79:昏睡
ある世界、ある国でのこと。
幼くして馬車の事故で両親を失い、親戚であるテクタイト子爵家に引き取られた男爵令嬢が居た。
この事故はもともとテクタイト家に招待され、その道中で起きたこと。
昔から一人息子のチベタンに片思いしていた令嬢はそれを盾にして婚約を結び、我儘放題の人生を過ごす。
そうして優しい彼も罪悪感と思考停止により受け入れていたが、やがて運命のヒロインと出逢ってしまう。
惹かれ合う二人だったが、令嬢がそれを許す筈がない。
昔から彼女を溺愛する侍女と組み、ヒロインにありとあらゆる嫌がらせをした末に報いを受ける。
今までの悪行が白日の下に晒されてチベタンも愛想を尽かし、罰のように悪名高い男へ嫁ぐこととなった令嬢は物語から消える結末。
乙女ゲーム「キミ色宝石に秘密のキスを」にてチベタン・テクタイトルートの悪役令嬢、リヴィアン・レイラ・グラス。
本来のシナリオで辿るべきだった運命。
「あらまぁ……古いわ、つまらな過ぎるわ、令和でコレって酷いわね……」
真っ白な空間に"彼女"の苦い溜息が落ちた。
この愚かな悪役令嬢の運命は他人事ではないのだ。
それは乙女ゲームの世界に降り立つ器として、乗って取った肉体の名前。
今はSMショーパブ月華園の歌姫、薫衣草のノエとも呼ばれている女。
時は年が明けたばかりの一月半ばだったか。
いつも通り出勤した月華園で倒れたところまではしっかりと覚えている。
そう、問題はその後のことだ。
眠りは現実と非現実、此岸と彼岸の境目。
何も無いこの空間には覚えがあった。
そうか、十年以上待ち侘びた場所にようやく来られたのか。
疑問ならば山ほどあれど、話は順を追って。
まず"彼女"が囚われている奈落とは何なのか明かす必要がある。
昔々とある地獄の片隅に、物語を愛する一匹の青い悪魔が居た。
自らも物語を書くことが好きだったが、人間の作り上げた物語こそ大好物。
文字に、絵に、演劇にと、古来からあらゆる表現で綴られる作品を貪り続けていく。
悪魔とは人間を惑わせる者のこと。
その中で青い悪魔は目を掛けた俳優、女優、それから要は「演じることで誰かの人生を変えた人間」ばかりに契約を持ち掛けていった。
悪魔は願いを叶える代わり、契約を交わした人間の死後に魂を貰い受けることになっている。
そして、どう扱おうとも自由。
とある廃屋の劇場にある舞台下、奈落に囚えて自分だけの劇団を立ち上げることにしたのだ。
ここに集う彼ら彼女らは生前に契約したことや、どうして閉じ込められているのかは死後に忘れてしまう。
それどころか自分の顔すら碌に思い出せない。
演じる上でノイズになるものは不要。
こうして輪廻から外れて奈落に棲む魂は「魔物」と成り果てていく。
始めのうち青い悪魔は魔物達を使って好きな演劇をさせていたが、こんな廃屋で人形遊びするだけなんて勿体ない。
そうして思い付いたのだ。
物語の世界へ送り込み、キャラクターの肉体を乗っ取って引っ掻き回すことを。
お気入りの魔物達がその世界のキャラクターを演じることで暗躍する様も勿論愉しんでいたが、目的はもう一つ。
物語には時折、別次元から迷い込んでキャラクターに転生したり乗り移ってしまう魂が居る。
零れ落ちた後のことなど死と再生の神は干渉しないが、悪魔達にとっては大変面白い状況だった。
何しろ、どいつもこいつも底無しな欲深さを自覚していない。
前世での知識を利用する転生者達は全能感により私利私欲を貪ったり、悲劇を辿るキャラクターを救おうと己の正義を信じて残酷な行いすらも厭わなかったり。
この愚かな傲慢さこそなんと可愛いことか。
そこを魔物達により野望や希望を潰され、真っ逆さまに転落して絶望する瞬間こそ悪魔達にとって最上級の美味なる愉悦だった。
こうしてどんな結末を迎えるのか見てみたい。
悪魔の飼う俳優女優は駒であり狩人、転生者は玩具であり獲物。
別次元の地獄から眺める悪魔達は大勢で笑っていた。
手を叩き腹を抱え、悲劇も喜劇も生き死にも。
泥々の欲望こそ悪魔の糧なり、全ては娯楽。
そして、青い悪魔本人もまたエンターテイナーであり自ら駒として動くこともあった。
笑われることになっても別に気分は悪くない。
この世界でも肉体を持ち、そこで呼ばれる名とは。
「悪魔とだけあって悪趣味ですね、ダヤン先輩」
"彼女"が大袈裟に口元へ手を当てながら告げると、青い悪魔は愉快そうに笑ってみせた。
切り揃えられた明るい紺碧の髪に、艶っぽく中性的なアーモンド形の目。
それでいて物腰は柔らかく知的な雰囲気の青年。
悪魔は嘘吐きだ、優しい姿に恐ろしい本性を隠す。
ここで振り返っての答え合わせ。
思い返してみれば、リヴィアンの人生の分岐点にはいつもダヤンが居た。
まずシーライト学園を決めたのは立派な図書館が決め手。
というのも、見学の際にそこで出逢ったダヤンがこの図書館品揃えを熱っぽく紹介してくれたのだ。
ロキが嫉妬に駆られた結果で別れることになったのは、ダヤンと話していたのが原因。
ライト伯爵家に勤めることになったのは、ダヤンが推薦したから。
月華園での歌姫兼護衛として籍を置くことになったのも、ダヤンが持ってきた話。
気付かなかったのか、と言われたら苦笑しか出来ず。
「訊きたいことは沢山ありますけど、私がシナリオ読み込んで役に入る前に目が覚めちゃったのは何故ですか?」
この世界に来てからずっと疑問だったこと。
タイトルくらいしか知らされていない舞台の上へ急に放り出されたのだ。
実はダヤンから陰なる助けがあったとはいえ、あのアクシデントでどんなに焦ったことか。
それでは、お答えをどうぞ。
「えっ、気紛れですけど……?」
青い悪魔に首を傾げられてしまって拍子抜け。
それどころか何なのだ、その呆けたような反応は。
「嫌ですね、悪魔に道理なんか求めないで下さいよ」
不思議そうな表情から、やれやれと溜息。
ああ、この男はやはり悪魔なのだ。
そもそも本来の世界に「ダヤン・ソーダリット」なるキャラクターは居なかった。
登場の有無でなく、存在しないのだ。
これはライト伯爵家へ入り込む為、現伯爵の部下だったソーダリット夫人に産ませた身体。
一見非道なようだが間違いなく夫婦が愛を交わした結果であり、大事な我が子として育てられた。
学園の寮に入れられていたのは、住処の花街が教育に向かないからというだけ。
魔法こそ使えても、この世界の魔法とは万能でない。
理によって造られた肉を持つ身、人間に可能なこと以上の能力は備わっておらずシナリオを無理に捻じ曲げたりなどは不可能。
今こうして夢に現れたのは身体から抜けた上だからこそ悪魔の能力により出来ることだった。
ダヤンの姿で現れたのも分かりやすくする為であり、青い悪魔本来の姿は恐らく違う。
「僕はただ選択肢を投げ掛けただけですよ、このルートに辿り着いたのは全部あなたの選択の結果です」
確かにダヤンは何かを強制したことなど無かった。
生きるとは選択を迫られる連続でもある。
そうか、寄り道脇道回り道をしつつもこの足は確かに進んでいたのか。
「ああ、ちなみに嫁ぐことになった悪名高い男ってのは裏設定扱いですけどボスのことですよ。元のシナリオだと悪女って聞いて興味持ったようで」
「そうねぇ、元のリヴィアンってレピド様の好みドストライクだわ」
花街や闇市の管理を始めとして国の暗部を担うライト伯爵家は裏社会にも絡む。
悪名高いことは事実でもレピド自身は喧嘩さえ売らなければ、対人関係で飽くまでも紳士だ。
自他の境界がしっかりしていて、相手に好意も悪意も押し付けず嫌がることを避ける。
案外、元のリヴィアンも悪くない人生だったのでは。
「悪い噂の相手に嫁いだら意外と幸せになった」なんてのも悪役令嬢物ではよくある話。
「僕がライト伯爵家に勧誘しておいて言うことじゃないですけど、ボスとあなたが恋仲になることは正直なところ予想外でしたよ」
レピドがリヴィアンに惚れた切っ掛けとは、自分は魔物だと明かした時の爛々と暗い目。
火花めいた刺激を好む魔法使いにとって何より強く惹かれてしまうもの。
レピドから恋愛相談を受けた時にダヤンとしてはそれとなく反対したが、リヴィアンからベッドに誘ったからには止める術など無し。
結局交際が始まった末に婚約まで辿り着いた。
過程は違えどもそういう運命だったのかもしれない。
赤い糸とは見えない力で引き寄せられる。
全ての始まり、前世で"彼女"が青い悪魔と交わした契約内容とは何なのか。
本人としてはきっと忘れたままの方が良いだろうが、切なる願いとは一つだった。
それは女優としての成功や名声、富でも愛でもない。
「私を体液のゴミ箱にした奴全員、地獄の底へ叩き落としてやりたい」
青い悪魔が契約を持ち掛けた時、女優の"彼女"はまるでボロ切れのような酷い姿でそう願った。
集団による凄惨な性的暴行に遭って傷だらけの半裸。
殴られて口腔に広がる血を吐き捨てると、抜き身のナイフにも似た視線でこちらを突き刺しながら。
薄汚く欲深き人間の魂もまた悪魔にとってはご馳走なので願ったり叶ったり。
性欲の暴走は情状酌量の余地が無い。
こうした奴らはルールを守らず自分から危ない橋を渡り、他で恨みを買っていてもおかしくない上に更なる巨悪にとっては鴨。
青い悪魔が少し耳元で囁いただけで、それぞれの因果により次々と惨たらしい最期を遂げて行った。
願いは要するに欲、魔法とはそれを叶えるもの。
"彼女"にエナジーヴァンパイアの能力が開花したのもそういう理由だった。
房中術とは技術的な面もあるが、どれだけ知識を持ち経験を積んだところで凡人では到達出来ない域があるのだ。
性欲や性的嗜好は肯定しつつ、性的暴行や搾取には殺意すら抱いて否定する。
何度生まれ変わろうと揺るがないもの。
だからこそ悪魔にとってお気に入りの駒だった。
さて、そろそろ本題に入ろうか。
リヴィアンを眠らせたことには目的があったのだ。
同時刻、ヒロインは自分の手を汚してでも運命に歯向かっていた。
この先の人生までも奪わせてなるものかと。
乙女ゲームとしては未知のルートが開いて、誰も知らないエンディングへ向かう。
こうしてヒロイン達の物語は綺麗に幕を閉じようとする訳だが、実はまだ回収してないものがある。
ならば駒であり狩人の出番、そこはリヴィアンが引き受けよう。
もう一つ潰した野望の後始末。
エンターテイメントとして、とびきりの絶望を見に出向かなくては。
それには"彼女"にどうしても必要なものがある。
随分と勿体ぶっていたが、ようやく青い悪魔は台本を取り出してみせた。
この世界に降り立つ前、あの時に読み損ねた続き。
本来のリヴィアンの血を吸って浮き上がった文字の羅列、ここは世界の全てが書かれている。
転生者の正体や、何を為すべきなのかまでも。
「これを開いたら、今度こそ脚本の奴隷になりますけど本当に宜しいのですか?」
受け取る前に、またここでも選択肢。
ほとんど何も知らないからこそまだリヴィアンは自由に動ける身だった。
シナリオなど無用、と突き返したりも今なら出来る。
そうしてこのまま女優を辞めて、レピドと結婚して、花街で刺激的かつ楽しい人生を送ることも。
「私が倒れて、レピド様とロキ君どうしてます?」
「ションボリしてますよ」
「あらまぁ、立派な大人の男がヘコんでるのってグッと来ますね」
「ええ、早く目覚めてあげないといけませんねぇ」
ここは時間の流れが現世と違う。
実際に"彼女"が奈落で呼ばれてからリヴィアンの身体に降り立つまでは、台本を読み損ねたくらいなので体感としては本当に短い間だった。
だというのに、あちらでは事故から何日も経った後。
果たして今度は一炊の夢か浦島太郎か。
何にせよ、待つ者が居るならば早く決断しなくては。
その手は、台本を受け取ることを選んだ。
「これだから人間は面白い!」
青い悪魔は大仰に、堂々と、憎たらしく唱える。
いつぞや、そこは悪役ならば高笑いするべきだとリヴィアンがレピドに向かって言ったことがあった。
あの時に宙ぶらりんとなっていたままの台詞を今ここで使うのか。
全てはより良き終幕の為に。




