68:腕試
トワとノエ
匠の技を見世物とする月華園には当然の話、日々腕を磨く為の練習場がある。
緊縛は肌を晒してのことも多いので暖房も備わっていたが、今は消えており12月の冷気がそのまま。
動いているうちに身体が温まるというか、敢えてこの方が雰囲気が出るというか。
武道の稽古とはそうした空間。
板張りの床の部屋は真冬の清浄な空気と静かな気迫により引き締まっていた。
ここに居るのはトワとノエ、二人きり。
互いにトレーニング用の道着で向き合い、一礼。
何をするのかといえば手合わせである。
ノエは月華園の用心棒としても雇われており、もともとは伯爵家の護衛。
トワも前世から武術の師範代の面を持っていたので腕が立つとはいえ、有事だからとオーナーが荒事に加わってしまうのは少し不味いので最後の手段。
普段はノエが前に出るが、それでも腕が鈍らないようにと時々こうして猛者同士で組むことがあった。
両者とも道具を使う方が得意なので、そうなれば恐ろしく強い。
しかし各々で愛用の武器を構える本格的な護衛訓練でなく、今日は素手のみでほぼスポーツ。
ルールは一つ、どちらかが地に伏したら終わり。
靴を脱ぎ捨て、歩みは重心の移動が小さい摺り足。
踏み込みが大きければ足を引っ掛けられてしまう隙になる。
氷のような床は裸足に堪えるもので、冷気が全身に上がってきて緊張感に拍車を掛けていた。
ゆっくりと互いに円を描きながら距離を詰める足取りはダンスに似て非なるもの。
突きのように鋭く腕を伸ばしては音を立てて手を払われ、一定の間合いを保ちつつの攻防。
そこを崩して、先に動いたのはノエだった。
身を翻してトワの背後へ滑り込み、拳で喉へ一撃。
ところが残念、咄嗟にトワが自分の手で受けたので浅い。
負傷はほんの小さな咳一つ分のみ。
そうして流れるままこの手はノエの袖、もう片手は猫を摘むように襟首へ回される。
捕獲完了。
ノエが背後を取ったのは隙を突く為だったが、裏を返せば懐に入られた形。
トワに掴まれたら一巻の終わり。
身を屈めたトワが力強く地に足を着いたまま膝を伸ばし、そこから先はバネ仕掛け。
相手の衣服を握る拳は石になり、女とは思えない凄まじさで引き寄せる。
床が消えて天地が逆さま一回転。
掴まれてから三つ数えるうちに、ノエは板張りの冷たい下面に叩き付けられた。
勝負あり、勝者はトワ。
ノエも受け身を取ったし、これでもトワは手加減して頭や上半身は守ってあげたのでそこは無事。
ただし思い切り尻を打ち付けたので、衝撃から一歩遅れて星が散るような痛みがやってくるものの。
「あー……」
痺れのあまりノエが濁った声を細く搾り出す。
悪いとは思いつつも勝負は勝負。
尻にたっぷりと脂が乗っているのでクッションになった筈、ただ痛いだけ。
トワが何をしたかといえば背負投げ。
彼女に襟や袖を掴まれたら厄介、服を着ている相手に柔道は有効。
縄や十手など道具を使う捕縛術は流派があるので統一せず、あまり知られていない。
これらは武術柔術と組み合わせたものなのでトワは格闘技の基本で柔道の方も嗜んでいた。
創作物内の柔道では戦闘時にポンポンと相手を投げ飛ばしているシーンがありふれているが、大変危険が伴うので試合外ではお勧めしない。
とある大会の決勝戦で片方が受け身を失敗し、背骨が折れて畳ごと救急車で運ばれて行った大騒ぎをトワは見たことがある。
深刻な後遺症が残ることだって。
誘拐事件の際、背後からの一撃でトワが気絶させられたのは全くの不覚。
そもそも早朝の王都で男から殴られるなどまさか思うまい。
こうして場を設けた上でなら負け知らず。
「いや、体重同じくらいでも腹が丸々と突き出してるくらい太ってる奴は流石に投げられないな。背中に載らないから」
「鳥兜さん、ご自分が腹筋割れてるからって嫌味かしら……」
そんなつもり無かったが、下腹が気になるノエにとっては棘か。
大きめの林檎を丸ごと二つ並べたような乳房に、桃に似た尻で見事なまでのグラマーな身体つき。
それらを支える腰は筋肉で引き締まって括れているものの、確かに脂も上に乗っていてどこに触れても柔らかそうな印象だった。
というか、そんな折れそうに華奢なお嬢さんではあのレピドの相手など務まるまい。
トワからすれば、これだけ肉が付いていて機敏に動けるだけ大したものだと思うが。
流石に揺れて邪魔なので多少は下着で潰しているらしいものの、それでも立派。
この辺りは言わない方が良いので口は噤んでおく。
対するトワは乳や尻自体なら薄くとも、細い全身を鍛えている筋肉質。
一見すると青年のようなのは凛とした中性的な顔だけでなく身体つきも含めてのことだった。
痛みで動けないのも可哀想なので、せめてもの情けでトワは壁際の棚に置かれた花を手に取る。
花瓶に活けてあった水仙の花束。
どうするつもりかといえば、床に仰向けから座り込む形に姿勢を変えていたリヴィアンの唇に触れさせる。
そこからは魔法の所業。
早送りするように水仙は枯れて、生気を吸った魔女はすっかり復活した。
リヴィアンはエナジーヴァンパイアの魔女。
情交の際に男から奪うこともあるが、こうして動植物からも得られる。
花ならしょっちゅう客達から貰うので持て余しているくらいなのだ。
「鳥兜さん、もう一戦やりましょうか」
「まだ目眩するだろう、休んでいろ」
「あら、私はまだ足が動くのに」
「倒れ込んだら終わりと言ったが?」
荒事を好むノエは痛みも楽しんで、むしろこれからの気になってしまったらしい。
極端な話、例えば片腕を捥がれてもアドレナリンの過剰分泌で興奮してしまう危うさ。
ふと一息吐いたところで、ここから先は内緒話。
「……乙女ゲームとやらはいつ始まるのだろうな」
手合わせなんてのは二人きりになる口実に過ぎず。
トワが投げ掛けたのが始まり。
「始まってはいるし、着々とエンディングには向かってるんでしょうけども……」
「私が月華園を造った時点でもうシナリオは変わってしまったんだろうし、まだ何かやるべきことがあるんだろうか」
「そうねぇ、今までは縁の糸で勝手に引き寄せられるというか……何もしなくてもあちらから接触してくるものだったわ」
「ベテランのお前が言うからには頭に入れておくが、保証も無いのでどうにも詰んだ感じだな」
王妃候補であった公爵令嬢が家と学園を追放されて、もう一ヶ月以上。
本来のシナリオがどうだか分からないが、トワが知る限りヴィヴィアはここまで真面目で勤勉な女生徒。
王妃の器に相応しく結果を出し、凛とした美しさと優しい人柄で慕われていた。
「複数の女生徒を食い荒らしていた悪役令嬢」なんて、振られた者達による逆恨みの冤罪。
トワとヴィヴィアが接触したことは完全な偶然だった。
誰がヒロインなのだか分からず、この五年間で交友を持っていたのは何も裏など無し。
そもそもトワは「魔物」ではなく、別にシナリオを壊す義務も無し。
ただ思うままに選択と行動をしていたら、ヴィヴィアとノエを繋いでしまっただけ。
やっと導火線に火が点いたと思ったらすぐに消えてしまい、虚しく煙だけが燻っているような状態。
来たるべき爆発の為ここに居る筈なのに、どうやって備えたら良いのやら。
こういう時、ヴィヴィアを追放したことで学園や家に何かしら不都合が起こって「もう遅い」となるのがお決まりの展開らしい。
しかしヴィヴィアが狐薊として月華園に馴染んでいった分だけ時間は平等に過ぎていき、学園でも黒薔薇が不在の日常に慣れてきていた。
若者達の興味は絶えず移ろってなんとも薄情。
あれだけの騒ぎだったにも関わらず、一ヶ月もすれば凪となる。
果たしてそれは嵐の前の静けさなのか、否か。




