69:満月
蜘蛛蘭とヴィヴィア
「歌姫ローゼ」と「淫婦リリー」により12月のショータイムは今年の締め括りとして華やかに、そしてクリスマスイブも過ぎて行った。
日付が変わって、とうとうクリスマスの夜。
片付けを済ませて寮の面々は部屋に戻った午前二時。
ここロゼリットはコインのように表と裏で違う顔を持ち合わせる街。
美術館前に広がる公園のクリスマスマーケットは子供の寝る時間まで開いており、毎年ながら千客万来。
さて聖夜なんて清らかな響きは似合わない花街といえば、丑三つ時でも灯を絶やさず眠らず祭典を祝うように煌めきを増して客を迎える本番。
こんなにも冷たい闇だ、人恋しくもなる。
相手を問わず慈愛を以て暖めてくれる娼婦達は薄衣の聖母。
そんな寒空に、自室の窓を開ける人影が一つ。
当然の話、サンタクロースのソリなんて探しても見つかりはしない。
夜の女王たる月を見上げているのは蜘蛛蘭だった。
長い指で煙草を一本摘みながら。
「煙草の味は場所によって変わる」とトワも言っていたが、彼女にとっては雰囲気の良い酒場で吸うのが最も美味いらしい。
一方、蜘蛛蘭は冬の野外が好きだった。
冷たく乾いた空気に儚く溶けていく白煙の美しさ。
夜なら更に揺らめきがよく映える。
深々と吸い込んだ緩やかな毒が胸に満ちて、この小さな火が身体を暖めてくれた。
ふと、自室の窓を開ける人影がもう一つ増える。
宿屋に似た造りの寮は同じような部屋が幾つも並んでいた。
三人しか居ない男性が一階、数の多い女性が二階。
そして蜘蛛蘭の真上はヴィヴィアの部屋。
顔を出して早々、小さく手を振る。
束ねたダークグリーンの髪を垂らして見下ろす様は何だか塔のお姫様を思わせた。
「こんばんは」
「はい、良い夜ですね」
一階と二階、窓からの会話。
通常ならばこの距離では碌に聴こえやせず、夜中なので大声も御法度。
ましてや触れ合うことなど全く叶わず。
ただし音楽に生きる者同士だけに二人とも耳が良い。
壁際のステージでピアノを弾くヴィヴィアと、客席の丸いステージで歌う蜘蛛蘭。
他者から見て日頃はあまり接点の無さそうな彼と彼女だったが、この一ヶ月こうして深夜の内緒話は続いていた。
交わすことなど実に他愛無いこと。
聴き流さぬように耳を澄ませては、言葉を投げ返す。
始まりは申し合わせた訳でなく偶然のこと。
ここに住み着いてから窓での喫煙が日課になっていた蜘蛛蘭をヴィヴィアが見つけたのだ。
上下が逆でなくて良かった。
うっかり灰でも落として火傷させてしまったら申し訳が立たない。
火傷といったら、ヴィヴィアが初めて来た日を思い出す。
そういえば出逢った時に手当てしてもらった。
月華園と寮を結ぶ廊下に挟まれた、深夜の中庭での一幕。
翌日「手当てごときで思い入れを持たれるのは怖い」と医者を兼ねている雪椿から眉を顰められたが、そうではないのだ。
子供の頃から夢中になっていたバレエは腰から下に怪我が付き物、今は身体を張る芸人なのでそこかしこ。
手当てされた数もしてくれる人も幾らでも。
ヴィヴィアだって単なる義務だったろうにあれが切っ掛け、繋がりは生まれてしまった。
蜘蛛蘭にとってヴィヴィアは「狐薊」であって本当の名前を知らない。
昼食ついでの会議で聞いた通り、王立学園で教師をしているトワの教え子だというので貴族のご令嬢なのは間違いないだろうけれど。
芸人になりたくて伯爵家を出た身なので勝手に親近感を抱いてしまったのか。
ヴィヴィアが家を出る件で従兄のレピドが書類を持ってきたので彼なら何者なのか分かっているのだろうが、本人が明かしていないことを探るのは駄目だ。
知りたい、分かりたい。
近付きたいと思いつつも無遠慮に踏み込んでは傷付けてしまいそうで、足踏みしながら見上げるだけ。
そんな時に薄荷の言葉を思い出す。
こうやって足掻いて、苦しんで、それはそれで愉しいもの。
彼女が何者なのか知らないまま確かな引力で惹かれている。
いつの間にか「恋」と名前が付いていた。
「恋は自分の意志と裏腹に落ちるものであって、相手を選べない」と言っていたのはレピドだったか。
ノエとは何年も長く続いており婚約を決めたくらいだが、若い頃から相手の容姿や性別を問わず次々と恋人を変えていた男の言うこと。
半ば呆れていたので参考程度に聞いていたのに、こうして今になって刺さるとは。
そうして呆けていたものだから、ヴィヴィアの合図に気付くのが遅れてしまった。
よく分からないまま反射的に了承を出したら、流れ星。
何か光る物が降ってきて慌てて空中で捕まえる。
「蜘蛛蘭さん甘い方がお好きと聞いたので、あげます」
正体は蜘蛛蘭の掌程あるお菓子缶。
ミントキャンディなら月華園の皆へと大袋で配られたが、これは違う。
凍えるような夜の中、ランプの灯りで浮かび上がる真っ白なリボンと胡蝶蘭の繊細な絵柄。
蓋を開ければキャンディ包みされたチョコレートの粒が詰まっている。
特別扱いではないのかもしれない。
大した意味なんて無いのかもしれない。
それでも歓喜は身体を巡る、単純な程に。
「あの、狐薊さん……」
一瞬だけ考え込んだが先に外へ飛び出ていた呼び掛け。
ステージならどんな台詞も朗々と口に出来るのに、声が震えたり裏返ったりしそうで密かに怯える。
緊張で上擦りそうになりながら、真っ直ぐ見上げた。
「お返ししたいので、明日、クリスマスマーケットに行きませんか?」
マーケットは明日で最終日。
本番でもあるので更に賑やかになり、売り尽くしの掘り出し物が出たりとお祭り騒ぎ。
ちょっとした外出の口実には丁度良い場所。
それともヴィヴィアはもう行ってきたので断られるだろうか。
声が正確に届いたのかは分からない。
それでも気の所為でなく、確かにヴィヴィアは頷いた。
芸人として一人で生きていくつもりだったのに。
SとMの両面を持ち合わせつつ、主人も奴隷も要らないと。
音楽や緊縛やダンスさえあればそれで良かった。
伯爵家を出た日から好きに生きて、全身の刺青もまたその証。
恋愛感情は欲望でもあり暴力になり得る。
この気持ちは仕舞い込んだままでも良いのだ。
ただ気を許してくれているだけかもしれないのに、まだ年若いお嬢さんを怖がらせるのは嫌だった。
けれど、もう少しだけ。
ヴィヴィアの双眸は儚げなムーングレー。
小さな満月二つを思わせる。
太陽の下でも通用する技術を持つ蜘蛛蘭だが、選んだのは夜を生きる身。
どんな優れた芸であろうと客が居なければ意味が無かった。
声を聴いてほしい、姿を見ていてほしい、出来れば興味を持ってほしい。
君は多分、僕の月。
今の章は今回で終わり。
次回からは最終章に入ります。




