。

 終戦後も辛いことは続いた。母親が妹を連れて他の男のところに行った時、父は動揺し、ひどく落ち込んだ。そしてまるで別人になった。何事にも無関心になったのだ。何もかもどうでもいいという態度だった。まず仕事をしなかったし、生活に必要なことを全部おろそかにした。掃除や洗濯などの家事を一切しようとしなかったので、自然と全ての家事はロストンの担当になった。父はよくソファにだらしなく横たわってテレビを観ていた。  

 母と妹がいなくなる直前の記憶もあった。当時二歳か三歳だった妹は、鳴き声のうるさい子だった。そんな妹を母はよく抱きしめてあやしていた。だがロストン自身は、母に抱きしめられた記憶がなかった。彼はまだ幼くて物事の分別がついていなかったが、母が自分にだけ冷たいのは何か変だと感じていたし、寂しさを覚えていた。母が家を去った時は、それが自分と何か関係しているのではないか、それが自分のせいなのではないかと悩んだ。

 彼は家族で暮らしていた部屋も覚えていた。日当たりも風通しも良い部屋で、それほど狭くなく、壁は白塗りだった。ただ、棚には食料がなかった。母がとても痩せていたのを覚えている。ロストンもいつもお腹をすかせていた。それに、母はいつも彼の取り分を少なくし、妹により多くを与えていた。食事のたびに、妹はまだ小さくて弱いからもっと食べないといけない、と母は言った。だから彼は自分の取り分がどんなに少なくても、妹のためにじっと耐えたのだった。抑え切れない空腹感が襲ったが、妹のために我慢しなければいけないと自分に言い聞かせた。  

 そんなある日、二日ぶりにどうにか手に入れた食料は、一家四人に対して小さいライ麦パンが一本だった。母はそれを四等分したが、妹は自分の分をすぐに平らげると、ロストンの分も欲しがって大声で泣き出した。彼もすでに半分を口に入れていたが、母は口に入れていない半分をあげなさいとたしなめた。もじもじしていると、母が無理やり取り上げ、妹に渡した。小さな妹はそれを手にすると、すかさず口の中に入れた。ロストンは静かにその場を離れ、玄関のドアに向かった。振り返ると、母は妹の方を見ていて、彼がどこに向かうのか気にもとめていなかった。それどころか、母は妹を抱きかかえると、ぎゅっと胸に押し当てたのだった。その姿を見て、妹は愛されていて自分はそうではないのだと分かった。

 その後、母と妹の姿を見ることはなかった。ロストンが街のゴミ箱を漁ったり、林の中に入って食べられる草を探したりと、数時間うろついた後に戻ると、母と妹はもういなかった。

 最初はどういうことか分からなかった。よその男のところに行ったというのを、後日父から聞いた。具体的にどこかは詳しく聞かなかったが、外国らしかった。

 その時にロストンは思った。もしかしたら、もっと豊かで安全な国なのかも知れない。相手の男が金持ちなのかもしれない。だからそっちに行ったんだ。荷物でしかない自分を捨てて。

 ロストンの中でその記憶は未だに強く残っていた。そしてそれは形を変えて、夢にも度々出てきた。夢の中で、船に乗った母と妹は少しずつ遠ざかっていた。彼はただ立ち尽くして、二人が向き合って笑っているのを見ていた。

 話を聞いていたジェーンは、彼の顔をじっと見つめ、肩を撫でた。

「辛い思いをしたんだね」

「もう昔のことだから。ただ……」

 彼は母の話を続けようとして、黙ってしまった。

 思い返してみると、母はどこか安っぽい、軽薄な雰囲気を漂わせていた。母の感情は常にころころと変わり、自由気ままに行動するところがあった。しかし愛に関してだけはなぜか実用的で、誰かを愛するならそれは条件付きの愛だったし、条件を満たさないなら愛を与えなかった。それが後から振り返ってみた時の彼女の印象だった。母は父に対してもそうだったし、自分が彼女の何を満たしていないのかは分からなかったが、自分に対しても恐らくそうだった。もしかしたら自分は父の連れ子で、母の実の息子ではないかもしれない、と疑ってもみた。しかしそれも憶測でしかなく、もはや確かめようもない。

 当時の貧しさを思い浮かべていると、ロストンはその後の目まぐるしい時代の変化にも考えが及んだ。

 終戦後、それまで我慢を強いられていた人々の欲求は、復興とともに徐々に満たされていった。世界市民連合は、その状況を巧みに利用した。当初、反体制派の運動が湧き上がっていたが、連合は、政治的な闘争よりも個人の欲求こそ人生で最優先すべきものだという価値観を人々に刷り込ませた。大衆の関心を経済的な豊かさと消費に向かわせ、反体制派の影響力を封じ込めようとしたのだった。そして連合はそれに成功した。経済が回復し、発展するにつれ、民衆による抗議デモや社会運動は徐々に廃れていった。連合が支配する今では、何らかの高潔な社会的使命感を持つのはトラディットしかいない。

 でも、トラディットしかいないということは、見方を変えれば、トラディットにこそ希望があるということではないか? 

 ロストンの頭に突然そのような考えが浮かんだ。それは前にも考えてみたことだった。

 彼は状況を楽観的に捉えてみようとした。トラディットは世界市民連合やその理念に洗脳されていない。現代のライフスタイルを一部取り入れながらも、価値観は洗脳されていないのだ。先祖から受け継いできた伝統的な価値観への敬意を、かれらは捨てずにいる。今は弾圧を恐れて縮こまっているが、潜在的に連合の最も大きな反対勢力だ。共同体意識を保ってきたかれらは、大きな団結力を秘めているはずだ。

 彼はふと、数週前のことを思い出した。遠くで打ち上がる花火を見ていたトラディットたちは、楽しそうな表情をしていた。

 彼は隣のジェーンの手をそっと握り、口を開いた。

「時に考えることがあるんだ。自分の生きる意味は何だろうって。ただ生きていればいいのかって。自分が大事だと思う何かのために頑張らないといけないんじゃないかって」

「その何かって何?」彼女が手を握り返した。

「ちっぽけな自分を超えた、もっと大きいもの。先祖からぼくたちが引き継いだ大切なもの。ぼくたちの文化、信仰心、人種、国……連合がそれらを破壊するのを見ながら、ぼくは具体的な行動に踏み出せなかった。でも逃げ続けても状況は変わらない。警察に捕まる可能性もあるけど、挑んでみたいんだ」

「捕まるのは困るわ」ジェーンが心配そうな目をした。

「そうならないように細心の注意を払うつもりだよ。でも最悪の場合、そういうこともあり得る」

「何をするつもりなの?」

 ロストンは、資料室での出来事をジェーンに説明した。そしてオフィールドが異端派であるかを確認するつもりであることも打ち明けた。

「彼がもし異端派だったら、一緒に何をするの?」

 彼女が不安な目で訊いてきた。

「それはまだ分からない。彼が地下組織とつながっていれば、何か手伝えるかもしれない」

 彼女は首を傾げた。「もし彼が異端派でも、こっちから異端派だと告白しなければ、向こうも言わないんじゃない?」

「そうかもしれない」

 ジェーンは真剣な表情で彼の顔をじっと見つめ、口を開いた。

「わかった。じゃあこうしよう。こっちからは異端派だと告白しないで、彼に訊く。それで向こうが告白しなければそれで終わり。引き返して」

 今度はロストンが首を傾げた。

「うん……その方が安全だとは思うけど、その場合は、君が言った通り、異端派じゃないって答えるだろうね。こっちからも異端派だと告白しないと、向こうも言わないだろう」

 ジェーンは彼の顔をまたじっと見つめた。

「私ね、あなたの考え方に共感している。だから一緒にいるの。体制が強いる価値観に屈しないところとか、伝統的な価値観を大事にするところとか、婚前の純潔を守るところとか。私だって体制側の暴挙を止めたいし、だからあなたを応援したい。私にできることがあったらサポートする。でも、捕まったら元も子もないわ。全部おしまいよ」

 ロストンは一瞬黙った。彼女が心配するのは当然のことだと思った。彼女を守るためにも、軽率なことはできない。

「わかった。じゃあこっちからは言わないで訊いてみるよ」

「私も行くわ」

「え?」突然のことに、ロストンは一瞬、耳を疑った。

「あなたの口がうっかり滑らないか心配だし、それに、私のように一見自由奔放に見える人と一緒にいた方が異端派だって疑われないでしょ? 友人だって言えばいいわ。それにトゥルーニュース社と一緒にプロジェクトをしているから、私も一応、会社の関係者よ」

「でも……もし、予想もしなかったことが起きたりして、何かの間違いで、僕たちが異端派だと通報されるようなことがあったら、どうする? もしかしたら、僕が逮捕されるだけじゃなく、君も取り調べを受けることになるかもしれない」

「そうならないように十分気を付けないとね」

「万が一の話だよ。そうなったら、君も全てを失う。でも僕一人だけで行けば、君に被害は及ばない。僕はたとえ拷問をされたって、君についてしゃべったりしないよ」

「ありがとう。でもスマートスクリーンから撮った記録を調べればわたしたちの関係はすぐ分かるわ。それに、かれらなら、あなたがどんなに強い信念を持っていたって、必要なことをしゃべらせることができるかもしれない。最新の脳科学や生理学の技術を使えば人の感情もコントロールできるの。だから、捕まったら終わり。一人で行っても二人で行っても同じだわ」

 彼は、死角がないように街中に設置され、全ての映像と音を記録している防犯用スマートスクリーンを思い浮かべた。誰かがスクリーンの向こうで常に監視しているわけではないにしても、何かがあればすぐに記録を取り出して確認できる。その監視網は国中に張り巡らされていて、誰も逃れることはできない。その抜け目のない監視網を構築しただけでなく、かれらは他人の頭のなかを覗き込む術、さらにはそれを操作する術さえ持っている可能性がある。

 実際にかれらに捕まったらどうなるのか、博愛園の内部で何が行われるのか、彼は知らなかった。だがなんとなく見当はついた。心理テスト、薬物投与、懐柔、脅し、現実生活から隔離させることによる精神の衰弱化と洗脳が待ち受けているのだろう。信念を失わないように踏ん張っても、かれらはこちらの信念そのものをコントロールできるかもしれない。こちらの行ったこと、口にしたこと、考えたことをすべて自白させるのみならず、心の奥底の部分さえも入れ替えることができるかもしれない。

 ロストンは思った。

 だから自分の内面を守るためには、まず捕まらないようにしなければならない。かれらに捕まらないための情報と力、武装が必要なのだ。




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