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 それはーー突然だった。


「はっ……え?」


 開いた窓から入ってきた風が黄色のカーテンを押し揺らす。私はその光景をただただ見つめる。


「え、あ、頭がおかしくなった……?」


 混乱する頭を放置し、とりあえず今いる場所を一通り見る。


 見慣れたベッド。とても大切にしている、お母さんが作ってくれた私と同じくらいの大きさの猫のぬいぐるみ。そしてあの世界に喚ばれる前まで座っていた椅子に、広げたままの宿題。制服はハンガーに掛かったまま。だけど埃はついていなかった。たぶんお母さんが綺麗にしてくれていたんだと思う。それから木製の枠の柄が気に入ってお年玉で買った全身鏡。


 あの世界に喚ばれる前と変わらない状態に、じわりと涙が溢れ始める。


「い、たい……痛いや」


 思いっきり自分の頬をつねってこれが現実か確認してみると、痛かったので手を離す。解放された頬はじわじわとまだ痛む。


「……っ」


 私は部屋から飛び出して、階段から飛び降りる勢いで降りる。その音に驚いたお父さんとお母さんがリビングからフライパンとトングを持って慌てて出てきた。だけど私の顔を見た瞬間、フライパンとトングを捨てて私に駆け寄って……思いっきり抱き締めてくれる。


「雪月!」

「雪月ちゃん!」

「ふ、う、うわああああ……っ!」


 二人を呼びたかった。だけど私から出てきたのは、言葉にならなかった音だけで。


 私は二人にしがみつくように腕を回して、わんわんと泣いた。


 怖かった。

 辛かった。

 苦しかった。

 悲しかった。


 全部、全部溢れ出してしまって止まらない。止めることができない。


 心配をかけてしまったことを謝りたいし、突然いなくなったことの理由とか説明もしないといけないと頭ではわかっているのに……心と体が言うことを聞いてくれなくて。


「苦しいところや痛いところはないかい?」

「雪月ちゃん。お父さんとお母さんに顔を見せて」

「うっえ、ごめ、だ、いじょぶ……」

「そうか。大丈夫ならよかった」

「本当によかった」


 そう言って笑ったお父さんとお母さんの顔は(やつ)れていて、どれだけ心配をかけてしまったのかがわかる。私はお父さんとお母さんそれぞれと抱き締めあってから涙を袖で拭う。そして呼吸を整える。


「お父さん、お母さん。心配かけてごめんなさい。ただいま」

「おかえり」

「おかえりなさい」


 お父さんが頭を撫でてくれて、お母さんは手を握ってくれた。それにまた泣きそうになった。



            ***



 あのあとリビングに移動して、私が異世界に喚ばれ聖女になったことや聖女としての生活などを二人に話した。それからジオさんたちの話も。そして気づいたら自分の部屋にいて、どうやって帰ってきたのかもわからないと伝えた。


 二人はただ静かに私の話を聞いてくれた。時折頷いてくれたり、私が落ち着いて話せるように手を握ったりしてくれて最後まで話すことができた。


 最後まで話終えると、お父さんは「ふう」と息を吐いて私を見つめた。そしてお母さんは右手を右頬に添えていた。


「つまり魔族は優しい人たちなんだね?」

「うん。とても優しい人たちだよ」

「お父さん。雪月ちゃんを助けてくれた方々だもの。どうにかお礼の品を送りたいわね」

「そうだね。でも雪月もどうやって帰ってこれたのかわからないと言っているし。何よりそれをしようとして雪月がまた異世界へ連れていかれる可能性もある」

「そうよね。そうすると……」


 お父さんとお母さんはジオさんたちへのお礼の品をどうするか話し合ってるけど、ずっと気になってることがある。それは私の言ったことを全部信じてくれて叱る素振りもないこと。だってよく考えてほしい。娘が突然消えたと思って心配していたら、消えたときと同じく突然帰ってきたんだよ。そして異世界にいたとか突拍子もないこと言って、さらには聖女になってましたなんて言われたら……頭の心配とか何ふざけたことを言ってるのって、慌てられたり叱られたりしてもおかしくないはずなのに。


「あのさ、お父さんとお母さんは私が言ったこと……嘘だとか思わないの?」


 馬鹿なことを口走ったと思う。だけど聞かずにはいられなくて。


「思わないさ。僕たちは雪月のお父さんでお母さんだからね。嘘を言ってるのなら、ちゃんと叱っているよ」

「そうよ。雪月ちゃんの様子やいなくなったときの状況を考えると、雪月ちゃんがしてくれた話はちゃんと辻褄が合うわ」

「っ……ありがと。それからごめんなさい。馬鹿なことを言って」

「大丈夫よ」 


 お母さんに頬を包まれて優しくうりうりと動かされる。その光景を微笑ましそうに見ていたお父さんはなぜかカメラを持っていた。


『ど……にい……』

「……!」


 耳から聞こえた、というよりは頭の中に響いた途切れ途切れの音。その音を私は知っている。


「ジオ、さん……」

「雪月ちゃん、どうしたの?」

「何か聞こえるのかい?」

「さっき話した魔族の王様の声が途切れ途切れだけど脳内に響く感じで聞こえるの」

『どこに、いる……だ……か』

「あ、さっきよりはっきり聞こえた」

「なんて言ってるの?」

「どこにいるまではちゃんと聞こえたんだけど、まだ何か言ってたのにちゃんと聞き取れなくて」

「もしかすると雪月が突然いなくなったから心配しているんじゃないか? 雪月の話を聞く限り、魔族の人たちは雪月のことを大切にしてくれていたようだし。それに前に人間側に拐われかけたということがあるから、魔族の人たちは人間に拐われたと思うかもしれない」

「そうね。お母さんたちと同じように心配しているかもしれないわ。あと魔族の人たちが考える可能性の一つとして、あなたが別の世界に入り込んでしまっているかもしれないということ」


 お父さんとお母さんの話を聞いている私の心臓はばくばくと激しく動き出している。


 人間に拐われていると考えられた場合、魔族があの国へ行く可能性がある。そうなったら……駄目だ。それだけは駄目だ。みんなが手を汚すことになるし、怪我をするかもしれない。


 何か、何か説明する術はないか。思い出せ。私が帰ってくる前にあの世界で何をしていたのか。そうすれば私が無事だと伝えられるかもしれない。


 あ、思い出した。あのときーー。


「身を、清めてた……」

「雪月ちゃん?」

「お父さん、お母さん。私、あっちの世界で泉で身を清めてる途中で帰ってきたみたい」

「それじゃあ魔族領内だね。人間は入ってこられるのかい?」

「わからないけど、私がいたときは私だけだったよ」

「そうか」

「……ねえ、雪月ちゃん。お母さんね、こういうときに泉と繋がるのはだいたい同じような場所か鏡だと思うの。それで雪月ちゃんが帰ってきたときのことを考えると、雪月ちゃんの部屋にある全身鏡が今あちらの世界と繋がっているんじゃないかしら?」


 お母さんの言葉にはっとする。そうだ。今思い返すと、さっき部屋にある全身鏡はいつもと違った気がする。いつもは木製の枠の柄が蕾なのに、今日は花が咲いていた。しかも満開で。なんで今日に限ってスルーしちゃったんだ。いつもなら気づいて変だと思うはずなのに。いや、今はそんなこと思ってる場合じゃない。


「お父さん! 目を閉じて!」

「わ、わかった!」

「お母さん? 突然大声でどうしたの?」

「雪月ちゃん。裸になってきてるわ」

「えっ!?」


 お母さんに言われて自分の格好を見ると、本当に裸になっていた。慌てて手で隠す。お母さんが大慌てで大判のバスタオルを持ってきてくれたので、それを体に巻く。そしてお父さんとお母さん二人と一緒に二階へと上がり、部屋へと駆け込む。するとはっきり聞こえる声。その声は脳に響く感じではなく、ちゃんと耳から聞こえる。


『ユヅキちゃん! どこにいるの!』

『ユヅキ! 声を出せるか! 無事か!』

「アメリアさん、グランさん……」


 いなくなった私をずっと大声で探してくれていたのか、二人の声も遠くから聞こえてくる魔族の人たちの声が少し枯れていて……ぐっと心臓が握られる。だから私は無事だと安心してほしくて鏡に近づこうと思ったけど、足を止める。


「……」


 今、近づいてまたあっちの世界に行ってしまったとして……また私はこちらに戻ってくることができるだろうか。それが不安になって、動きが止まってしまう。


 確かにジオさんたちは優しいし、居心地もよかった。だけど……お父さんとお母さんがいない。いつか一人暮らしとかしてお父さんたちとなかなか会えなくなるかもしれない。でもそれは同じ世界で、違う世界じゃない。


 二度と会えないかもしれないのと、会いに行けるのとでは違う。


「……」


 鉛のような物が胃を押し潰していく。気持ちが悪い。ぐるぐる思考が回る。


 答えは簡単なんだ。

 私が、どっちを捨てるかだけ。

 ただそれだけ。


「雪月」

「雪月ちゃん」


 お父さんが私の左手を、お母さんが私の右手をしっかりと握った。私は二人の顔を見て、ぐっと唇を噛み締める。


 なんとなく、二人の考えがわかったからだ。


「お母さんたちはこの手を絶対に離さないわ」

「だから鏡の前へ行って話そう。大丈夫だ。もしあちらの世界に行くなら意地でも一緒に行く」

「っ……うん。ありがとう」


 不安はまだある。だけどお父さんたちがここまで言ってくれてるんだ。


 私たちはゆっくり鏡に近づいて、私が鏡に向かって話しかけた瞬間ーー鏡が太陽のように輝いた。そして次の瞬間腰まで水に浸かった感覚とお父さんとお母さんの声、それからアメリアさんたちの声が聞こえた。

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