45:降雪
何年経っても、この図書館から見下ろす雪景色はいつもリヴィアンの視線を奪う。
活字を追っていたいのに本の世界から浮上させてしまうのだ。
敷地内に立ち並ぶ校舎も根を張る緑も、降り積もる雪は全て等しくを包み込んでいる。
ただでさえ静寂を保つ図書館は音を失ったようだった。
それでも空だけは確実な速度で色を変えていき、迫りくる夕暮れから逃げるように生徒達は慌ただしく帰宅していく。
窓の外に広がる真白、放課後の図書館、黒い制服。
何だか時間が戻ったような錯覚。
約一年前、音楽室の床で男に穢された日。
リヴィアンに残された物は痛みの記憶と、今でも燻るような腹立たしさくらい。
男を葬ってもそれだけはまだ晴れるものでなかった。
ここに居るのは生気を糧に変えるエナジーヴァンパイアであり、奈落に棲む魔物。
普通ならば狂ってしまう恐怖の記憶も、もう人ならざる物に変わってしまった"彼女"には傷一つ付けることが出来ない。
「リヴィ先輩、ぼんやりしてどうしたん?」
「ん、別に……」
雪を眺めていた時、同じように声を掛けてきたのはダヤンだった。
しかし彼はもうここに居らず、横に居るのはロキ。
今日は勉強会でなく単なる図書館デート。
他者から見えないテーブルの下で手を握られ、重なる体温が現実に引き戻す。
もう図書館に残っているのは敷地内を移動するだけの寮生くらい。
とはいえ悪天候で閉館時刻も早くなったので司書も生徒達に帰り支度をするように呼び掛け、貸出カウンターに軽く行列が出来ている。
春からあれはリヴィアンの仕事にもなる訳か。
早いもので、卒業まで残すところ一ヶ月半。
「仕事あるからこれからは勉強教えられないけど、ロキ君大丈夫なの?」
「でも図書館に来たらいつでも先輩に会えるし、頑張れると思うんよ。僕もうだいぶ成績上がったし」
当然、卒業後は図書館に司書見習いとして務めることならロキにも話してある。
これからは職員と生徒の関係。
生徒同士の今とは色々と違うものになってしまうが、とりあえず学園で会えるのであまり変化に対する実感が無い。
少年の方が成長は早いので、着実なスピードでロキも変わっているのだが。
クリスマスの夜からハーフアップにするようになり、やはり髪型が与える印象は大きい。
ふとした時に随分と大人びた横顔を見せるようになった。
流れる銀色から覗く耳にはまだ淡い金色のファーストピアス。
ホールの固定に掛かる日数は一般的に四週間から六週間、長くて半年。
セカンドも付けてないうちから気の早いことだが、また7月に誕生日が来たら新しい物を贈るつもり。
「春から司書さんなら、三つ編みも良えけど知的で大人っぽい感じとかもやりたいんねぇ。
これとか髪のフワフワ感活かした感じでリヴィ先輩に似合うと思うんよ」
「ありがと。でもロキ君がそんな張り切らなくて良いのよ……」
こうして女性向けのヘアアレンジの本を借りては、あれこれとロキの方から提案してきた。
夏にリヴィアンのレモンブロンドを弄ることが日課になって以来、すっかり専属美容師気取り。
髪は自分より他人に結んでもらった方が綺麗に仕上がるものである。
手先が器用なだけに、コツを教えたら編み込みやお団子も練習ですぐに覚えてしまった。
恋は盲目といったもので、相変わらずリヴィアンに対するフィルターは強い。
三つ編みで癖の付いた髪は本人から見てどちらかといえばフワフワよりクシャクシャの方が近いと思うのだが。
それも一体いつまで続くものやら。
愛が冷めると、フィルターが外れて現実が見えてくるものである。
ロキが自分に飽きるまでは共に居ても良いとは思っているが、こちらから身を引くべきなのだろう。
彼にとって長い人生の中で、この時間はきっと青春の思い出になって懐かしむだけになる。
人生七度分の勘と経験が告げているのだ。
この恋にはいつか別れが来ることを。
交際に至ったからといって、正直なところ"彼女"は永遠など信じていなかった。
いかにも感情を知らなそうな魔物じみた考えだが、むしろ逆である。
愛や恋なら幾つも経験してきたし、それはもう燃えるようなものから温かなものまで心身を捧げた。
だからこそ理解している。
どれだけ大事にしようとも、終わる時は無慈悲に終わると。
ある意味、体作りや芝居の練習の方がよほど努力や根性が実る。
恋とは一人でするものでないからこそ、相手と同じ温度を保ち続けることは難しい。
どうにもならないことというのは存在するのだ。
それはそれとして「自分の運命に巻き込みたくない」という考えとはまた別。
悪役に転生した者にはよくある話で。
リヴィアンとしてこの世界に来てから四年が経過。
進むべき道が見えない以上、いっそ生涯を自由気儘に過ごしてみても良いのだろう。
悪役の任務なんて投げ捨て、知らん顔を決め込んで。
なんて、それが出来ない理由は勿論あるのだが。
アイデンティティやら使命感やら、そんな曖昧な物を言い訳に使うつもりは無い。
シナリオが分からなくても何も行動しなくても「キミヒミ」とやらのゲームスタートとなる時間はあれから刻々と近付いている。
リヴィアン・グラスという少女がこの乙女ゲームに登場するキャラクターである以上、縁の引力が存在するのだ。
これは転生に於ける絶対的なセオリーである。
どんな道を進んでもヒロインとは出逢う。
それどころか、向こうから接触してくるかもしれない。
魔法使い魔女が見えない糸で引き合うように。
それとも彼女もまた魔女かもしれない、魔導具を持っているかもしれない。
その時、もしリヴィアンの隣にロキが居たら?
果たしてどんな運命を描くのだろう。
名と同じ鉱石の色を持つ人々が暮らす世界で、銀髪は希少価値の高い特別な色。
恐らく攻略対象の中でも頭一つ抜き出た存在ではないだろうか。
リヴィアンの方も惚れた欲目が多少なりとも働いているとはいえ、幼さが抜けていくにつれて男としての魅力も着実に増している。
更に成長を重ねれば、誰もが虜になりそうな美しい青年になるだろう。
よくある話を元に仮説を立てれば、逆ハーレムを企てるヒロインがロキを求めてくるとする。
リヴィアンは彼の心を絡め取って離さぬ冷酷無比な悪女の役でも演じれば良いのか。
強欲なる野望を叩き潰すのが任務ならば、それはそれは愉しそうでつい心躍ってしまう。
これは本来のテクタイト家の養女になるシナリオから確実に離れた出逢いであり、恋仲になったのは更に不測の事態でも。
加えて、どちらかといえば理由も分からず仔犬に懐かれているようなものである。
流石に神だか悪魔だかの思惑からは外れている現状だと思うのだが、あれから介入やそういったものは何も無く放置されたまま。
ただ次元の向こうからこちらを見ている筈なのは確かであり、面白がっているなら忌々しいことだ。
そもそも何故リヴィアン役に選ばれたのか。
どうして"私"なの。
上の空で帰路を辿っていたもので、心構えもしないまま扉を開けてしまった。
外へ出た時に包まれる冷気で髪から爪先まで凍ってしまいそうになる。
現在地、図書館のある背の高い建物は学園の敷地内中央。
東側の端に位置する寮や食堂までは屋根のある簡素な渡り廊下で繫がっているので、傘が無くても濡れたりせず安心。
やはり雪は見慣れていた場所を知らない顔へ変えてしまう。
枯れ色ばかりで寂しかった中庭は粉砂糖で美しく化粧されたようになり、緑や花を眠らせた純白の風が吹き付けてくる。
そんな世界にシーライト学園の制服は異質な真っ黒。
コートの襟を立てて、思わず身震いしてしまう。
図書館を追い出された寮生達は行き先が同じなので、自然にぞろぞろと集団移動になる。
もうじき夕飯の時刻、空腹は余計に寒さが沁みた。
皆のおしゃべりを聞き流しながら、リヴィアンとロキは列の後方。
人目があるので手も繋げない。
こんなに近いのに、指先が冷えているのに。
「……リヴィ先輩、今夜も会いに来て良え?」
だというのに何故、今そんなことを口にするのか。
少年の独り言は騒がしさに掻き消えた。
まるで恋文のような密やかさ。
受け取ってしまったからには、返事など決まっている。




