76:女王様
ハンカチの敷かれた蜘蛛蘭の腰に座り込み、慣れ切った振りをしてヴィヴィアは悠々と脚を組んだ。
編み上げヒールは片方の爪先が宙に浮く。
さて、舞台の幕が上がったようなもの。
成り行きで始めてしまった役だが、もう演じるしかあるまい。
椅子になった男と、傍らに控える男を従えれば立派な女王様。
これは白蓮の教え。
「煙草、頂戴」
虚勢や格好を付ける時に煙草は便利なアイテム。
これはトワの教え。
顎でしゃくりつつ、落ち着いた低い声が品良く響く。
Sは傲慢であっても美しくなくては。
Мは主人を選ぶので、それこそ自ら従いたくなる者でなければ。
「いや、あの……この建物は火気厳禁で、煙草もお控え下さい」
すぐさま見張りの兵が咎めるが、その声は妙に上擦っていた。
今まで異様な雰囲気に呑まれていた所為。
ヴィヴィアもそうだろうとは思っていた。
止められたのは予想通りかつ、正直なところ助かった。
今まで喫煙などしたこと無いのでうまく出来るか分からず、格好付けた後のことまでは少し困っていたのだ。
「良くってよ、注意するなら堂々としていなさいな」
こちらも女王様のスイッチが入っているので、これまた傲慢な物言いで返す。
顎はそのまま、下げるのは視線だけ。
伊達に子供の頃から王妃候補として教育を受けてきた訳ではないのだ。
誰にでも丁寧なヴィヴィアではあるが、あまり腰を低くしていても嫌味になることも知っている。
本来、他者に命令を下すのが当たり前の立場。
しかしながら、決して若くない兵士がこんな小娘に怯むのは確かに可笑しみがある。
煙草を使わずともヴィヴィアの体面は保たれた。
それも第三者から見れば可笑しくて堪らないだろう。
無機質で緊迫した空気で満ちている筈の面会室を、喉で笑うレピドの声がまた乱す。
手で隠しているが、その下の唇はきっとチェシャ猫のように三日月を描いている。
馬車で彼が口にした「面白いこと」が起きる前触れ。
鋭い双眸は期待の光が宿っていた。
ご期待に添えるか分からない。
これは時間制限付きの短いショータイムだ。
「お姉様……その人達、何なの……」
ご尤もな質問が強張ったロードの口から落ちる。
再会は彼女から望んだものだが、こんな筈でなかったろう。
別れの場を設けたというのにあんまりだ。
こうなってしまってはレピドの提案した「金たんまり持ってて顔の良い男を一緒に連れて"私はこの人の物です"って宣言」なんて無理があった。
蜘蛛蘭には恋人の役を頼んだというのに。
「横から失礼します、私達はレディ・ヴィヴィアのピアノの信奉者でパトロンをしている者です」
品の良い声と物腰で会釈をしたのはレピドだった。
リードするから話を合わせろということか。
花街とは夜の中で虚像を何よりも煌めかせる場所、長の跡継ぎだけあってよく回る舌だこと。
嘘は苦手なヴィヴィアからすれば大変有り難い。
「……レディ、我が愛は貴女の物です」
優雅さと威厳を保ちつつ、陶酔を装って「魔獣」なんて呼ばれている巨漢のレピドがヴィヴィアの前に膝を着く。
それは騎士だか紳士だかを演じて立派なもの。
実に大した役者だ、舞台に立てる。
こちらも噴き出しそうになりつつ微笑に留めた。
「ご覧の通りですので……今の私、何一つとして不自由していませんわ」
嘘を吐くのは不得意なのだが、女王様の仮面を被ってなりきると考えればヴィヴィアの舌は滑らかに動いた。
長身に見合った体重のあるヴィヴィアは細くても軽くはない。
ずっと腰に悪い体勢で支えている蜘蛛蘭も少し疲れてきたようで、僅かに膝が震えていた。
そこを「動くな」とばかりにヴィヴィアが切れの良いの平手で彼の尻を打った。
椅子にした男は叩くと悦ぶ。
これはカミィの教え。
不自由してない、幸せなのも事実だ。
音楽学校への入学を取り消されてしまってもピアノを弾くこと自体はどこでも出来る。
花街ロゼリットは歌姫ローゼの縁の地であり、音楽の都でもあるのだ。
月華園にしか無い蛇苺の曲は酒よりも強くヴィヴィアを酔わせ、この酩酊感にずっと浸っていたいと思わせる魔力があった。
出来るならば、両手の指が千切れるまで。
「それで、何の御用ですの?そうして黙っているだけなら失礼しても宜しいかしら?」
退屈そうな溜息でヴィヴィアが脚を組み替える。
その眼差しは「魔女」と呼ばれただけある冷ややかさ。
これはきっと今生の別れ。
話さなくてはいけないことならあった筈だった。
ロードにも大きな事情はあり、それこそ同情すべき点も沢山。
しかし、ロードが加害者と知ったからにはもう何を言われても許す訳にはいかなかった。
結果的には穢れずに済んだが、自分だけでなくトワにまで危害が及び怪我を負わせてしまったのだ。
あの学園で折れずにいられた、ただ一人の恩人。
幾ら善人だとしても決して譲ってはならぬものがある。
ヴィヴィアは話し合いに来たのではなかった。
別れを突き付ける為にここに居るのだ。
「そう、そうなの……」
ふと、ロードの唇から感情が抜け落ちた声が落ちる。
それこそ何も書かれていない紙のように真っ白な。
「あなたも転生者だったのね……私の愛したお姉様は、もう死んで、どこにも居なくなってしまったのね……」
生真面目なお人好しだったヴィヴィアとは結び付かず、別人になってしまったと解釈したのか。
格子窓越しに、まるで宝物が粉々に壊れてしまったかのような絶望の表情。
どうして、そんな顔をするの。
「悪役令嬢のヴィヴィアは気高くて美しくて、そして冷たいままなら良かった。どうして私に優しくするの、どうして皆にも同じように優しいの。私だけを愛してほしいなんて思わずに済んだのに。
あなたは誰なの、憎んでいた悪役令嬢を返してよ……っ」
ロードの方こそ雰囲気や口調がまるで別人。
ここに居るのは本当に、異母妹なのか。
「……何を訳の分からないことを」
静かに眉根を潜めたヴィヴィアにも構わず、ロードの独り言は続く。
「私はヒロインなのよ、それなら素敵な男の子と恋に落ちるのが決まっているのに……攻略対象の男の子何人並べても敵わないの、どうして私の頭も心も支配しているのはあなたなの?」
感情の流出とでも言い表すべきだろうか。
ヴィヴィアの返答を求めずに、ロードはほとんど嘔吐のように意味の分からない言葉を並べ立てる。
「……憎まれていた方がマシでしたわ」
口元を隠してヴィヴィアが呟く。
それはそれは気味悪げに。
やはり話し合いなど無理だったか。
どうやらロードは言葉の通じない"何か"になってしまっていた。
王太子の所為だとするなら同情はする。
ただ、ヴィヴィアには何一つ関係ないことだというのも事実だった。
器が狭いだの何だのと言われようと、責任の及ばないものまで全てを背負うなんて出来ない。
こちらが潰れるくらいなら切り捨ててしまおう。
知らぬ、存ぜぬ、勝手にやれ。
未来の王妃でもなければ、ロードとは家族でもないのだ。
もうヴィヴィアだって我儘に生きても良いだろう。
「お時間です」
調子を取り戻した兵が厳粛に告げる。
見えない砂粒は落ち切り、面会の時間は終わり。
会話らしい会話なら何も無かった。
お互いの姿を目に焼き付けて、声を聴いて、ただそれだけが真実として残る。
いつか、忘れてしまったとしても。
「永遠に愛してますわ、お姉様」
「嘘は嫌い」
「そうね……死ぬまで憎みます」
「それで構いません」
交わすは黒薔薇と狐薊の花言葉。
それではさよなら、永遠に。




