59:溺没
レピドと蜘蛛蘭
まだレピドが若頭になる前の夏、花街で刺青のある一人の男と知り合った。
ノースリーブの肩に精巧な獅子。
外国で傭兵をしているという彼は「七つの頃に酔っ払いの父親から無理やり彫られたんだ」と寂しげに笑っては、よく酒場の女達から同情を誘っていたものである。
それを聞いてレピドが冷めた目になったのは、子供の頃なんて大嘘と分かっていた為。
彫り物は成人してからという決まり事がある。
倫理的な問題というより物理的な面。
当然の話だが、身体が成長しきってからでないと絵柄が崩れてしまうのだ。
成人してから彫っても、太った所為で亀裂が入ってしまうことだってよくある。
刺青の部分だけ子供の頃から全く成長してないとでも言うのか?
それとも成長に合わせて綺麗に広がったと?
魔法でも使わねば無理な話だ、そんなこと。
それに皮膚が厚くて張りのある部位ほど彫りやすいというのに、子供の柔肌なんて難易度が高すぎる。
というのも、レピド自身も刺青持ちなので知っていた。
普段は服の下に隠しているが、左右の両肩から腕にはシンメトリーで一匹ずつ巻き付く黒い竜。
花街は働く者も客も別人になりきる場でもあるので嘘と突っ込むのも野暮、関わるのも面倒。
適当に相槌を打って受け流すことに徹した覚えがある。
その男も暑さが通り過ぎてからは見なくなり、他国の戦で知らぬ間に亡くなっていた。
遺体は酷い有り様だったが肩の刺青で本人と証明されたらしい。
嘘を吐いてまで同情を欲しがった彼は満足だったのか。
花街で刺青持ちなどそこらに居るのに。
女達も作り話と分かっていながら付き合っていただけかもしれないが。
さて、月華園で刺青といえば蜘蛛蘭である。
顔の造作よりも目を引くのは左頬、蜘蛛の巣に捕らわれた蝶々。
首から下の全身にも蜘蛛の巣。
ライト伯爵家は裏社会の家とはいえ刺青の習慣は無い。
レピドが竜を宿した理由なんて、鏡に映った時この身体に何か足りないと思っていただけ。
蜘蛛蘭がそこまで刺青の数を増やすのは何なのか。
訊ねてみたところ、時間を掛けて一つずつ彫って蜘蛛男に変化していく痛みそのものも含めて楽しんでいるのだという。
そういえば肉体改造は癖になりやすいそうで、彼はすっかり嵌まり込んでしまった結果らしい。
「ところで僕も訊きたいことがありますね……嫉妬とかしないんですか、レピド兄さんって」
本当なら名を隠さないといけないのだが、蜘蛛蘭は気が抜け切っていた。
「兄さん」なんて呼び方をしているが兄弟ではない。
もう一歩離れて「女帝」リナ・ライトを祖母に持つ従兄弟同士。
確かによく見れば薄い唇の形が似ており、シャープで冷たい印象を受ける面差しも共通していた。
比べるとレピドは彫りが深く野性味、蜘蛛蘭はサラッとしてどこか無機質と相違点もあるが。
今日の月華園は雪椿が不在、代わりにレピドが呼び寄せたのが蜘蛛蘭である。
子供の頃はよく交流したものだが仲は良かったというより、こちらがよく泣かせていた記憶ばかり過ってしまう。
髪を褐色に染めて、蜘蛛の巣の刺青を入れて、もうすっかり別人のようになってしまったが。
何にせよ、昔話をしようにも大人になるとわざわざ時間を作らねば会うこともない。
それにしても、はて、嫉妬とは。
「いや、ノエさんと雪椿君のことに決まってますけど」
「最初から知ってるしな。というか、ワン公からすれば俺の方が間男と思ってるんじゃねぇ?」
レピドの方からの言葉ならこれだけで事足りる。
怒りを支配する「竜帝」の魔法使いであるこの男は、どうも嫉妬や執着や独占欲など湿った感情が抜け落ちていた。
或いは代償として竜に喰われてしまったのかもしれない。
それはそれとして、長年に渡って雪椿がノエだけを想っているということは頭でなら理解出来る。
初体験の相手に執着するのはよくあること。
実のところ話はもっと複雑で、あの二人だけで交わした思い出や約束や秘密などもあるのだろうが。
だとしても気になったりはしない。
そこは雪椿と別れてからの数年でレピドとノエにもあるのでお互い様。
「俺はリヴィにピアス開けられたいとか、ましてや衆人環視で引っ張られたいとか考えたことねぇからな……
全然羨ましくないし、何を嫉妬するってんだ?」
リヴィ、リヴィアンはノエの本名。
ピアスに関してレピドの場合は「間に合っている」が正しいか。
黒髪から覗く耳は既に銀色が幾つも刺さっている。
雪椿のようにボディピアスなら新たに開ける場所もあるが、そこは興味が無いことだし。
刺青、ピアス、強面の巨漢なので誤解されがちな点。
他の男にちょっかいを出されたら「俺の女」なんて言ってノエを抱き寄せる様がいかにも似合いそうなものなのだが、レピドからすればそんな古い仕草には顔を顰めてしまう。
「昔から思ってたけどよ、その台詞って相手を所有物扱いしてるみたいで俺は好きじゃねぇな」
「所有物扱いされることを望む方は言われたら嬉しいですけどね」
「言い寄られて迷惑してるってんなら、別に俺はお前でも助けるけど」
「え……やだ優しい……」
それは置いておくとして、月華園の皆が以前から疑問に思っている点が一つ。
レピドがわざわざ雪椿を指名する意味である。
ノエの現恋人と元恋人が同じテーブルで向き合って食事を取っている図は大変奇妙。
「同担だから」と言っているが、勿論全てではない。
本音を明かすとなると少しばかり長くなる。
まず二人の馴れ初めとして、レピドをベッドに誘ってきたのはノエの方だった。
就職面接で初めて逢った時は硬いくらいの無表情。
そこから自白を始めてからは一転、爛々とした目で仄暗く微笑む様にレピドは心臓を掴まれた。
ライト伯爵家に五百年も言い伝えられてきた「魔物」であることとはまた別で。
そうして興味を持っていた女からの誘いだったが、あの時は何だか傷を隠した子供のように見えた。
「司書として勤める予定だったが、色恋沙汰でトラブルが起きて学園を去った」という話は事前に聞いていたのだ。
傷とは失恋でほぼ間違いなく、前の男を引き摺っている故にレピドの身体で自傷代わりや上書きしたくての行為を求めていることくらいは予想が付く。
なのでなるべく優しくしたかったし、直前で怖がらせて断られることも覚悟していたのだが「ここまで来て怖気付くな」とノエから逆に凄まれてしまった。
事の済んだ翌朝、抱き締めた枕を涙で濡らしながら眠る顔が辛そうで胸を痛めたのはレピドの方。
欲望も傷心も丸ごと受け止めて、時間を掛けて恋人になった。
その元恋人がノエに飼われることになったのが二年前。
再会は全くの偶然、奴隷志願された時点でレピドにもどうしたものかと相談された。
「SがМを飼うことに許可など要らない、堂々としていろ」と答え、ノエの方も葛藤の後に今に至る。
別に我慢だとか嫌だとかを呑み込んだ訳でない。
あの時の返事は紛うことなき本心。
それと同時、シンプルかつ純粋な話としてレピドはずっと気になっていたのだ。
魔物を自称して奈落に心があると言うノエを泣かせて、あんな傷を負わせたとはどんな男なのかと。
好奇心での行動は早く、すぐさま夕刻の装いに着替えると月華園へ向かった。
ここでは顔を隠して草花の名で呼び合うのがマナー。
意識した訳でないが全体的に青で纏めていた為、好きな花を連想して「竜胆」と名乗ることにした。
ノエや蜘蛛蘭を始めとして知り合いが多いので正体など丸分かりでも。
月華園は窓の無い半分地下、夜の店だけあって落ち着く程度に抑えた照明。
加えて黒いシースルー生地とレースのマスクでレピドの視界は暗くなっていたのだが、それでもやたら眩しく感じる男が一人。
何しろ銀髪に色白、儚げで線の細い美青年。
かと思えば耳も首から背中もコルセットピアスだらけで危うい艶。
この彼こそが雪椿、例のノエの元恋人。
雄の匂いが強いレピドと別の生き物。
ちょうど十歳下とはいえ年齢の差だけではない。
今でこそ妖しく優美な青年だが、学生の頃はまるで妖精のように無垢だったという。
現在の二人といえば店では飼い主と犬の関係。
細い指に撫でられては、束ねた銀色の髪を嬉しそうに振る様は尻尾を思わせる。
頭の中は無法地帯、そんなつもりあらずとも妄想は勝手に膨れる物。
あどけない少年に経験豊富なお姉様が性技の手解きなんて題材、「深夜の個人授業」やら「保健体育の課外補講」やらのタイトルで官能小説でお馴染み。
別に好んで読んでいる訳ではない。
ライト伯爵家が携わるポルノ関係の事業とは直接的なものだけでなく、花街から引退した者が文筆業に流れることも多々あるのだ。
「本当はああいう男が好みだったら勝ち目無ぇなぁ、って」
「まぁ、あの……好きなタイプと実際に好きな人は違いますし……」
かなり不明瞭ながらもレピドの胸中を言い表すと、こんなところ。
零す相手は蜘蛛蘭くらいなもの。
何と返したら良いのか分からないので困らせてしまうが。
別に、弱音や不安という程ではない。
もしそうならノエから雪椿に関する相談があった時点で口にしている。
ただ、知らないから悶々とするのだとも思った。
知らないまま分からないままにするのは気持ち悪い。
何もせず自分に酔うのは性に合わないのだ。
指名の度に迷惑そうにされながら、雪椿と食事を共にするようになってから二年。
しっかり向き合っていれば見えてくるものもある。
近寄り難い眩しさを持つ青年は、ただノエのことが大好きな仔犬なのだと認識するようになった。
悶々とした物は形を持ち、名前を付ければレピドとも繋がりが生まれる。
何やかんやの後に「同担のワン公」で落ち着いた。
ところで「飼い犬」というのならば、ノエ自身こそレピドの物に当たる。
花街にはきな臭い連中も集まり、武力行使も日常茶飯。
先鋭部隊はレピドを援護する為の魔法使い魔女によるチーム。
番犬であり猟犬であり、命を預けて飼い犬となる。
ここには戦えない者など不必要。
中でもノエは婚約者でもあり、共にライト伯爵家を継ぐ者。
かといって首輪も指輪も要らないと言う。
では何が望みかと問えば、竜の刺青が欲しいと答えた。
レピドが両腕に宿しているものと同じ。
「私の遺体は首が無いかもしれないし、顔が切り裂かれているかもしれませんから。
これがあったら、レピド様も私だってこと分かるでしょ?」
あの傭兵のようにか。
ノエは先に死ぬことばかり考えている。
それこそ沼みたいな目で。
真っ暗で、凪いでいて、底が見えない。
さりとて不思議と澄んでいるからこそ、沈んでいる物が抱き合う合間に覗く。
そこに居るのは奈落の魔物と知っている。
けれど確かに微かな光。
届きそうで何年もレピドは指を伸ばし続けていた。
もう少し、あと少しと。
「溺れてる自覚もあるけどな」
「そのくらい好きなのって凄いことだと思いますよ」
かといって溺愛ではない。
愛してるだの何だのという言葉よりずっと重く。
いずれにせよ、心臓を掴まれていては他所へ行けやしないのだ。
どうせ戻れないならば最後まで付き合おう。
幕が閉じる時、どこに居たとしても。




