66:紅薔薇
ノエと雪椿
「逸材かもしれない」
発声トレーニングを受け始めた雪椿の歌を聴いて一言、蛇苺はそう感嘆した。
確かに最初から歌は上手かったが、それだけでない。
柔和な声は地のままで高音が綺麗に伸びる。
故に細くならず震えもせず、一定の強さを保ったままで長々と続く息。
月華園で男性歌手として最も実力がある蜘蛛蘭からも「僕は低音なので、流石にこの高さは雪椿君に敵わない」と認める程である。
蛇苺と蜘蛛蘭のお墨付きなら相当なもの。
あれから約一年、トレーニングを重ねただけあって堂々とステージで歌って客達の耳を満足させられるまでには成長した。
今回のショーで「淫婦リリー」が居れば「歌姫ローゼ」も勿論居るので、こちらの当て書きはノエ。
同じく男女混合曲により王太子役は必然的に専属奴隷の雪椿であった。
忠誠を誓っている彼のこと、さぞ張り切っているかと思いきや。
「何なん、コレ……歌詞がザクザク刺してくる……」
渡された楽譜に目を通して一言、雪椿はそう呟いた。
なんて苦い声を出すのやら。
加えて、読み物をする時の眼鏡越しに優美な眉毛を寄せた顰め面。
一方のノエはいつもの「あらまぁ……」を溢したきり至って涼やかに乾いた態度なので本音は見えない、見せない。
どちらかといえば雪椿の方が正しい反応か。
公爵令嬢と王太子、元婚約者同士。
これはかつて恋仲だった二人が偶然にも花街で再会し、公爵令嬢と知らぬまま王太子は仮面の歌姫に想いを募らせるという一曲。
雪椿とノエの馴れ初めも似たようなものである。
心情に重なる歌詞がそこかしこに散りばめられて、突き刺さるだけでなく焼けそうな痛み。
それこそ美しい毒でも塗られていたように。
「なぁノエさん、もしかして僕らの昔のこと蛇苺さんに喋っちゃったん?」
「付き合ってたこと自体なら知れ渡ってるじゃない」
「じゃなくて……」
「……言ってないわよ」
にも関わらず、この解像度とは蛇苺が恐ろしい。
今そこは置いておくとして。
若気の至り、青臭い思い出、それでもあの頃の自分には光であり全てだった。
そこに何かあると知ることは世界を広げること。
狭い学園で更に小さくなりながら下を向いて過ごしていた少年が教わってきたものは数え切れない。
勉強から始まって髪の結い方やコーヒーの淹れ方、愛や恋や女の柔らかさ温かさまで。
ノエにとってはもう忘れたいことかもしれないが。
それだけはどうか言わずにいてほしい。
「あなたのことを教えて」
「わたしのことに気付かないで」
激情の切なさが美しい、この曲の見せ場。
仮面の歌姫とお忍びで来ていた王太子、交互に歌いながら物語を紡いでいた二人が初めて向き合うのだ。
キスするような距離で重なった歌声。
しかし、互いの感情は別方向。
冷熱のコントラストがぶつかり合って、火花を散らすような瞬間を作り出す。
錯覚の閃光すら見えて、そこに思うものは。
詩や物語とは人の傷にそっと寄り添う。
あまり重ね合わせるのも危うい。
境界線がぼやけて、違うものが見えてきてしまう。
そうして現れてきたのは過ぎ去った初恋だった。
まだリヴィアン以外の女を受け付ける気にならず、もうこの先ずっとかもしれない。
けれど寄りを戻せるとは思っておらず、あれは昔のことなのだと何度も自分に言い聞かせてきた。
そうやって成長するにつれて、取り残された人格。
実のところ、あれから雪椿の胸には14歳のロキが棲み着いていた。
ひたむきにリヴィアンに恋をしていて、愛されていた頃の少年。
まだ同化していた頃は髪型すら変えられずにいた。
今でこそステージ映えの為に長く伸ばしているが、リヴィアンが卒業してから残りの学生時代はずっとセミロングのハーフアップ。
結んでくれた恋人を懐かしんで、梳いてくれた優しい手を忘れぬようにと。
こういう訳で、歌詞を読んで「胸が痛い」と騒いでいるのはロキという少年の方。
飼い犬になった雪椿にそう訴えつつ、かといって他の誰かにこの役を譲るのも嫌だと首を横に振る。
なんて我儘なのやら。
甘ったれで泣き虫で嫉妬深くて、好きな人の幸せも願えない。
これは今年の最後を飾る12月の歌。
止めどなく落ちる砂時計の中身はもう残り少ないのに、ロキは「終わらなきゃ良いのに」と嘆いている。
来年になったら、彼女は伯爵夫人になってしまうことが決まっているから。
ただ、歌の練習をしつつもステージまでにやることやれることはまだある。
本番でノエは赤いドレスを身に纏う。
ローゼ嬢にちなんで、薔薇を逆さにしたようなスカートが華やかなデザイン。
「ノエさん、本番は髪どうするん?」
「そうねぇ、今のうち決めておきましょうか」
名前を変えても髪の色も変えても、ノエのミッドナイトブルーの髪にはリボンが絡んでいた。
ここに来るたび、雪椿の手によって生まれる蝶々。
リヴィアンのレモンブロンドに蝶々を飾る為、集めていたリボンにはどれもこれもラベンダーの精油が沁みていた。
匂いに纏わる記憶は鮮やか。
まるで媚香のような、或いは毒のような。
可能なら食べて腹に収めてしまいたかったなんて、我ながら気持ち悪いことを考えてしまう程。
薔薇の一輪花となるあなたにもリボンを贈ろう。
触れることを許されている髪に、変わらない愛を込めて。
雪椿の花言葉は「変わらない愛」




