61:牙
ノエと雪椿、後編
「傷跡は身体に刻まれた履歴書」とはどこで知った言葉だったか。
記憶を探ると、とある一冊の本が思い当たる。
普段なら決して興味を持たないジャンルだったのに。
手に取った切っ掛けは、ああそうだ、当時の恋人から借りたのだった。
あの頃は一つでも共通の話題が欲しくて、そして飛び込んでみたら世界が広がって、沢山のことを教わった。
共に過ごした時間はほんの一年。
だというのに好みや食べ物やそこかしこに影響や存在が色濃く残って、今の自分を形作っている。
何一つ忘れてなど。
最たる物は、自ら望んで"彼女"に刻まれた耳の傷。
金色の一粒玉が打ち抜いたピアス。
あれから触れて確かめて鏡を覗き込んだ回数なんて数え切れない。
ファーストピアスの固定は大体一ヶ月から三ヶ月。
外したくなくて、決して塞がらないようにしたくて、結局半年付けっぱなしだった。
傷はいつか消えるものと言うが、特別な人に開けてもらったピアスホールは思い出として留まり続ける。
そう、残された傷は一つだけ。
考えてみれば"彼女"は嫌がることを一度もしなかった。
言葉も触れ方も愛しげで優しく。
戯れ合いの意地悪こそあっても堪らない甘さ。
それに気付いていたら、もっと大事に出来たろうか。
過ぎてしまってからでは遅いけれど。
「いつか先輩が開けるなら、その時は僕やるんね」
「そうねぇ、気が向いたらね……」
冬の夜、睦み合いの後で交わした言葉はまだ耳の奥に残っている。
まだ気怠さと眠さでふわふわしていた時の曖昧な返事。
そんなにも儚かったのに、約束としての効力を持っていたなんて自分でも思わなかった。
もう何年も経っているのに。
お互い大人になって、何もかも変わっているのに。
「ユキ君の方が怖気付いてどうするのよ」
透き通った水を思わせる声は変わらないのに、肩を叩く呼び名はあの頃と違う。
雪椿、新しく付けてもらった今の名前。
我に返れば、ミッドナイトブルーの髪が一房揺れる。
淡い光のようなレモンブロンドは艶めく夜の色になってしまった。
変わったのは容姿だけでなく関係も。
今はノエと名乗っている"彼女"と、その飼い犬の自分。
耳の丸みに沿って3つ開けたホール、背中にも埋め込まれた小さなリング。
そのどちらも薄紫のリボンを通して蝶々結び。
舌の真ん中にも銀色の丸いピアスが打ち抜かれた。
全部ノエに開けてもらった服従の証。
それも今日は役割が逆さま。
ニードルを握る雪椿の手。
その向かい合わせ、刺されるのを待っているノエ。
数年越しに約束を果たす時が来たのだ。
近くに寄れば相変わらず大きな黒目。
クリーム色を溶かした白い肌に、星を散らしたようなそばかす。
童顔なので歳月の流れは実感が薄いものの、確かに大人になったのはお互い様。
「始めますね」
そう告げたのは自分に言い聞かせる為でもあった。
ノエの耳に触れると、髪に黒々とした艶を与えるラベンダーの香油が涼やかに鼻先を掠める。
匂いは記憶との結び付きが強い。
恋人だった頃の空気を鮮やかに呼び覚ます。
突き刺す時に躊躇ってはいけない。
一息、ニードルの鋭い切っ先が柔らかい皮膚を貫く。
噛み付いて牙を立てた錯覚。
ピアスの傷なら何度もノエに付けてもらった。
始まりはクリスマスの夜。
大人になってからは衆人環視の中、舞台の上で。
幾つも身体に刻まれた針先の痛みなら全て覚えている。
静かに煮詰めた熱狂と、突き刺される恍惚。
ああ、でも、ノエが感じている痛みは自分と決して重ならない。
「……だから、何でユキ君が泣いてるの」
そう問われても、堪えるので精一杯で何も答えられず。
霞む視界の中で真っ直ぐ伸ばされてきた細い指先。
雪椿の手元作業用眼鏡を外して、濡れた睫毛を拭われた。
知らない間、胸の中に膨らんでいた水風船。
ニードルで差し貫いた瞬間にその存在を自覚した。
こんな物があったら苦しくて堪らない。
そして生まれた穴から漏れ出したのは、涙。
悲しみにも苦しみにも飽きることなど無い。
これが愛である限り。
いつだってノエは目も声も感情を読ませない。
だからこそ自分に都合の良い解釈をしてしまう。
呆れているだけかもしれないのに、手を差し伸べてくれたのは優しさだと思いたかった。
「おいで、膝くらいなら貸してあげるから」
理由も深く訊かずにいてくれる。
傷に触れないのは労りか、或いは言わずとも分かっているからか。
何にせよ、この誘いを拒絶なんて出来る訳がなかった。
脚を崩して座り込むノエの太腿に倒れ込む。
銀色の頭を預けて、仔犬の甘え方。
ここから見上げて目に映る物は全てが懐かしい。
ただ今日からはミッドナイトブルーの髪から見え隠れする耳に、銀色の光。
例えるなら雪椿の髪と同じ色。
ファーストピアスは永遠でなくいつか外す物。
そこから先、どの色を身に着けるとしてもノエの自由。
「初恋は呪い」という言葉も同じく借りた本で知ったが、どうせ呪いならば解けないでほしい。
確かに一生分の恋だったから。
終わることなど考えたくなかった。
今だって愛は尽きず、だからこそ息苦しい。
もし、好きなところから好きなようにやり直せるとしたらと何度も想像したことがある。
昔は両親が生きていた頃や、もしくは大事な人を傷付けた日に戻れたらと。
望みだって生きている限り変化を続けていく。
それなら今はどう思っているか、なんて。
僕、きっと人間に生まれなければ良かった。
本物の仔犬だったら無邪気に甘えていられたのに。
「人間に生まれていたらあなたと結ばれたのに」と身の程知らずの夢を見ながら、最期の日まで膝の上で眠っていられたのに。




