84:時計塔
「拙者、親方と申すはお立会いの中にご存知のお方もござりましょうが……」
長い長い石造りの螺旋階段に「外郎売り」の澄んだ声が小さく響く。
それが届いているのは自分の耳だけ。
エレベーターもあるのだ、この目眩がするような高さをわざわざ上る酔狂な者など他に居やしない。
一歩ずつ近くなる、目指すは頂上。
ヒールを鳴らしながら"彼女"は高みへ向かっていた。
「元朝より大晦日までお手に入れまするこの薬は」
もう随分と上っているにも関わらず、息を乱さず途切れず唱え続けるのも大したもの。
基礎体力や役の体作りで鍛えることは女優だった前世から確かに慣れているとはいえ、階段は下半身を全体的に使うのでそろそろ疲労も出てくる。
下りのことは考えなくて良いのがせめてもの救いか。
明かり取りの窓から切り取られた小さな空は夕暮れ。
果実が甘く熟すように刻一刻と橙色を増す。
ここから見上げたら、星に手が届きそうな夜だろう。
眼下の街では蟻にも似た人々が忙しなく行き交いながら家路を辿る頃。
この時計塔も閉館時間が少しずつ迫っている。
約束には間に合うだろうが、のんびりもしていられない。
「先ずこの薬をかように一粒舌の上にのせまして」
それにしても人間一人分の生気と欲望はなかなか強かった。
特にモルガは前世と今世で粘着いた執着と成り果てていただけあって胃もたれしそうな濃さ。
こちらは溢れそうなくらい満たされて調子は良かったが、ずっと身体に留めているようなものでもない。
桜を咲かせたのは古いながらも王道の演出。
昨夜のうちに墓地へ先回りして、枯れ木に花をとばかりに生気を注ぎ込んだ。
ラストシーンを飾る役に立ったなら、汚い手段で稼いだ金を慈善活動に使うようなものだろう。
ヴィヴィアとトワを眠らせた分の生気は残しておいたので、今日一日は好調に楽しく過ごせた。
彼女らの思い出に残る姿は意地でも美しくありたい。
「さて、この薬、第一の奇妙には……」
こうして、やっとタスクは完了した。
十四歳でこの世界に来てからもう十二年か。
最後は時計塔の屋上で自ら命を断つ。
どの世界でも"彼女"の請け負う役目は決まったこと。
シナリオ以上の悪役を演じて、その死で物語を終わらせる。
この世界に来る前から何度も繰り返してきた。
もう幕は降りる、客達は席を立つ。
魔物も奈落へ帰るのだ。
月華園では黒こそ最も美しい。
墓参りの為に纏った喪服だったが、自分を弔う為でもあるとは皮肉なこと。
「そりゃそりゃ、そらそりゃ、まわってきたわ、まわってくるわ」
倒れてから一ヶ月近く昏睡した後だ。
回復してからすぐに旅行なんて周りがよく許したかといえば、実のところ皆には黙って出てきた。
一番の罪人であるモルガと対峙する目的があっただけに何が何でもナイト領へ向かわねばならず、口裏を合わせる共犯にトワを引っ張り込んだ訳だ。
なので、何も知らないヴィヴィアからは小まめに体調を心配されたものである。
自殺の一報を受けたらきっと二人が責められるだろうけれど、謝罪などは遺書に纏めて鞄へ入れておいた。
こんなことで許してくれとは決して言えないが。
エゴを貫くならその罪も自覚せねば。
「のら如来、のら如来、三のら如来に六のら如来」
前世のいつだったか女優を続けるか結婚して辞めるか、と恋人に迫られたことをふと思い出す。
あの時は指輪を突き返して、それこそ熱狂的なファンに刺される日まで女優であり続けた。
今回だって同じ選択。
結果的に一方的な婚約破棄ということになるのでレピドには悪いとは思ったが、別れも告げず逝くことにした。
レピドは自分の所有物として見ず、何も奪わず惜しみなく与え、この魔物を女でなく人として扱ってくれていた。
幾つもの違う世界を見てきたが、こんな男は初めてだ。
だから、出来るなら同等の存在でいたかったのに。
自分が魔物だということは初めて逢った日に明かしても、物語の最後に死ぬ役目のことは言わずにいた。
そうして今日、婚約者の命を奪う。
楽しいことも愛おしいこともあった。
それが世界の全てで身も心も恋だけに捧げるような生き方を選んだろう、お姫様ならば。
しかしここに居る女は悪役令嬢、魔女、魔物。
「いつまでも幸せに暮らしました」で綴じられない。
「来るわ、来るわ、何が来る」
ライト伯爵家は国の暗部にも関わる役割、レピドは先に自分が死ぬことばかり考えている。
それくらいで絶望するような女でないと知っているからこそ、この手を取った。
こちらが先立つことは申し訳ないと思いつつ、あちらも恋愛に依存しない男だからきっと大丈夫だろう。
婚約者を失って憔悴しても、最後まで"彼女"が受け取れなかった指輪はいつか他の男でも女でも代わりに薬指へ嵌めてくれる。
正直なところ雪椿の方が後追いしそうな心配。
幼い頃から縋っていた愛を二度も失うのだ、今度は永遠に。
「……っリヴィ先輩、僕のこと、忘れないで……無かったことにしないで」
この肩に顔を埋めて泣いていた声が、耳の奥で焦げ付く。
あれから八年も経ってしまったか。
とはいえもう互いに大人、雪椿も今は他者との繋がりが生まれて一人きりではない。
飼い犬でなくなっても自分で歩いて行ける。
「中にも、東寺の羅生門には」
奈落へ持ち帰れないのは分かっていながら、レピドライトのピアスと星のリボンは身に付けていく。
愛した男二人からの贈り物。
彼らが遺体を前にした時、これで身元の証明になるだろうか。
おかしな話だろうが、二度と会えないというのに晴れやかな気持ちの方が強かった。
魔法使い魔女とはそういう魂の生き物だ。
彼ら彼女らもまた魔物に成り得る素質を宿して生まれてくる。
胸に抱いた火花には決して逆らえない。
「この外郎の御評判、御存じないとは申されまいまいつぶり……」
シナリオを碌に読まないまま舞台の上に放り出され、知らない間にフォローがあったとはいえども最近までずっとアドリブだけで立ち続けてきたのだ。
どれだけ孤独で恐ろしかったか。
確かにこの役に愛着はあるし、物語が終わってしまう寂しさくらいある。
誰か別人を演じるいつもと違って、リヴィアンと素顔の"彼女"に差異は無く同化しているだけに尚更。
それでも死ねないことの方が恐ろしかった。
最終局面という熱狂の中で命を絶たれる、この無常の悦びは何ものにも代え難い。
そして今はもうシナリオの奴隷であり、この足は止まらず。
「……ホホ敬って、ういろうは、いらっしゃりませぬか」
階段の終わり、視界が開けて街で最も空に近い場所へ到着する。
閉館時間が近いこともあり舞台は無人。
観客の不在は却って好都合だった、邪魔されては敵わない。
逢魔ヶ時と呼ぶに相応しく、あまりに赤い空だった。
ただでさえ冷々たる雪国の夕暮れ。
この太陽が灼け落ちたら、それこそ全てを凍て付かせるような夜が来る。
そう、悪役令嬢が消えてもこの世界は存在し続けるのだ。
もうじき沈む太陽は明日も凛とした顔を見せる。
何も変わらないことに安堵して、笑う。
この胸の中、まるで木苺を詰めた鍋が火に掛かっているようだ。
何しろ十二年分もの量があるので地獄の釜。
ジャムを煮るのは得意、ワインに似た深紅が滾るような感覚に心臓が早鐘を打つ。
鍋の縁でふつふつし始めれば、煮立つのは早い。
最高潮の熱で灰汁が溢れて鍋の外側までも焦げ付きそうになっていた。
舐め取ればきっと一滴で香りに酔い痴れる。
冷めてしまうには惜しい、なんて甘やかな熱か。
ああ、時間だ。
時計塔の長針はとうとう真っ直ぐ天を指す。
寒空を震わせる鐘の音は吹き荒れる風に乗り、街に夕刻を告げた。
呼吸を整えるのは六回響き終わるまで。
高さ十二階建て相当、真下には幼いヒロインが溺れて指輪を手に入れた池。
物語の始まりであり歪みの始まり。
水に落ちる形とはいえ、深さはほんの三メートル程度なので助かる見込みはあるまい。
池の周りにも人の姿はほとんどあらず、飛び込みで立った大波と物音でこれから集まってくるだろう。
当然の話だが、こんなヒールの靴で階段なんて上るものではなかった。
痩せ我慢もそろそろ限界、脱ぎ捨てた裸足は楽になるどころか氷のような床で痛いくらい冷える。
もともと遺書や身分証明などの品々は全て鞄に預けてきてしまったので更に身軽。
所持品といえばただ一つ、よく研がれたナイフ。
「ッ……」
フレア袖のジャケットは捲るのも容易い。
左手首に当てた刃先、そのまま肘の内側へ滑らせて縦に裂く。
青く浮かぶ血管に沿って噴き出す赤い飛沫。
手首を切ってから水に浸かるのは自殺の基本。
今までは他殺のみだったので勝手がよく分からず念の為に持ってきたナイフだったが、選択ミスだったかもしれない。
銃ならこめかみに一発、毒なら一口で済んだのに。
胸や腹を刺すにはこの身体では少し脂肪が厚いことだし。
それより、もう鮮烈な痛みで神経が焼き切れそうだ。
無遠慮に滴って腕、服、床と汚していく深紅。
胸に沸き立つ木苺ジャムがとうとう肌を突き破って漏れ出してきたような錯覚。
なんて妄想に耽るのも、この辺にしておこうか。
血の足りなくなった左腕が痺れてきた。
早く、早く、早く。
胸の高さまである縁の上へ立つ。
「私は魔物、奈落の魔物、舞台の下は魔物の棲家」
無人の屋上、白い息で朗々と唱えるのは何の為か。
誰よりも自分に言い聞かせる為。
私は魔物、いつまでもここには居られない。
この名前も身体も本物から奪い取った物。
もういい加減に全てを返さなくては。
女は身投げの際でも足から落ちるものという。
死しても顔を守りたい乙女心か。
そういえば学園卒業前の冬、ロキを振り払う為に図書館の窓から飛び降りたこともあった。
また逃げることになるがあの時と違う、今度は頭から飛び立つ。
裸足の爪先が縁を蹴る。
真っ逆さま、天地が引っ繰り返った。
しっかりと結い上げた金の髪は舞ったりせず今は"彼女"自身が風になる。
速度を上げながら茜空が遠ざかり、凄まじい力で引き寄せられるように近付き大きくなっていく水面。
夕陽の色と光を与えられ、なんて綺麗で眩しいことか。
このまま水底へ、沼よりも深い奈落へ。
かつて舞台で輝いていた星は堕ちて、人ならざるものへ成り果てた。
そこで生きる人々に憧れても焦がれても幕が下りればお別れ。
死者が星になるならば、この世界の天に光一粒と地に顔の潰れた抜け殻だけを残していこう。




