52:舞踊劇
蜘蛛蘭とヴィヴィア
月華園の住人達は夜中に寝床へ潜り、昼前に起きる生活を繰り返している。
花街という場所そのものが夜行性なので当然なのだが、まだ朝と呼べる時間に活動している逸れ者がここに一人。
しゃんと背筋を伸ばし、寮から店に続く渡り廊下を進むのはヴィヴィアだった。
何年も軍隊じみた学園生活で鍛えられた上、生真面目な性格はなかなか怠惰に流されない。
梳かした髪は一束ね、シンプルながらも飾り紐の蝶々結びが洒落た黒いワンピースに羽織物。
12月の朝は室内でも冷えるもので、熱いお茶のトレーを大事に運びながら。
何しに行くかなんて、今日も今日とて自主練習。
一晩中ピアノを弾いた後にまた弾くなんて一見すれば狂気の沙汰。
しかしヴィヴィアの頭には寝ても覚めても音楽が流れているもので、ここに来てからというものより強くなってしまった。
何しろ月華園でしか聴けない曲ばかりの上、どれもこれも中毒性が高い。
蛇苺の作る仄暗い物語を歌姫達が過激なパフォーマンスと共に声で紡ぎ、耳から全身を音が支配する。
貴族令嬢として生きていたら決して巡り合わなかった世界。
ジャンクフードのような刺激物に惹かれてしまうだけというならよくあることだが、幼い頃から一流に触れてきたヴィヴィアの感性は確かな物。
中身もまた濃厚で味わい深く、今やすっかり虜になってしまった。
毎晩続く異界の宴、音楽は華を添える。
狐薊となったヴィヴィアもまた欠かせない一輪。
さて、店の入口に辿り着いたヴィヴィアはドアノブの軽さに気付いた。
妙なことに鍵が開いている。
閉め忘れ、或いは先客でも居るのだろうか。
一応警戒、半開きにした扉の影に隠れつつ覗き込む。
真っ暗な筈の店内は奥のステージにだけ明かり。
誰かの影が舞っている。
滑らかに閃き、どこか蝶々を思わせる指。
氷の上を滑るような爪先立ち。
弾けるように空中で長い手足を伸ばし、空を飛ぶように高く舞う。
そして着地から緩めに回転したと思いきや、一呼吸の後に速度を上げて更に回転。
これは無音のバレエ。
汗を散らして踊る髪は、見慣れた褐色。
「……居るなら声掛けて下さいよ、狐薊さん」
「すみません、お邪魔かと思いまして」
気付かれていたか、魔法を見ているような心地だったが刺青の顔を上げた一言でふと解ける。
ダンサーの正体は蜘蛛蘭。
声や表情に不機嫌などはなく、ただ動揺。
「蜘蛛蘭さんもショーの練習ですか?」
「いえ……これはその、単に趣味というか一人遊びです……」
白状すると、いよいよ羞恥で居た堪れなくなったらしい。
赤らめた顔を隠す手の甲にも蜘蛛の巣。
沢山の客を前にするショーではあんなにも大胆に振る舞うくせに、小娘のヴィヴィア一人におかしな反応。
見られるとは知られること。
それが不意であれば素顔が剥き出しになってしまう。
意地悪したつもりは無いので悪かったと思いつつ妙な気持ちも。
大人の男性に対しては失礼かもしれないが、何だかとても可愛らしく見えてしまうのだ。
とりあえずお茶でもどうぞ。
自分で飲むつもりだったカップを差し出してヴィヴィアは労ることにした。
先程の疚しい気持ちを隠すような、お詫びのような。
いつまでもそうしている訳でもなく蜘蛛蘭も長い溜息で切り替え、カップを受け取って一口。
多少は落ち着いたようで、ついでとばかりに少しばかり語り始める。
「僕、子供の頃に習い事の一つでバレエやっていて……
好きだから本当はダンサーになりたかったんですけど、父に反対されてしまいまして。
その結果、家を出てここで芸人やってる訳なんですけども」
抑圧の末に爆発して見切りを付けたということか。
加えて、この台詞だけでヒントは幾つも。
幼い頃から複数の習い事を出来て、それもバレエだなんてどこぞのご令息だか。
「失礼かもしれませんけど、蜘蛛蘭さんって貴族育ちの方ですわよね?」
「まぁ、そこは狐薊さんもですよね……」
両者共、流石に見破られたかと曖昧に笑い合う。
そこから先は踏み込まず、深く追求しない。
この月華園という異界では本名を隠すのがマナー。
名前とは正体であり、明かすには覚悟を決めなくてはならない物である。
身分が上も下も無く奉仕や隷属に愉しみを見出す場所。
もう一つ、バレエダンサーは身体能力が高いので蜘蛛蘭が経験者というのは納得した。
手足が長い細身の筋肉質。
必要とされるのは柔軟性に体幹にリズム感、その上あんな跳躍力まで備えていたとは。
「でも、バレエの道に行かなくて良かったんですの?」
「いやぁ、僕は欲張りなので一つだけなんて選べなくて。ここは緊縛も歌もダンスも全部やりますし、全部やりたいので」
とはいえ、それを全部こなしてしまうのがまるで蜘蛛蘭は魔法使いのようなのだが。
身体一つきりで出来ることなど限られている。
やろうと意気込んだところで、実力がついていかず心が折れてしまうことなんてよくあること。
「あの……良ければ伴奏弾きましょうか?」
小さく手を挙げ、ヴィヴィアが提案一つ。
控えめな声ではありつつも。
いつぞや蜘蛛蘭のポールダンスに付き合った時、一人で弾く時と全く違って冷や汗が噴き出た苦い記憶が過ぎってしまった所為。
あれもヴィヴィアにとって実力不足を痛感させられた出来事。
バレエピアニストはダンサーの動きに合わせ、的確な曲選びと指捌きが必要とされる。
ただ弾ければ良いというものではないのだ。
それでも申し出た理由は何だろうか。
実力不足だからこそもっと練習しなければと、蜘蛛蘭の姿から感銘を受けたというか。
いや、それは正直なところ建前に過ぎず。
単にもっと見ていたかっただけかもしれない。
一人遊びが恥ずかしいなら、いっそ混ぜて欲しいと。
「ん……そうですね、鼻歌だけだとリズム取り難かったので確かに有難いです」
対する蜘蛛蘭も恥じらうのはやめた。
いっそ開き直ることにしたようで、緩やかに頷く。
先程のダンスはバレエ「幽霊舞踏会」より、男性ソロパートの「非現実の夜」。
改めてタイトルを訊いてみれば、幸いにも弾ける曲。
「知っている曲なのに見て分からなかったのか」なんて思わないで欲しい。
ヴィヴィアも幼い頃から観劇の経験は積んでいるが、バレエはそこまで詳しくない。
ダンスだけ見てどの作品か当てるなんて流石に難し過ぎる。
耳と指だけで知っているのと、そこに加えて目で知っているのは全く別。
「幽霊舞踏会」は夜毎に古城で開かれる亡霊達の宴を描いた幻想的な作品。
そこへ好奇心と勇気に満ちたヒロインが迷い込んで城主の霊と恋に落ちるが、罪を犯して成仏出来なかった彼の魂を救ったことで永遠の別れが訪れるまでの切ないラブストーリーとなっている。
太陽より月に惹かれる者には堪らない人気作だった。
さあ、二人で遊びましょう。
ヴィヴィアの指が鍵盤で踊れば、蜘蛛蘭も爪先立ちで舞う。
今までのピアノは自分の為か、不特定多数の為かどちらかだった。
こうしてただ一人の為だけに弾くのは月華園に来なければ知らなかったこと。
捧げるような、或いは操るような音色で。




