60:約束
ノエと雪椿、前編
ヴィヴィアが来るよりも半年以上前のこと
高い吹き抜けになった寮のリビングから少し奥、一階は男子部屋のみ。
そのうちの一つの前でノエは立ち尽くしていた。
もう何度目かのノック音にも無言。
無視されてる訳でも不在でもない。
ただ単にまだ寝ているだけなのだろうけれど。
ここに務め始めて二年目の夏のことである。
夜こそ綺羅びやかになる花街の朝は遅く、月華園もまた例外でない。
こうして住み込みの者も居れば通いの者も。
後者は午後から来ることが多く遅くても夕方なのだが、今日も一番乗りはノエだった。
とはいえ太陽なら既に高く、もうすぐ時計の針も真上を指す頃。
どうせ昼食には叩き起こされるので、今ノエが眠りから覚ましても同じことか。
あまり使うべきではないだろうが開ける術ならある。
左手を開けば薄紫のリボンを結んだ鍵一つ。
蝶番が金属の羽を小さく鳴らして、扉は開かれる。
カーテンで陽光を閉ざした薄暗い部屋、ここの主はまだベッドで体を丸めていた。
枕に乱れた銀髪に、穏やかに寝息を繰り返しているのは雪椿。
優美な顔立ちは眠っている時でも美しく、まるで絵画の天使を思わせる程。
ふと長い睫毛で縁取られた瞼が小さく震える。
薄く開けば覗く色は濃藍、ぼんやりとノエを捉えると頬を緩めた。
「リヴィ先輩……」
甘い声で呟いて、牙を見せる仔犬の欠伸。
その無防備な笑みは見覚えがあった。
これは、恋人だった時の表情。
目覚めてからほんの数秒は夢現。
少年に戻っていた彼の時間はそう長くない。
数年が流れるのも一瞬、全てを思い出せば緩みなんて掻き消える。
「あっ……いや、その、ノエさん……ごめんなさい……」
「別に……謝る程のことではないわよ」
口を塞いだのは失言よりも泣きそうになった為。
慌てる雪椿から視線を外して、ノエは聞こえなかった振りをした。
今日は軽く纏めた髪をキャペリンハットで隠していた所為かもしれない。
白い帽子に包まれている色は儚いライトレモンでなく、どこか物憂げなミッドナイトブルー。
恐らく、二人とも同じことを思い出しているだろう。
シャツからボトムスまで真っ黒な制服。
放課後に顔を合わせる中央棟二階の図書館。
食堂の階段下にある倉庫に忍び込んでは淡い金髪を三つ編みにして、リボンの色は日替わり。
あの学園に居た頃と変わったのは髪の色だけでない。
今、ここに居る彼女と彼は女主人のノエと飼い犬の雪椿。
「すみません、すぐ起きてコーヒー淹れますね……」
「ん、今日は先に髪やってくれるかしら。飲みながらで良いから後でちょっと話あるのよ」
含みのあることを言いながらも、ノエは何の抵抗もなく雪椿のベッドに腰掛ける。
帽子を外して無防備な背中を向けながら。
雪椿もまた引っ掛かりに気付きつつも呑み込み、返事は頷き一つのみ。
ベッドサイドにあるベージュのチェストからヘアセット用品の入った籠を取り出した。
雪椿自身も髪が長いが、これはノエ専用の物。
香油はラベンダー、用途に合わせた櫛数種類、鏡にヘアピンなど。
それから、色も生地も違うリボンの束。
思い出の中で三つ編みを飾っていた蝶々達。
雪椿が月華園で眼鏡を掛けるのは優美な顔立ちを隠す、ちょっとした仮面代わり。
とはいえ決して伊達ではなく読み書きや手元作業にも必要。
ベッドの上に座り込みながらレンズ越しにミッドナイトブルーの髪を見据え、骨張った指先が伸びる。
解いた毛先に香油で艶を与えれば、姿を持たない涼やかなラベンダーが咲いて胸を満たす。
丁寧に櫛で梳いて緩く付いた癖や絡まりを伸ばした髪は絹糸になる。
思えばトウモロコシの髭のようだった頃から歳月を掛けて随分と変わったものだ。
男の部屋、ベッドの上で二人きり。
しかし髪以外のどこにも触れず細い束を幾つか作り、編み、仕上げにリボン。
艷やかな夜の色に薄紫の蝶々が羽を広げる。
「それじゃ、ユキ君も後ろ向いて」
頷きを合図に寝巻きのシャツを脱いで、今度は雪椿が背中を曝け出す。
ショールのように纏っていた長い銀髪を掻き上げれば、その儚げな白さや細さとは裏腹に埋め込まれた小さなリング状のピアスが規則正しく並ぶ肌。
不似合いどころか痛々しさすら感じさせるが、これは彼自身が望んだ結果。
同じ薄紫のリボンならもう一本、ノエの手に。
下からリングを通って交差しては一つ二つとバツ印を描いていき、最後にうなじの下で蝶々が留まる。
主人の手でなければ結べず、服従を示す物。
消えない傷を作り、金属で刺し貫き、砂糖をまぶすようにリボンで飾り立てる。
少女趣味のような悪趣味のような。
首輪なんかよりもよっぽど妖艶で痛々しい所有印。
店に立つまでは結ぶ必要など無いのだが、主従の儀式として習慣化していた。
毎日こうしてお互いの手で蝶々を生む。
上半身裸のまま部屋を出る訳にいかず、雪椿がシャツを羽織ると布一枚で簡単に隠れてしまう。
対するノエのリボンは首を回せば端がくるりと翻る。
どちらかといえば緩やかな所作の彼女だが、軽やかな蝶々はお転婆に羽搏く。
今といえば、リビングの広いテーブルに二人きり。
昼食の準備で慌ただしい台所を擦り抜けて雪椿が湯を沸かし、寮母から邪魔者として無言の圧を受けながらも何とか二杯のコーヒーをカップに注いだ。
香ばしい湯気を立てる水面は澄んだ暗褐色。
ただミルクが無いと飲めないのは昔と変わらず、雪椿のカップの中はすぐに白く濁る。
「それで……話って何なん?」
「あぁ、そうねぇ……」
前置きしておいたものの、やはり言葉として舌から離すには少し刺々しい。
この痛みはきっと雪椿にとって大変苦いだろう。
ブラックコーヒーの所為などではなくて。
それならば順番を変えよう。
先に確認から。
「私がピアスする時、ユキ君がホール開けたいって言ったの覚えてるかしら?」
表情とは時に言葉よりも雄弁。
驚いた拍子、カフェオレの塊が雪椿の喉を鳴らす。
ならば答えは「はい」か。
慌てて飲み込んだもので軽く咳き込んでいる彼を置いて、独り言のようにノエが続ける。
「それで……まだ有効なら、頼んでも良いかしらね」
静かでも届いている筈の声量。
あの頃なら、若しくは普段なら、間違いなく雪椿は二つ返事で受けるところだったろう。
喜色を帯びたのもほんの僅かな間のみ、すぐ呑み込んで口を噤む。
賢くあり勘だって良い彼のことをノエも知っている。
申し出に隠れている棘の存在に気付いたのだろう。
「……それって、竜胆さんにピアス貰ったからなん?」
丁寧に包んだつもりが、どうして探し当ててしまうのやら。
どうか否定してほしいと祈るような目のくせに。
ノエの溜息は降参、そして肯定。
先日宝石商を屋敷に呼んでいたと思えば、レピドに改まった席を設けられたのは朝食の後だった。
彼が首領の座を継いだら結婚しようと決めてから暫く経つ。
具体的なことは一つずつ片付けつつ、指輪に関しては半ば避けていたのでとうとう来てしまったかと思ったものである。
何故って、そんなの。
ただ一つ言えるとすれば愛の有無など関係無い。
その点に関して今回は杞憂。
注文の品とは、明るく色鮮やかな赤紫が燃えるレピドライトのピアスだった。
「鱗」を意味する名前の由来は細かな雲母が煌めく為。
角度によって強い光を持ち、炎を閉じ込めたような宝石である。
彼が自分と同じ名前の宝石を贈る理由とは単なるマーキングなどではない。
石からは確かに見覚えのある魔力が込められており、見る者を魅了する紅。
小さな竜が宿っているとでも言うべきか。
しかし、この輝きは限られた者にしか感知することは出来まい。
魔法使い魔女、或いは魔導具の所持者でなければ。
そう、これは既に魔導具なのだ。
「いざという時の護身用というか……俺の我儘もあるんだが、どうかお前に持っていてほしい」
ピアスと同じ色の双眸を鋭く細めながら、低い声を真っ直ぐとノエに向けてくる。
まるで針で刺し貫かれた錯覚すら。
何しろ、魔法使い魔女が魔導具を作るということは決して容易でないのだ。
自身の魔力を分け与える為に根源ともなる髪を切り取って捧げ、石に注いだ分だけ本人は魔法が使えなくなる。
結べる長さだったレピドの黒髪が短くなっていたのもその為。
彼は魔力が強いので回復なら早いだろうが、そういう問題でも無し。
ましてや誰か他人に託すなど相当の覚悟。
そこを逆手に取られて騙されたり強制されたり、魔力を失って身を滅ぼしてしまった魔法使い魔女の例なら幾らでもあるのに。
使い方ならば魔力の持ち主と同じなので分かる。
ノエに対して怒りを向ける者の言動をある程度の支配下に置き、操ることが出来るということか。
効果は決して永久でなく電池のような物で、宿っているレピドの魔力が切れるまで。
相手が複数なら一回分、一人なら悠に数回分は使えるという。
彼の能力は言霊でもある。
より口元に近い部分の方が有効ということで、勝手ながら失くさないようにピアスにさせてもらったと。
「俺の座右の銘はな、"敵意を向けてくる奴は玩具にして良い"だ」
そう言って他者の憤怒を支配する男は悪党の顔で笑う。
「魔獣」の二つ名に相応しく、それでこそ。
以上のことは、雪椿に秘密。
単なる恋人同士のプレゼントとしか捉えていまい。
だからこそこんなにも苦い顔をする。
カップの中身はカフェオレだというのに。
「あんなぁノエさん、約束だからっていう理由だけなら……僕は、却って辛いわ……」
俯きながら、微かに震える呟き声。
それでも涙を見せないのは最後の意地か。
勿論ノエこそ我ながら無神経だったとは思う。
学園で共に過ごしていた日々、恋人との未来を信じて疑わなかった少年は幾つも約束を口にしていた。
毎日のコーヒーも、髪を編むのも自分がやりたいと。
そしてクリスマスの夜のこと、ピアスホールの予約も入れていたのだ。
今となってはまるで遺言。
あの冬の日、図書館のカーテンの奥。
嫉妬で暴走したロキにリヴィアンの恋心は殺された。
月華園で主従として新しい関係を築きつつもお互いに恋人の亡霊を見ているのだ。
その愛がどんなに深かろうと本物だろうと関係無く、どちらか一方でも受け取れなくなったら終わりなのに。
恋心を殺したことに対する贖罪ならば、今の状況こそがそうなのだ。
飼い犬として傍に置かれ、一心に愛を捧げた女が他の男と添い遂げる様を近くで見届けること。
それでも良いから与えてほしいと彼が願った罰。
「でも……まぁ、やらせてほしいわ」
一息でカップを煽ったのは決意を固める為か。
潤した舌で明確な返事をノエに突き付けた。
「あの人の贈った物をノエさんが身に着ける為なんか、そりゃ凄く嫌だけど……僕がやらなきゃ、傷付ける役目を譲るのはもっと嫌なんよ。
それにやっぱり、ノエさんにホール開けるの楽しみになってきたわぁ」
もう視線を逸らさず、泣いたりもせず。
懐かしい妖艶な笑みを覗かせた雪椿がこちらへ手を伸ばす。
まだ真っ更な耳朶を摘む、指先の低い体温。
今は触れることを許した。
そんな戯れの最中、ふと、その楽しげな色が和らぐ。
懐かしむような恥ずかしげのような。
ノエに宛てた声は温かで、確かに大人のものだった。
「……約束覚えててくれて、ありがとう」
何一つ忘れてなど。
卒業式の日に「忘れないでほしい」と少年からウサギの目を突き付けられた。
コートの肩が呑んだ少年の涙、その熱を思い出す度に胸が痛んだことなど知らなくて良い。
あれは呪いでなく恋だからこそこんなにも強く。
追い掛けて来た仔犬は大きく育って、再会を果たした場所を住処にして飼い主を待つ。
昔と変わらずひたむきに愛を膨らませながら。




