78:北国
ヴィヴィアと最後に会った時、ロードが訳の分からないことばかり喋っていたのはどういうことか。
断定は出来ないが、ロードは多重人格のような症状ではないかと医者は言う。
元王太子から度重なる性的暴行を受けてきた為に被害を受け止める別人格、そして現実逃避で別の世界を作り上げてしまった。
神経消耗で追い詰められた者には稀にある事例。
というのが、飽くまでも表向きの話だ。
「ここはゲームの世界で王太子を攻略しようとした転生者がシナリオを変えた結果、愛して止まない王太子本人を加虐心の化け物に変えてしまった。混在していた本物のロードの人格と入れ替わりながら」なんて、物語だとしてもあまりに奇なり。
その真実を知っているのは魔法で洗い浚い吐き出させた当人であるレピド、別次元から来た魔物のノエ。
それから同じく転生者のトワくらい。
ともあれ、ゲーム自体はこれでエンディングを迎えた訳か。
傷付いたヒロインは修道院で手厚く保護され、罪人の王太子は盲目となり人知れず地下牢へ、冤罪の悪役令嬢は自由を手にして花街のピアニストに。
これもまたハッピーエンドであろう。
ならば、その先とは。
「一件落着ならラストシーンの定番はお墓参りよね」
「二時間サスペンスドラマか」
どこか呑気なノエの提案に対して月華園の面々は首を傾げていた。
即座にこんな返事したのは、その言葉の意味を正しく理解しているトワだけ。
ヴィヴィア達がロードとの面会をした日の夜、この眠り姫は目を覚ました。
いや、姫と呼ぶにはあまりにもふてぶてしいか。
これまたちょっとした騒ぎが起きて、ノエ自身は相変わらずクールな態度を崩さずとも雪椿が泣いて大変だったものだ。
しかし昏睡の原因は相変わらず謎である。
夜働いて朝に眠るなんて不健康な生活をしていた所為ではないか、という結論付けで落ち着いたが。
一ヶ月以上も眠っていた割りに身体の衰えも少なく、ほんの数日で日常生活に戻ったのも更に妙な話。
ともあれ、そういう訳で近いうちにノエは健康上の理由で月華園を辞めることになった。
もともと春になったら正式に伯爵を継ぐレピドと結婚して補佐となるのだ、歌姫と兼業は難しい。
ノエ専属の奴隷なので雪椿も月華園自体は辞めて伯爵家付きの医者となる話も出ていた。
しかしながらSMは怪我が付き物、専属の医者が居なくなるのこちらとしても痛いものの。
「それはそうと、母のお墓参りはしておきたいですね……もう何年もナイト領に帰っていないので」
ノエの発言に頷いたのはヴィヴィア。
というのも国の東に位置するここライト領に対して、ナイト領は北。
汽車の旅では約十二時間といったところか。
王立学園に入学してからヴィヴィアが実家にほとんど帰らなかったのは単純に距離の問題もある。
墓参りはしたくとも、わざわざ遠いところまで居心地の悪い場所へ冷たい家族に会いに行くなんて考えるだけで気が重かろう。
ホワイトブロンドのウィッグや化粧で変装したものの、縁切りされた以上は近寄り難い。
それに少し前まで俗世を知らなかったお嬢様が一人きりで旅なんて無謀過ぎる。
お供するなら腕の立つ護衛や旅慣れしている者。
そういう訳で何やかんやあり、ヴィヴィアはトワとノエを連れて女三人での旅行となった。
ちなみに墓前で交際の挨拶をしたいと蜘蛛蘭も名乗り出たが今回はヴィヴィアが説き伏せて留守番。
悲しげな顔をしつつも大人しく従い、それこそよく躾けられた飼い犬のように。
交際についてはもうトワは何も言うことが無かった。
ヴィヴィアが学園を出てからは尚更強く保護者の意識でいたものの、こればかりはどうせ反対したところで止まるまい。
トワにも正式に挨拶をしてきた上、彼女が二十歳になるまでは清い関係を守ると真剣に言うものだから「そうか」としか。
蜘蛛蘭に対しては長年の信頼があることだし。
ということで汽車に乗り込みで山も海も越える長い長い旅を経て、公爵家のある街で下りた。
ヴィヴィアの母が眠る墓はここの外れにある教会。
二月末の北国はまだ春が遠く、身を切るような冷たい風が吹き荒れる。
ここもまた観光名所となっているので古くて頑丈な建物が立ち並ぶ美しい街並みだった。
雪が降っていたらさぞ幻想的だったろうが、足場が悪いのは勘弁なので晴れ続きなのは幸い。
膝まであるブーツの爪先まで凍り付きそうだった。
汽車を下りたら、まずやるべきことは今日の宿探し。
早朝に出発しても到着は夕方なのだ。
ただでさえ冬は暮れが早いので流石に墓参りや観光は後回しで明日。
トワもノエも金はあり、折角なので小綺麗なホテルの広い部屋を一つ取った。
今夜は三人でパジャマパーティの予定。
しかし汽車でもホテルでも景色を眺めているだけではあまりにも暇。
この旅行中にもトワは教職と緊縛師の傍らで取り組んでいた書き物を進めることにしていた。
あの事件以来、トワは来年度まで王立学園を休職ということになっている。
旅行に来られたのも時間に余裕があった為。
学園側としては本音を言えば辞めてほしいのかもしれないが、それを選択するのは飽くまでもこちらなので考え中。
このまま在籍して浮いたり腫れ物扱いされたところで鋼の精神は何も傷付かない。
「その万年筆、使って下さってて嬉しいです」
「……おう」
不意にヴィヴィアから指摘され、動揺でトワはつい変な返事をしてしまった。
実のところヴィヴィアからのクリスマスプレゼントだった万年筆は例の事件で壊れてしまっていたのだ。
あの日、あの時、音楽室の忘れ物がまさか凶器として使われるなんて。
無理な扱いをされた所為で先が折れて血みどろ。
何たる偶然か、巡り巡って王太子から妹を守った役目を果たしたとも言える。
あれからノエに耳打ちして店を教えてもらい、トワが全く同じ万年筆を買ってきたのでヴィヴィアは永遠に知らないまま。
悪役令嬢だった運命も、そこから外れたことも。
ホテルの最上階は空が近く、ここからの眺めは冷気で磨かれた星と夜景が静謐と輝いていた。
街一番の背が高い名所、ウルフェナイト時計塔も窓から見える。
約六十年以上の歴史を持ち十二階建てに相当する煉瓦造り、加えてこの時計塔で愛を誓うと永遠に結ばれるという伝説が有名。
「いえ、単に下階が市役所になってるので……婚姻届を出した夫婦が昂る気持ちのまま時計塔に上って、屋上で愛を叫ぶこと多いのです……」
地元民のヴィヴィアはそう言って苦笑する。
伝説もロマンスの内側を明かしてしまえばそんなものか。
さて、パジャマパーティにはお菓子が必須。
ホテルディナーのローストビーフや鹿肉のパイ包みでも腹を満たした後なのだが、旅先ではつい欲張ってしまう。
ノエが持ち込んだ小瓶に詰まった蜜漬けフルーツはそのまま食べても紅茶に加えても蕩ける美味しさ。
ただし蓋を開けた香りからして粘度が高いので、スプーンを使ってもベタベタと垂れてくる。
「痛ッ!」
汚れた手を拭こうとハンカチを摘んだ瞬間、ヴィヴィアが跳ね上がった。
指先からは血が滲み、赤い花を散らしたように点々と布に落ちる。
「あらまぁ、見せて……」
何が何だか分からないまま痛む指をノエに奪われて、ヴィヴィアは戸惑いつつもされるがまま。
暗褐色の目を軽く伏せて、苺に似た舌で自分の唇を舐める表情。
一瞬息が止まるくらい艶めいて気圧されてしまう。
そうして指先を咥えられて血を吸う治療。
小さな悲鳴を呑み込んだヴィヴィアは抵抗しなかった。
正確にはそんな暇も無かったというか。
その直後、糸を切れられた人形のようにベッドへ沈んだ為である。
真っ白なシーツを染めるダークグリーンの長い髪。
瞼を伏せて引き結ばれていた唇は薄く綻び、浅い呼吸を繰り返す。
突然ハンカチが剥いてきた牙の正体は、仕込まれていた縫い針。
針で指を刺して眠りに落ちるなんて、まるで茨姫。
恐らくは朝まで起きないだろう。
何故そんなことがトワに分かるかといえば。
「……お前、酷い女だな」
針を仕込んだ犯人に向かってトワが呟く。
小瓶にハンカチに、まったく手の込んだ真似を。
「だって私、悪役ですもの」
非難の言葉に肯定を返したのはノエ。
エナジーヴァンパイアの魔女が悠々と笑った。
ノエの魔法とは粘膜接触による生気の奪取。
というとキスや性交が真っ先に挙げられるが傷口からでも可能である。
今のは加減したので眠らせる為の麻酔代わり、おやすみのキス。
そして治癒も出来るので、ノエが唇を離した時にヴィヴィアの指先から刺し傷は消えていた。
最初からそんなもの無かったかのように。
「ねぇ鳥兜さん、私と一緒に悪役やりません?」
数年前、初めて逢った時にノエが手招きした声を鮮やかに思い出す。
最初からこういう手筈だった。
ヴィヴィアを眠らせた後こそが、トワとノエにとってこの旅に於ける真の目的。
そうでなければ女三人だけで旅なんて危なっかしい。
二人掛かりで手を回して、何とか仕組んだこと。
乙女ゲーム自体は確かにエンディングを迎えた。
ヒロイン、王太子、悪役令嬢はそれぞれ収まるべきところへ収まって。
しかし、実はまだ残していることがある。
そもそもノエがこの世界へ来たのはシナリオを自分の欲望のまま書き換えようとした転生者の所為。
それはロードの中に宿っている者だけでない。
王太子を化け物に変えてしまった、もう一人の転生者にこれから逢いに行くのだ。
「睡眠薬を盛ったりするまでもないけど、私は性的同意って大事だと思うから勝手にキスするのも良くないかなって」
わざわざ傷を負わせたのはそういうのことか。
小さく納得した瞬間、トワの手の甲にも皮膚が破けるような痛みで焼ける。
こちらも血が滲んだが今出来た傷などではない。
ノエの手で乱暴に引っ剥がされた、絆創膏の所為。
冬は普通に生活していても、乾燥や水の冷たさで手が荒れがち。
なかなか治らず絆創膏を貼っていた深く真っ赤なあかぎれ。
何のつもりかなんて訊くまでもなし。
紳士と呼ぶには強引に、トワの手へキスが落ちる。
絆創膏を剥がされてから一瞬のことだった。
ああ、そうか、騙されたか。
「お前は……ほんとう、に、ひどいおんなだよ……」
気丈に口を動かしても、もう目が碌に見えない。
いきなり真っ暗な穴が口を開けた感覚。
上も下も消えて、トワの意識は真っ逆さまに落ちた。
「ごめんなさいね鳥兜さん、ラスボス戦は私一人で行かなきゃいけないの」




