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そよそよと頬を撫でる風に目を覚ます。そして最初に目に映ったのは、薄紫色の瞳だった。その瞳の持ち主を、私は知っている。
「アメ、リアさん……」
「気分はどう? 苦しかったりしない?」
そう優しく問いかけてくれるアメリアさんは、グランさんと同じ魔族の人で会うたび癒しをもらっている。
あれ、でもどうしてアメリアさんがいるんだろう。ここはお城の中にある部屋のはずだ、けど……。
いろいろと考え始めていると、ぼんやりとした意識が少しずつはっきりしてきてがばっと勢いよく上半身を起こす。だけど突然上半身を起こしたのと勢いがあったせいで体が傾く。それを横で見ていたアメリアさんがすかさず支えてくれた。
「……すみません。ありがとうございます」
「いいのよ。でも勢いよく起き上がるのは危ないからやめてちょうだいね」
「はい」
返事をしながら周囲を確認する。そして私が昨日兵士たちに無理矢理入れられた、窓一つない暗くてじめじめとした部屋ではないことに気づいた。そのあまりにも広くて清潔感漂う部屋に驚くのと同時に、私の意識がない間に何があったのかわからず困惑してしまう。
「ユヅキちゃん、体を横にするから力を抜いてね。大丈夫だから安心してね」
穏やかな声でそう言ってくれたアメリアさんは、そんな私に気づくことなく体をゆっくりと横にしてくれる。そして背中にあたるふわっとした何か。そのふわふわさに沈む体。
「……あったかい」
自然と音となり出た言葉。それが何に対してなのか自分でもわからない。
お布団の暖かさへなのか。
アメリアさんの優しさへなのか。
なんだか泣きそうになって、慌てて手で顔を隠す。じわじわと滲む涙。喉の辺りが詰まったように苦しい。だけどアメリアさんを困らせてはいけない。泣くのは一人になったとき。今は先に答えなければならないことがある。
私は手の中で、音が出ないように息を吐き出し吸い込む。そして手を顔からどかして下で緩く握りながら、笑顔で口を開く。
「アメリアさん。私、今は痛くも苦しくもないです。ご心配をおかけしました」
「っ……そう。よかったわ。あなたが今日目を覚ましたことは本当に奇跡なの」
そう言ったアメリアさんは少し泣きそうな顔をしていた。そして昨日の私がどれだけ危ない状態だったのかを教えてくれて、私がここにいる理由と場所についても簡単に教えてくれた。
「……」
ここは魔族領で、あの国にあった清めの泉と同じ力を持つ泉で私の穢れを清めてくれたらしい。そして魔族領に連れてきてくれたのが、たまたまあの国にいた魔王様で。私の「助けて」という言葉を聞いて救いだしてくれたらしい。
いろいろと質問したいことはあるけど……私は魔王様のおかげで今を生きていられるということ。これはすぐにでもお礼に伺わなければ。だがしかし今の私にはこの身しかなく、お礼の品を用意することができない。どうしよう。この至れり尽くせり状態に見合うだけの品……聖女の力しか思いつかない。それしか私にはない。
頭を抱えたい気持ちをどうにか抑えて、アメリアさんを呼ぶ。そして私は魔王様への謁見をお願いする。するとアメリアさんはぱあっと花が咲いたように笑って「もちろんよ。ジオディスカーラ様もあなたを大変心配なさっていたから、きっと安心するわ」と言った。そして私がお礼を伝えようと口を開きかけたとき、部屋の扉が勢いよくノックされる。それに肩を跳ねさせ、布団をぎゅっと握りながら扉を見る。アメリアさんも驚いていたけど、すぐに「少し行ってくるから待っていてね」と笑顔で扉を開けて部屋から出た。
「今の、なんだったんだろ……」
誰だかわからないけど、あのノックの仕方は扉を壊せるくらいの威力があった。だって扉が悲鳴をあげていたし。
そう思いながら扉を見つめていると、アメリアさんが部屋へ戻ってきた。そして私と目が合うと、苦笑を浮かべ言った。
「今の犯人はグランだったわ。あなたの様子を私に聞きに来たらしいけれど、部屋の中からあなたの声が聞こえて思わず勢いがつきすぎてしまったらしいの。ごめんなさいね。騒がしくて。それでできたら今すぐにでも会ってもらえないかしら? さっき話をしたら、そこからそわそわしてて」
「はい! あ、でも先に顔とか洗わせてもらえますか? このまま会うのは申し訳なさがありまして……」
「ええ、もちろんよ。それじゃあ準備をしましょう。いろいろあなた用に用意してあるからそれを使ってちょうだいね」
「ありがとうございます」
私はさっきのこともあるのでゆっくりベッドから降りて、アメリアさんが案内してくれた洗面所の中へ入り急いで準備をする。そして全てを終えた頃にアメリアさんが来て、グランさんに会ったあとそのまま魔王様に会えることになった。
アメリアさんの仕事の早さと魔王様の優しさに感謝しながら部屋を出て、グランさんに心配をかけてしまったことを謝罪したら「お前さんが大丈夫ならいい。俺もさっきは驚かせて悪かったな」と眉を下げて言われた。そこから少しお話ししてグランさんとは別れた。
「もう少しでジオディスカーラ様のところへ着くからね」
「はい」
返事をして、アメリアさんの後ろをついていく。時折、廊下の左側にある窓から涼しい風が入ってきて心地がいい。
あの部屋にいたときから思っていたけど……ここの空気は澄んでいて美味しいし、どろどろとした重苦しい圧力のようなものもないから体が軽い気がする。まあ、私への扱いがあんな感じだったのでそういう気がするだけかもしれない。仮令そうだとしても、私はここの空気や雰囲気が好きだ。
***
「ここがジオディスカーラ様のお部屋よ」
「はい。ありがとうございま、す……わあ、きれい」
目の前にある重厚かつ繊細で美しい模様が描かれている扉の、あまりの美しさに見惚れてしまう。決して派手すぎない静かな感じ。
じっと扉の模様をあちこち見ていると、左隣から視線を感じてそっちを向く。
「あっ! ごめんなさい! あまりにも素敵で見惚れてしまいました!」
「ふふ、大丈夫よ。ただあまりにもきらきらと見ていたから、私もあなたに見惚れていたわ。だってあなたのそういう表情を初めて見たから」
そう言って微笑むアメリアさんの美しさと眩しさに目を守るように手をかざす。
「っ……」
「ユヅキちゃん? 突然どうしたの?」
「すみません。アメリアさんの輝きが眩しくて」
素直に答えると、アメリアさんはきょとんとしてから「私はユヅキちゃんの笑顔のほうが眩しいわ」と柔らかい声で伝えられて照れてしまった。
「ありがとうございます。嬉しいです」
「ふふ、やっぱり笑った顔が素敵ね。ジオディスカーラ様に会うときもあまり緊張せず、その表情で会ってもらえると嬉しいわ」
「っ……はい!」
私の返事を聞いたアメリアさんは、美しい扉を三回ノックして中へ声をかけた。そして中から返ってきた声の心地よさ。低く、温かみのある声。
「さあ、入って」
「ありがとうございます」
中へ入るとふわっと風が吹いて、私の頬を撫で髪を後ろへと靡かせるような感覚があった。けれど窓は開いていない。私の気のせいだったのかなと思ったけど、アメリアさんが魔王様に話しかけたことで気のせいではなかったのだとわかった。
「ジオディスカーラ様。心配なさらなくともユヅキは大丈夫ですよ」
「だが、触れなければ大丈夫かわからないだろう? もしかしたら遠慮している場合がある」
「あの……」
「ああ、すまない。私はジオディスカーラ・ユーティンス。魔族の王をしている。君のことは常々アメリアたちから聞いている」
その言葉に、ついアメリアさんを見てしまう。それに気づいたアメリアさんが微笑んでくれる。それが私を照れさせる。照れがすっごい速さで私に走ってきてるよ。
「そうなんですね。なんだか恥ずかしいです……あっ! すみません! 申し遅れました。小鳥遊雪月です! よろしくお願いします!」
「こちらこそよろしく」
穏やかに笑う魔王様の姿が、すっと心に溶け込んで馴染む。
……アメリアさんやグランさんが話してくれた魔王様、そのままだ。それから「ユヅキ! ジオディスカーラ様の笑顔はな、一度見たら忘れないぞ」とグランさんが言っていたけど、確かに忘れないくらい温かいです。
「ああ、そうだ。伝え忘れていた。私に対して敬語は不要だ。呼び方も敬称なしで頼みたい。それから、できれば君だけの呼び方を考えてくれると嬉しい」
「え……? あの、でも……」
「ユヅキちゃん。はい、せーの」
え、何この状況。言わなきゃいけない感じ。諦めちゃいけない感じ。度胸を見せる感じ。
え。あー、はい、せーの。
「わかった! それじゃあ! ジオさんと呼ぶね!」
そう言った瞬間、ぱあああと花が咲いたように微笑む魔王様。そして手を合わせて、子供の成長を喜ぶ母のような表情で私を見るアメリアさん。
恥ずかしさがすごくて居心地が悪い。今すぐにでも顔を隠して、しゃがみこんでしまいたい気持ちだ。でもまだお礼を伝えられていないし、迷惑をかけてしまった謝罪もしていない。するまではこの恥ずかしさに堪えるんだ、私。