寄生虫のおかげ
俺の身体に虫が住み着いている。そのことに気がついたのは、つい数ヶ月前のことだった。いや、気がついたのが数日前というだけで、ひょっとしたらそれより前から住み着いていたのかもしれない。
いつどこで虫が身体の中に入り込んだのか。心当たりは一切ない。変なものを口にしたわけでもないし、俺はこの十数年間ずっとこの部屋から出ておらず、外で虫と接触する機会もなかったはずなのだから。
虫はゴマ粒ほどの大きさで、俺の身体の中を活動的に動き回っている。特に俺の腕を好んでいるらしく、ふと自分の右腕に視線を落とすと、手首あたりの皮膚が波打ったり膨らんだりして、そこに奴がいるということを教えてくれる。
虫が俺の身体を動き回ることで痛みを感じることはない。ただ、集中して内側に意識を向けると、虫が今俺の身体のどこにいて、どこに向かって進んでいるのかがわかる。肋骨と脇腹の間を通り抜けようとする時はゆっくりと硬い骨に沿って体内を進んでいく感覚がするし、脂肪の詰まった下腹部をずんずんと進んでいる時は、どこかくすぐったいと感じてしまう。
もちろん虫が俺の身体に住み着いていると分かった最初の頃は大変だった。体内に潜り込んだ虫を何とか追い出そうと、爪が血で真っ赤になるまであちこちを掻きむしったり、頭や身体を壁にぶつけて部屋に穴をあけたりした。それでも人間とは不思議なもので、違和感もずっと続けばそれが当たり前となり、虫が俺の身体を這いずり回る感覚はいつしか俺の日常生活の一部となっていった。
俺は耳を澄ます。下の階では父親と母親が言い争いをしている声が聞こえてくる。それに混じって、俺の身体の中から、虫が自由自在に動き回る音が聞こえてくる。それが今の、俺の日常。俺の日常の全てだった。
「ねえ、たかひろ。お願いだから出てきて。お母さんはたかひろのことが心配なのよ。わかってちょうだい」
部屋の外からは母親の啜り泣く声が聞こえてくる。だが、母親の声は今の俺にとっては生活音の一つに過ぎない。だから、母親が何を言っているのかも、俺にはうまく聞き取れないし、聞こうとも思わない。
俺はその声に返事をするわけでもなく、同じような目にあっている人間がいないかをネットで探してみた。数は少なかったが俺と全く同じ症状を訴えてる人が何人か見つかって、その人たちの話では、毎日規則正しい生活を送り、食生活などを見直すことでいつのまにか虫がいなくなっていたらしい。だが、その話を聞いたところでそれを試してみようという気持ちにはならなかった。
長い長い引きこもり生活で時間感覚はおかしくなり、昼と夜の区別さえつかなくなっている。カーテンが締め切られたこの部屋で、太陽の日差しなんで久しく浴びていない。眠たくなったら眠り、お腹が空いたら、親が寝静まった後に家の中を歩き回って見つけた食べ物を食べる。親が寝静まった家の中は暗く、エアコンや冷蔵庫の振動音が時折聞こえてくる以外は静寂で、まるで暗い洞窟の中を手探りで潜り込んでいっているようだった。壁に手を当て、半ば手探りで家を歩き回っていると、俺の身体の中を動き回り続ける虫の気持ちが少しだけわかるような気もした。
「今日ね、お父さんからね、たかひろが引きこもりになったのは全部私のせいだって言われたの。すごく悲しかったり傷ついたわ。でもね、私のせいだったらなおさらお母さんがたかひろを助けてあげなくちゃと思うの。ほら、たかひろでも働けそうな職場とか調べてみたから、よかったら読んでちょうだい」
虫が俺の身体を動き回っていることが当たり前になったある日。俺のもとに一件のメッセージが届いた。差出人は自分は医者だと名乗り、かつて俺がSNSで投稿したこの虫の話と、俺自身の話に興味が湧いてきたのだと説明していた。興味深い現象だし、何より引きこもりである君にも興味がある。だから一度会えないだろうか?医者を名乗る人物からのメッセージにはそう書かれていた。
『引きこもりで外に出られないので、病院までいくのは無理っす』
『だったら、僕が迎えにいくよ』
『なんで?』
『もちろん体内の虫について学術的な意味で興味があるっていうのはもちろんだけど……。実は僕も昔一時的に引きこもりでね、気持ちがすごくわかるんだよ。外に出るのは確かに怖いけど、このままでいいのだろうかという不安もある。だから今振り返って思うことは、何か背中を押してくれるようなきっかけなんだって。実際、うちの病院は君みたいな元引きこもりがバイトで働いていたりして、理解のある職場なんだ。それに、君が望むのであれば社会復帰のお手伝いだってできるかもしれない。この虫はさ、君が引きこもり状態から抜け出すためのきっかけを与えてくれてるんじゃないかな?』
俺は医者の言葉を読み返す。そして、その度に、きっかけという言葉を心の中で反復する。俺は彼の名前をネットで検索する。すると、いくつかメディアで取り上げられている有名人だと知り、彼が言っていた元引きこもりという経歴も、今は同じ境遇の人の社会復帰を手助けしているということも全て事実だということを知った。俺はインタビュー記事を見ながら、俺の右腕に目を落とす。ちょうど虫が俺の手の甲あたりにいて、もぞもぞと円を描くように動き回っているのがわかる。虫がいることに対して別にもうなんとも思ってないし、これをどうにかしようとする意識もない。それでも、きっかけという言葉が頭に焼き付いて離れない。頭にふたたび思い起こされ、気がつけば俺は医者に対して返信をし、そこに自分の住所を記載していた。
「たかひろは本当は優しくて優秀な子だって私は知ってるのよ。お母さん、いつだってたかひろのことは信じてるし、たかひろのためだったらなんだってするわ」
医者からはすぐに返信が来た。迎えにいくよ。それだけのたった短い返事。だけど、そのそっけなさが今の俺にはむしろありがたかったし、丁寧な言葉なんかよりもずっとずっと信用できる言葉だった。その日から俺は虫と共に、彼を待ち続けた。腕の中を這いずり回る虫をぼんやりと眺めながら、今までの俺の人生を思い返したり、この虫が俺の体に住み着いた意味を考え続けた。
俺は暗い引きこもり部屋の中で一人待ち続けた。いや、正確には一人と一匹で待ち続けた。その中でふと、家の中でも、社会の中でもずっと感じつ続けていた孤独が少しだけ小さくなっていることに気がついた。初めは異物、異常としか考えられなかったこの虫は、いつしか俺の日常の生活の一部になり、さらに時間が経つことで俺を必要としてくれるこの世界でたった一つの存在なのではないかと思うようになった。
俺は裸のままベッドに仰向けになり、頭だけを少しあげて、虫が自分の身体を動き回り続ける姿を眺め続けた。虫が元気に動き回る姿を見ると、まるで自分の存在が肯定されているかのような感じがして嬉しい気持ちになった。
俺は医者を待ち続ける。寝て、起きて、虫を見て、寝て。そんな毎日を何度も繰り返した。パソコンも開けることなく、ただただ日中は身体の中を動き回る虫を観察し続けた。そして、何日経っても、医者は俺を迎えに来てくれることはなかった。だが、いつしかそのことも気にならなくなり、ただこうして昨日と同じ毎日を繰り返すことに満足するようになった。
俺を必要としてくれる虫がいてくれるだけでよかったし、今と変わらないということだけで満足だった。虫の動き回る音、カーテンの閉め切った暗い部屋、そして扉の外から聞こえてくる母親の声。それが俺の日常の全てなのだから。
「ねえ、たかひろ。そういえば最近ね、たかひろに会いたいっていう怪しい人が来てるの。名刺とか職業を教えてもらって、たかひろを社会復帰させたいって言ってるけど、絶対に悪い人だから追い返してあげてるからね。だって、調べてもなんだか胡散臭いし、それにね、あんな場所で働いているってなったら恥ずかしいでしょ? たかひろにはもっとたかひろにあった場所があると思うの。おかあさん、たかひろのために調べてきてあげたから、あとで読んでちょうだいね」