77:中庭
「この度は、誠に申し訳ありませんでした……」
女王様の仮面は塔を出るまで。
そこから先は頭を下げたまま、椅子にされていた蜘蛛蘭と反対に顔が上げられないのはヴィヴィアの方だった。
素顔を晒している今は恥ずかしいやら申し訳ないやらでそれしか言えず。
「良いんですよ、格好良かったです」
「まぁ、俺も久々にちょっとだけ楽しかったわ」
男性陣は塵ほども気にせず、両者とも笑っているが。
堪えていたものをやっと曝け出せる。
成り行きで陥った状況を楽しんでいたのは同じこと。
従兄弟だけあって似ている、そういう血筋。
謝罪もあまりしつこいと却って迷惑。
もうその辺で、というところでヴィヴィアも頭を切り替える。
ロードの言っていたことの意味をずっと考えていた。
はて、転生者とは何のことか。
この数ヶ月でヴィヴィアが変わったのも事実ではある。
貴族界の黒薔薇とは一面に過ぎず、それだけでない。
月華園に根差す花として鍛えられた。
「どうして私の頭も心も支配しているのはあなたなの?」
ロードにそう言われた時、思い出したことがある。
「君には人を支配する才能がある。自覚と覚悟を持て、さもなければ自分も相手も破滅するぞ」
不意にトワの言葉が浮かび上がってきたのだ。
命名された時、共に贈られたもの。
ヴィヴィア本人がそんなつもり有ろうと無かろうと、支配は人を狂わせる。
王妃になる競争ことから解き放たれて自由を求めた彼女の願いとは正反対のもの。
ただ、これも月華園に居て学んだこと。
常に選択を迫られる者は、強者に支配されることで解放されて自由になる。
何も考えず言うことを聞いていれば楽でもあるのだ。
そういえば、ロードから謝罪は無かった。
本来なら、あれは和解と涙の別れの場だった筈。
甘ったるくて生温い言葉を交わして全ての罪を許し合うところだったろう。
以前のお人好しだったヴィヴィアならそうしたかもしれない。
物語のヒロインのように清らかな心を保ち、罪を憎んで人を憎まずに。
悪いが、それは出来ない話。
ヴィヴィアはお姫様ではないのだから。
お姫様になれなかった女の子に夢など見るな、愚か者。
「アクヤクレージョーやらコーリャクタイショーやら……あれ、何だったのでしょうか……」
そもそも謝罪どころか、あんな訳の分からない言葉ばかり並べ立てられてもどうしろと。
正直、あの時ヴィヴィアが感じ取ったことは薄気味悪さだった。
意思疎通が出来なければ話は進まず立ち竦むのみ。
はっきりと別れを告げただけでも及第点だ。
普通の娘なら、怖気を露わに突き放したろうから。
「どうかねぇ、腹に溜め込んだモンは自分でも正体なんかよく分からんし、その泥々を言語化するってのは難しいからなぁ……」
ヴィヴィアの呟きを拾い上げたのはレピドだった。
柔らかに首を傾げつつ愉快そうな横顔。
それは騎士でも紳士でもなく「魔獣」と呼ぶに相応しく、思わず背筋に微量の震え。
本当はレピドも何かを知っているのでは。
或いは、ただ面白がっているか。
そう思いつつヴィヴィアは口を噤んだ。
安易に好奇心だけで進むのは馬鹿のやることだろう。
ここから先は恐らく泥濘、深さは推定不能。
初めて月華園に来た日、トワと対峙して問い掛けた時のことと重なる。
足の爪先に触れていた正体不明、靴どころか一気に身体ごと呑み込まれそうな感覚。
もうあんな無茶は出来やしない。
この男はやはり「魔獣」か。
今回付き添ってくれたのは親切などでなく、飽くまでも仕事と面白がってのことだと。
出掛ける前なら、ロードと大喧嘩になってでもずっと腹に溜め込んだ物を晒け出し合って終わることもヴィヴィアは考えていた。
いっそのことそうなれば燃え尽きた後には確執などの泥々も等しく灰になり、綺麗さっぱり何も残さず。
しかし現実は本音をぶつけず呑み込んだので、実に奇妙な後味。
これは時で薄れたとしても永遠に居座るだろう。
そうして馬車は三人を乗せて帰路へ。
とびきり刺激的な嘘の味で腹を満たしながら。
「……あの、中庭に行きませんか?」
蜘蛛蘭に誘われたのは、ほんの小声だった。
それでもヴィヴィアの耳には真っ直ぐ届く低音。
月華園に帰宅してからはもう午後。
ご武運をと祈りつつもそれはそれ、送り出してくれた皆もう開店準備に忙しくあまりヴィヴィアには構っていられない。
それで良い、気を遣われるのなんて却って重いもの。
ヴィヴィアと蜘蛛蘭を送迎するとレピドも帰ってしまい、その頃にはもう砕けた顔に戻っていた。
そういう訳で開店準備の輪に加わる前、少しだけ立ち止まる。
月下の花園を彩る草木でなく素顔を晒し合ったまま。
寂しくなりがちな二月の中庭はスノードロップが見頃だった。
まだ冷たく固い大地を染める可憐な真白。
身体を芯まで凍り付かせる風で釣鐘の花はたおやかに揺れ、それこそ耳を澄ませば冬の音が聴こえそうな。
ただ寒さに耐え忍ぶだけでなく、希望を宿して春を待つ。
十一月の夜、ここは初めて対峙した場所。
ステージの上で照明と視線を浴びながら歌っていた殺人鬼が、何も持たないただ一人の青年としてヴィヴィアと言葉を交わした。
今日のことの謝罪や礼はもう良いとして、さて本題は。
「……僕、ヴィヴィアさんのことが凄く好きです」
蜘蛛蘭の薄い唇から言葉が落ちた。
もう胸に閉じ込め切れず、溢れるように零れるように。
かと思えば頭を抱えて足から崩れる形でその場へ座り込む。
「迷惑でしたら申し訳ありません、本当は仕舞い込んでおくつもりだったんですけど……あぁ、駄目だ……」
ヴィヴィアが返事もしないうちから項垂れ、既に振られたような反応。
どうしてなんて、対等でないからだ。
年齢の差に立場の差に、そして。
「交際は結婚を踏まえた上でのものと決めている訳なんですけど……僕は後継者なので、いつか師匠が引退したら月華園のオーナーになります。ヴィヴィアさんはずっとここだけでピアノを弾くつもりですか?」
僅かながら突き放した言い方。
薄い壁にヴィヴィアが狼狽えると、蜘蛛蘭は少し困った顔で微笑んでから言葉を続ける。
「あなたはまだ十代のお嬢さんで、どこにでも行けるし何にでもなれますよ……ロゼリットだけでも堅い仕事なんて他にもありますし、ピアニストとしてならライト領だけでも幾らだって……」
蜘蛛蘭も鈍くない、ヴィヴィアからの好意に気付いている上でそう告げているのだ。
立ち止まって考えろということなのだろう、これは。
大人だからこそ責任があり諭す立場。
熱情だけでは少女相手に近付いたりなど出来ないと。
「お黙り」
そちらが壁を作るのなら、こちらは蹴り飛ばした。
編み上げヒールの踵は強い。
叩き付ければ、折れるより壁に穴が空く。
今更になって逃げ惑う蜘蛛を捕まえる為。
迷ってないで、こちらへ来いと。
「言葉には責任が生じますから、引っ込めたりしないで下さい……私は、あなたのことが誰よりも可愛いと思ってます。
可愛いって言われるお姫様にはなれませんでしたが、お陰でここに辿り着けたから……私があなたのこと可愛がるのも良いかなって、思ってます」
蜘蛛蘭が座り込んでいるなら好都合。
瞼を軽く落としつつ、真っ直ぐに見下ろしながらヴィヴィアが微笑んだ。
それはそれは美しくも堂々と、夜の女王たる月のようなグレーの目。
引き下がるなんて、もう遅い。
熱情は双方向であり重さも温度も等しいのだ。
将来を考えるには早いなんて言わない。
いつか冷めてしまう時が来たとしても、それは思い切り燃え尽きた後の話にしましょうか。
一過性だと切り捨てず、しっかりこちらを見つめ返してほしい。
ヴィヴィアの視線は強くも優しい。
一身に浴びる蜘蛛蘭といえば、眩しげに愛しげに目を細めて暫しの睨めっこ。
しかし大人ぶっていても最後は降参。
恥ずかしそうに笑ったところで、観念したのは蜘蛛蘭の方だった。
それでは、お返事をどうぞ。
「二年……そうですね、二年お付き合いしてヴィヴィアさんの気が変わらなかったらここで僕と一緒に生きて下さい。それまでは軽率に触れたりしませんので」
蜘蛛蘭が考えながら口を動かして出した答え。
期限付きで仮婚約の交際。
提示された案は分かりやすく、しかし果たして二年とは長いか短いか。
「私の気が変わった場合はどうなるんですの?」
「それは僕が泣くだけですからお気になさらず」
何事もルールというものがあり、自分さえ良ければと好き勝手気儘ではいられない。
危険が伴うSMの世界なら尚更の話なので二人とも理解していた。
それは信用の上で成り立ち、お互いの為でもある。
知っているからこそヴィヴィアも頷いた。
ここからが始まり。
「あぁ……それから、フローさんのことで知りたいことがあるのですけど」
交際してから最初の申し出。
小さくて取るに足らないような、そんな一歩。
この言葉で反射的に上を向いた蜘蛛蘭の顔を、両手を伸ばすヴィヴィアが捕まえた。
挟み込んだ頬は蝶を隠す化粧をしていたので少々ベタついて粉っぽい。
指先を染めても構わず、何だか鱗粉のようだった。
そこから覗き込んで吐息が触れそうな距離。
初めて対峙した時のことと重なり、鮮やかに思い出す。
確かに見惚れてしまった、蜘蛛蘭の目の色。
あれからずっと気になっていたのだ。
目を凝らして捉えようとしても、妙に眩しくて神経が焼き切れる。
そう思ってしまうのは恋心の所為。
躊躇っているうちにまばたきで移り変わって、もう判らない。
ああ、やはり魔力めいた色をしている。
光の加減で優しい青から紫。
見ていて飽きず魅入られる、まるで宝石。
「はい、終わりです」
甘い空気を断ち切って、今回もヴィヴィアが踵を返した。
これでキスしないのは却って酷か。
焦らしプレイはSMの基本。
愛しい恋人兼女王様に翻弄されて、蜘蛛蘭も痛みを楽しんだ。
さて、プラトニックで刺激的な恋をしましょうか。




