82:訪問者
「……もう良いわ、黙りなさい」
右手を反時計回り、まるで演奏を止める指揮者の合図で自白は途切れる。
そう命じたのは冷たく透き通りつつ強い響きの声だった。
落ちる溜息は気怠げで艶やかながら確かな重みも。
感情というものは空気に移るもので苛立っている人間が居るとその場は酷く息苦しくなる。
北国の真夜中はこんなにも冴え冴えとして外では月も星も美しく磨き上げられているというのに、そこに閉じ込められている者は自分の内なる泥しか気付かずにいた。
汚れたフィルター越しでは醜いものしか見えやしない。
その独房じみた部屋の中、桜色の髪を掻き毟っていたのは四十代半ばほどの女だった。
顔を歪めて、噛み締めた奥歯が嫌な音を立てる。
脚が動かずベッドから起き上がったのは上半身のみ。
かつて三大公爵ナイト公爵家のモルガは優雅で透明感のある貴婦人として評判だった。
不妊気味と医者から診断されても、良いお飾りにはなるだろうと迎えられたのが嫁入りの理由。
それももう遠い昔の話、突然「娘が王妃候補に選ばれ、欲で人が変わってしまった」と散々陰口を叩かれるようになり例の階段の事故を経て社交界から完全に姿を消した。
今や濁り切り、動かない身体は肥え太り、やることも無くただ息をしているだけの生活。
美や健康を失っても一度妻として迎えたからには最期まで責任を持つと公爵は面倒を見ていたが、これではまるで飼育のようなものである。
そこに起きた、アンデシンとロードの事件でモルガは今度こそ完全に狂ってしまったようだった。
王妃の母という名誉を逃し、十年以上掛けて積み上げてきた野望が全部崩れ去った訳だ。
不自由な身体では儘ならないが、ヒステリックに叫んだり暴れたりと実に喧しい。
公爵家の面々による受け止め方はこんなところか。
勿論公爵の方は事件には驚愕しつつも、正直なところロードに王妃など務まらないと理解していたのでその点だけは安堵した。
どう足掻いても能力は人並み、あれでは寵愛を得ても王太子に媚びる可愛いだけのペットだ。
だからこそ国の為と彼女の安泰な将来の為にと優秀なヴィヴィアを王妃として推薦しており、あの叱咤は歪な親心と言えなくもなかった。
本人に届かなければ全て無意味であっても。
もともと本邸の公爵や息子達とは敷地内別居状態で、母子の住処は離れの建物。
日常生活で介助が必要なモルガだったが、この調子なので使用人達も気味悪がって事務的な対応のみ。
破格の給与で雇った少人数を交代制でつけて、何とか回っていた。
要するに場所や警備の面からしても忍び込むには容易い。
ここで役立ったのは、いつぞや狙撃手役としての人生を歩んだ時の経験や知識である。
気配の消し方、目的地までの経路、暗殺は遠距離だけでなく敵地へ侵入することもあったので懐かしい感覚。
そうして"彼女"はモルガの前に現れた。
ランプの明かりに照らし出される特徴的な金色。
ゲームの姿よりも余計な肉を落としてはいるが、淡いレモンブロンドを持つリヴィアン・グラスの身体で。
暗闇からの急な訪問者にモルガが狼狽しても、少ない使用人や警備の者はもうエナジードレインで眠らせた後なので誰も来ない。
リヴィアンが名乗って安い挑発をしてみせると、簡単にモルガから怒りを引き出せた。
リヴィアンの耳朶には、鮮やかな赤紫色の宝石。
「鱗」の名を持つレピドライトのピアス。
そこから流れ出す魔力から二匹のドラゴンが生まれても、モルガには何も見えず。
牙を剥き出して襲い掛かられても、何も知らないまま呑まれた。
この世界のルールとして、魔法を感知出来るのは同じく魔法使い魔女だけ。
そして、これもまた魔法のルール。
魔法使い魔女は自分と同じ名前の石に魔力を移し、魔道具を作れる。
レピドの魔力は「竜帝」、自分に怒りをぶつけてきた者をある程度まで操ることが出来るのだ。
特に自白させるには効果抜群。
こうして魔力に掛かった後は本人ですら無意識だった悍ましいものが言語化されて流れ出す。
肉袋の中に隠して溜め込んできた中身を全て吐き出すまで止まらない。
「そうかそうか、リヴィアン、あんたが転生者だったのね!ほら、ほら、ほら!やっぱりうまくいかないのは他の転生者の所為だった!私が間違っていた訳じゃなかった!」
目を剥き、唾を飛ばし、それはそれは嬉しそうに高らかにモルガは笑い出した。
アンデシンが凶暴な化け物に育ってしまったのも、ロードが彼を滅多刺ししたのも、彼ら彼女らの選択の果て。
加害者でもあれば、モルガの被害者でもある。
それでもリヴィアンは肯定も否定もしない。
笑い狂うモルガに対し、ただグラスに冷えたコーヒーのような深く暗い双眸を向けるだけ。
前世でもアンデシンとロードが結ばれなかった全ての原因をヴィヴィアに押し付けて逆恨みしていたのだ。
自分の悪事や実力不足による失敗などに気付きたくない者にとって、責任転嫁で悪役は必要だった。
傷付きたくないが為に「自分は何も悪くない、邪魔していたこいつの所為だった」という思い込みの殻に閉じこもる。
仮にその存在が無かったとしても、うまくいかなかったのは変わらないのに。
答え合わせすると、転生者の容疑を掛けられたセラフィは勿論シロである。
クロは運命を捻じ曲げたモルガ、ロード、乳母、何も知らないトワ、先日知ったばかりのリヴィアン、知っていて面白がっていたダヤンで以上。
だからこそリヴィアンはここへ一人で来た。
肝の据わっているトワでも巻き込むには申し訳なく、ましてや母親の死の真相を知るのはヴィヴィアにとってあまりに酷。
何の非も無かったセラフィは単なる勘違いと軽率な行動の犠牲で命を落としたのだ。
恐らく、それを告げたところでモルガは信じないだろう。
邪魔者を排除したという認識ですら、ずっと罪悪感に堅い蓋をして心を守ってきたのだ。
そして、どうせ明るみになったところで公爵が家の名を汚すことを避けて揉み消されるだけか。
王太子が失脚した今、彼を神とするカルト宗教じみた団体を作り上げたモルガに対しても責める声は上がっているが大事になっていないのはそういう訳。
それにしても今まで幾つもの人生でエゴに塗れた残虐な者達を絶望へ叩き落してきた"彼女"だったが、ここまで馬鹿げた理由による事例なんて初めてだ。
しかし欲望なんて他人からすれば極めて醜悪で、下らなくて、理解に苦しむものである。
何よりも「人の為」と言いながら自分の欲望だと理解してないことが最も愚か。
どこからか見ている悪魔達の嘲笑が聴こえるようだ。
ちなみにアンデシンを歪めたもう一人の犯人、彼の乳母は放置で良いとダヤンに言われた。
現在、地下牢へ入ったアンデシンの世話は乳母や乳兄弟が全面的に行っているらしい。
乳兄弟もロードへの性暴行を笑いながら見ていた一人として明るみになったので、他の取り巻き達と同じく貴族としての輝かしい未来は閉ざされた。
ただこうして全てを失っても愛して止まないアンデシンと共に居られるのだから、あの母子にとってこれはこれで真っ黒なハッピーエンドか。
何にせよ、こんな阿呆達の為に幾つもの人生が捻じ曲げられて狂わされてしまったのが事実だった。
そのうち命まで失った者も居る。
加えて、起こる筈のない性暴行までも起きた。
例え他人事だろうと"彼女"にとって最も許せないこと。
本来の乙女ゲームでは、ヴィヴィアが飼い慣らして手綱を握る形になった故にアンデシンは自分の残虐性をうまく抑えられるようになっていた。
S嬢の才能がある彼女だからこそ出来たこと。
愛らしい獣だとしても躾もされず主人が居なければ、化け物に育つのは当然の結果。
ふとレピドの「執着は悪」という言葉を思い出す。
お互い大人、愛も恋も酸いも甘いも知っている。
彼もまた愛が執着に変化した様を幾度となく目の当たりにしてきたのだろう。
こうして十年以上掛けて欲望をぶくぶくと肥らせ、もうじき叶うと思わせた時に全てが水の泡。
そこから何日もの間ずっと絶望に浸からせた後、過去や罪の暴露もさせた。
もう悪魔達もたっぷりと楽しんだことだろう。
前世も今世も散々道化扱いされてきたのだ。
小悪党は巨悪の喰い物にされるのが世の常である。
玩具はもう壊れる寸前、後は処分するのみ。
でなければ物語は終われない。
哀れに思うからこそ手を下す役割を果たさねば。
ここに居るのは幾つもの国を傾け、幾つもの国を滅ぼしてきた悪女だ。
モルガがどんなに罪深くても悪としての格が違う。
まだ借り物の「竜帝」は解けていないが、リヴィアンの表情から色濃い呆れが掻き消える。
可憐に咲く花すら枯らすエナジーヴァンパイアの魔女の素顔へ。
冷酷な牙を剥き、モルガの唇に噛み付いた。
それは魔物から玩具へ、死の接吻。
泥々に煮詰まっていた欲望ごと生気を奪い尽くす。
「ゲームなら、また最初からやり直せば良いじゃない?」
ライト家の魔法使い魔女達は言葉にこそ魔力が宿る。
そしてリヴィアンの悪魔じみた囁きは、そこに含まれた残酷な意味を甘く響かせた。
即ち。
「そうかそうか……なんでもっと早く気付かなかったんだろう、死ねばまたリプレイできるじゃない……」
リヴィアンの牙が離れた時にはもう傷など消えていた。
毒気を吐き尽くし、希望が見えて恍惚とした表情でモルガが呟く。
もうこの身体に生気は碌に残っていない。
このまま放置しておいても、数日後には全ての生命活動が停止するだろう。
エナジードレインの能力とはそういう恐ろしさがあった。
青い悪魔、ダヤンがこの世界に"彼女"を選んで送った理由はこういうことか。
ラストをキスで締めるなんて、使い古された手なのやら王道なのやら。
モルガが希望を抱きながら死ぬことは小さな救い。
実のところ、もうやり直すことも輪廻の輪には加わることも出来なかった。
この女の歩いてきた道は本来のモルガとセラフィの血で汚れている。
人殺しの行き着く先が地獄なんて、当然の話。
この執着で縛られて永遠に苦しむのだ。
夥しい血を滴らせる"彼女"が言えたことでないが。
青い悪魔と契約したからには奈落に囚われ続ける。
そうしてモルガが顔を上げる前、もう訪問者は何も残さず暗闇に消えた。
最初からこの部屋には一人きりだったように。
ああ、それにしても気分が良い。
モルガの部屋は酷く空気が悪かったものだから、ナイト公爵邸を後にして冬の夜風を浴びるリヴィアンはようやく深々と呼吸をした。
何人もの生気を吸った後なので生命力が漲っている。
まるで月光の下で生きる夜行性の獣。
ホテルを抜け出してしまったので早くもどらねばならないのは山々。
しかしその前に、寄り道が一つあった。




