母と私。
母が死んだ。癌だった。
両親は物心がつく前に離婚をしており、私は父に引き取られた。離婚以来、私は母と会ったことがない。
父は母娘の時間を作ろうと10年以上動いてくれていたみたいだが、母が私と会う気がなかったようだ。
小さい頃は私も母と会ってみたい気持ちが強く、母に手紙を書いたりしていたものだが、中学に入るころには会ったこともない、あっちに会う気がない、ただ私を生んだだけの女にここまで頼む意味が分からなくなった。それ以降、私と母は血のつながりのあるだけの他人だった。
だから数年前に母が癌で、余命いくばくもないと聞いた時も、特に思うところもなかった。
父はせめて最期くらいは会ってみたらどうかとしつこく言っていたが、もう興味がないと突っぱねていた。そのころの私は死ぬ未来が確定している他人よりも就活のほうが大事だった。
葬式にもいく気はなかったが、線香あげるだけでいいから行ってやってくれという父の言葉に従っていくことになった。喪服代がバカにならず、私は初めて母に苛立ちを覚えた。
母の故郷に新幹線で行った。新幹線代も高かったが、好きな神社がある場所だったから我慢できた。
そこそこ大きな葬式会場には「松本家」と書かれていた。母の旧姓が松本であることをそこで知ったが、行きたい神社の場所を調べているうちに忘れてしまった。
葬式会場に着くと、私の祖母を名乗るおばさんが迎えてくれた。泣きながら「こんなに大きくなって」なんて言って泣いていたけど何で泣いているんだっていう疑問で頭がいっぱいだった。
父は祖母と積もる話があるようで私は一人放置された。やることもなかったので黙って席に着いた。
家族葬というやつで、数人の親せきを名乗る人間があいさつに来たけど、なんとも答えにくく、ただ困った。
坊さんが来てお経が始まった。しばらくして焼香が始まった。父が先に行って、私はそれの真似をすることに徹した。
席に戻ると隣に座っていた父が泣いていた。父も数年母と会えたことないはずなのに、どうしてこんなに泣けるんだろうって不思議だった。元伴侶って、そんなもんなのかな。
遺影を見ても、遺体と最後の顔合わせの時間も、初めて見る人の葬儀だから何とも言えなかった。
火葬場に行って遺体を燃やす間は暇でしょうがなかった。
一人でロビー近くの喫煙所にいたら、小さい男の子が話しかけてきた。葬儀前に顔合わせした、私の自称従弟だ。
「お姉ちゃん、何してるの?」
「タバコ吸ってるの。煙臭いでしょ、お母さんのところに戻りな。」
なるべく顔を合わせないようにそういったが、男の子は離れる気がないらしい。仕方なくタバコの火を消して話に付き合うことにした。
「幸子おばさん、死んじゃったんだよね。」
一瞬誰のことかわからなかった。私の母は幸子という名前だったかな。
「幸子おばさん、優しかったのにね。」
「そうなんだ。」
つくづく興味のない話だ。ニコチンの摂取をあきらめてまで聞く話じゃなかった。
「いっつもね、僕のこと可愛い、可愛いって撫でてくれたの。」
男の子は大事な人形を自慢するような目をして話す。今、私はどんな顔をしているんだろう。自分の顔を触って確かめてみたが、何もわからなかった。
「忍者ごっこが上手だったの。いっつもね僕が服部なの。でね、幸子おばさんが望月なの。それでね…」
火葬が終わるまで私は自称従弟につかまったままだった。なぜだか、聞いてる時インターハイで負けたときを思い出した。もっとレシーブの練習していればバドミントン、もっと上手くなれたのかな。
最後の試合、得点は19-20。クロスのスマッシュを無理な姿勢で打った相手は確実に体勢が崩れていた。ネット前に落とすだけで勝てた試合なのに、私は…。
「お姉ちゃん!」
男の子の呼びかけで現実に戻された。
「骨拾うって!行こ!」
自称従弟は私の右手を両手で引っ張る。その時、なぜだか私は異様に嫌な気持ちになった。胸の奥を支えている柱をへし折られそうになった、そんな気持ちだ。
無意識に私の手は従弟の手を強く振り払っていた。気づいた時には従弟は大泣きし始めていた。これ以上自称親族に囲まれたくなかった私は、慌てて外の喫煙所に向かった。出口近くで後ろを振り向くと、自称祖母が自称従弟を慰めていた。その光景も私には気持ちの悪いものだった。
4本も吸わないうちに父が迎えに来た。父は一言、「終わったぞ」とだけ言って私を車に乗るよう顎で示した。
父の目線が私の手元で止まる。慌てて隠そうとしたが、もう遅かった。
父はタバコが嫌いだ。成人した後、一週間にわたる説得があってようやく一日三本までの喫煙が許可されたが、それ以上吸おうものなら強烈な嫌みが飛んでくる。
面倒くさいなあ。どうせ取り上げられるなら今のうちに吸ってしまおうとタバコを口に運ぶ。口内に広がるタバコの苦く、甘い煙。文句があるならどうぞ、という意思を込めて思いっきり煙を吐き出しながら父を睨みつける。
父はどこか呆けたようだった。新しいいやがらせかと思い、「何。私がタバコ吸うところ初めて見るわけでもないよね」って言っても、どこか上の空だった。
自称従弟の件で虫の居所が悪かった私は、父の肩にぶつかってから車に移動した。それでも父は呆けたままだった。
車の助手席に座った私はバッグの中身を整理していた。もう帰るだけ、こんなところから一刻も早く帰っていつもの日常に戻りたかった。車の外に目を向けると、火葬場から出てくる黒い群れ。中には私の親族もいるのかもしれないが、もう関わることもないと思うと、私の視線は自然とバッグの中に移っていった。財布、スマホ、鍵、と持ち物確認していたときに、一つ忘れ物をしていることに気付いた。
取りに戻るのか…と額に手を当てて誰に向けたわけでもないうんざりアピールをした。すると助手席の窓が叩かれた。
びっくりして窓に視線を向けると、父が手をひらひらさせながら立っていた。手には私のタバコとライター。父は少し疲れたような笑みを浮かべた後運転席に回り、私に忘れものを手渡した。
「ありがと。」
恥ずかしくて前を向きながら言ったお礼だったが、父には届いたようだった。
「いいよ。これから寄るところもあるから、もう一本くらいならタバコ吸っていいぞ。」
動き出した車に合わせるように助手席の窓も開いていく。私はタバコに火をつけて、文字通りこの話を煙に巻いた。
車は火葬場を離れ、近くの駅に向かって行く。火葬場のそばは畑や空き地が多かったが、駅のそばはさすがに多少の活気を見せていた。
父の寄り道はこの辺なのかな、とぼーっと窓を眺めていた。サイドミラーに映る車が火葬場を出て以降変わっていないことに気付いたのは、それから五分もしないうちだった。
白い家族用の大きな車。ナンバーはここら辺のもので、そこそこ古い車であることは車に疎い私でもわかるほどだった。
父は気づいているのかと横顔を覗くと、スマホのマップアプリとにらめっこ中。気づいてはいなさそうだ。父の危機察知能力にため息をつきながらも、偶然だと片づけることにした。事実、しばらくスマホをいじった後に再びサイドミラーを見ると後ろの車は消えていた。
数分後、父の「着いたぞ」という言葉で、私はスマホをバッグに突っ込みながらあたりを見渡した。
時間はもう夕飯時であたりは暗くなっていた。やけに暗く感じるのは、ここが住宅街であることも関係あるだろう。
「どこ、ここ。」「家。」
お互い最低限の言葉しか使わないため、周りにコミュニケーション取れてるのか心配されることがあるが、私はとれていると思っている。現に今の会話で、父は私に詳しいことを話す気がないことが分かった。
「バッグとか持って行った方がいい?」
確認すると、「そこそこお邪魔する予定だからな。一応荷物は持ってきてくれ。」と言われた。
駐車場から歩いて20歩ほどで目的の家に着いた。昔ながらの日本家屋といった家だった。周りには最近の洋風の家が並んでいるだけあって、少し浮いている雰囲気があった。やけに大きな家なのに、敷地が狭いのも違和感を覚えた。
インターフォンを鳴らす。家のものが出てくるまでに少し観察していると、庭の横に車が置いてあるのに気づいた。白い、家庭用の年季の入った車。これって…。
思案にふける間もなく扉が開いた。着替えてはいるものの、式で出会った自称祖母だった。
「いらっしゃい。ゆっくりしていってよ。」
「大変な中お邪魔することになってすみません。」
父が軽く頭を下げながら入っていく。こちらを見ようともしないのは私の怒りに気付いているからだろう。居間に通されて、ちゃぶ台を前に二人になったところで思いっきり背中をつねった。
「聞いてない。」思いっきり目に力を込め、あらゆる思いを込めて言葉にした。
「言ってない。」何もなかったようにあっけらかんと答える父。痛そうに背中をさすっているのを見て少しスカッとしたが。
自称祖母の家なのか、確認を取ろうとしたが、本人の家らしき場所で「自称祖母」なんて言えず、言葉を探っているうちに自称祖母がやってきた。
「あら、二人ともいつまで立ってるの。座って座って。」
ちゃぶ台をはさんでしばらく話が続いた。祖母が父に今までの感謝を告げ、父は謙遜する。そのやり取りだけで小一時間話し込めてるのが不気味に見えた。私はずっと畳を眺めていた。
気付けば20時を超えていた。私は帰りたくてしょうがなかったが、二人から話を終わらせようという気配がない。ならせめて一人になる時間が欲しいと思い、トイレの場所を聞いた。
廊下に出て二つ目の角を左。トイレに行くまでに角が二つもあるのかと思いながら角を曲がると、突き当りにふすまが見えた。
手前にドアがトイレなのはわかっていたが、一人になれれば何でもいいという気持ちと、ふすまの隙間から漏れる明かりがやけにまぶしく見えて、気づけばふすまを開けていた。
ふすまを開けると、タバコの香りが鼻をくすぐった。今さっきまで誰かが吸っていたかのような濃密な香り。思わず灰皿を探してしまったほどだった。
灰皿を探して部屋を見まわして気付いたのだが、部屋に物があまりにも少なかった。机と本棚があるだけで、ほかには何もない。押入れを覗いてみたが、押入れの中には数個の段ボールがあるだけだった。
することもなくなった私は本の背表紙を指でなぞり始めた。太宰、漱石、芥川。私も好きな文豪の本が揃っていた。この部屋の持ち主とは仲良くなれそうだなと思いながら、一番好きな本、漱石のこころを手に取った。
日焼けとヤニがついた本はだいぶ状態が悪かったが、相当昔に買ったようで年季と思い入れを感じた。
適当なページを開くと、そこには付箋がついていた。
ほかにも付箋の張ってあるページがあるのかとパラパラ探してみる。パラパラとめくられていく本からは懐かしい匂いが香ってきた。何の匂いなのかは私にはわからなかった。
そうしているうちに最後のページまで行ってしまった。結局付箋の張ってあったページはあそこだけだった。何の意味があってあんなところに付箋があったのか、と考えながら本を戻す。
その時、本のカバー裏から紙切れが一枚落ちた。面倒に思いながらもそのままにするわけにはいかず、私はその紙切れをもとに戻すことにした。
拾って分かったのだが、その紙切れは写真だった。昔のデジカメで撮ったであろうその写真には、右下に撮った日付が入っていた。
1995/12/20
写真を見てとても驚いた。今の私にそっくりの女性が赤ん坊を抱っこひもで抱いて笑っている写真だった。
場所はおそらくここの近くの駅。おそらく安物と思われるジャンパーを着た女性は、寒さに身をよじら得ながらも赤ん坊にブランケットを巻き付けていた。笑みはカメラに向けてではなく、赤ん坊に向けている。
私はそれを見たときに、寂しさと羨ましさ、嫉妬、悲しみが入り混じった不思議な気持ちになって、とにかく父に会いたくなった。
「おんや、それどこにあった。」
突然後ろから声が降ってきた。しゃがれた上に覇気のないその声は年配の男性の声であることはすぐわかり、また、それが自分の祖父なのだろうことも容易に想像できた。
振り返って、まず私は謝罪をした。勝手に部屋に入ったこと、本棚を漁ったこと、写真を見たこと。
祖父は気にすることないとにこやかに笑いながら、「その写真懐かしいな。どこにあったんだい。」ともう一度聞いてきた。
「漱石の本の中に挟まっていたみたい。」
本棚を指で囲いながら答えると、祖父はすごく満足そうにうなずいた。
「そうか、そうか。幸子は本が好きだったからなあ。この調子で本を調べていたら、へそくりとかも出てくるかもしれないな。」
「え、ここ、お母さ、んの部屋なんですか?」
会った記憶もない女性を母と呼ぶことに抵抗を覚え、突っかかりながら聞いた。祖父はゆっくりと目を見開き、驚いたと言った表情を作った。あまりにもゆっくりで、私はそれがなんだか嘘くさく見えた。
「なんだ。知らなかったのかい。じゃあ、その写真も今初めて見たのかい。」
黙って首肯すると、祖父は大きくため息をつきながら私の目の前に腰を下ろした。
私の目をまっすぐに見ながら、祖父はこんな質問をしてきた。
「お前さん、母さんをどう思っている。」
父のようなことを聞くなあと、うんざり気味に「どうも思ってないよ」と答えると、祖父は「面倒くさがらずに、真剣に頼む」と食い下がってきた。
面倒くさがっているとかではなく、母との思い出は何もなく、名前も葬式で初めて知ったくらいの薄い関係に思うことは何もない。私は本気でそう思っていた。なので、このことをストレートに祖父に伝えた。
祖父はもう一度ため息をつくと、「少し長い話になる」と言って話し始めた。
母と父は付き合って一年も経たずに結婚をしたそうだ。理由は私を妊娠したから。いわゆるデキ婚だったらしい。父の両親も、今私の目の前にいる祖父も、結婚には大反対したらしい。当時、母は二十歳を迎えたばかり、父も大学を卒業してすぐだったため、年齢的にも、経済的にも苦しくなるのは目に見えていた。
そんな反対を押し切って二人は結婚をした。母も父も、授かった命を大切にしたいと、ほぼかけおちのようなことをしたらしい。
私が一歳になったころ、二人は再びそれぞれの祖父母の前に私を連れてやってきた。孫の顔を見て、それでもまだ難癖付けるようなら絶縁するつもりでやってきたそうだ。
母方の祖父母、つまり目の前にいる松本夫妻は私を見て結婚への反対の気持ちや、駆け落ち同然の結婚の不満がすぐに飛んでいったそうだ。
父の仕事もうまくいき、経済的に問題がないことがわかったことも大きかった。写真はその時に撮ったそうだ。
私は次の言葉を待った。祖父も何かを言いたそうにしていたように思う。奇妙な沈黙だった。お互い言いたいこと、聞きたいことがあるのに、部屋の中は静寂に包まれていた。
その静寂を破ったのは部屋のドアが開く音だった。私たち2人は驚いて振り返る。なぜだか私は、母との写真を咄嗟にポケットの中に隠した。
ドアを開けたのは葬式の式場で出会った男の子だった。たしか、従兄弟だったかな。
「おじいちゃん、おじちゃんたち帰るって。お姉ちゃん呼んできてって言われたよ。バイバイの時間だね。」
自称従兄弟が私の祖父をおじいちゃんと呼ぶことに無性に腹が立った。腹が立った自分に驚きを隠せなかった。私はとにかくこの場からいなくなりたくて、祖父が何か言いかけたのを無視して玄関に向かった。
父が玄関で祖母と名残惜しそうに話をしている。私はその間をかき分けて車に向かった。「先に車に戻ってる。」その一言を言っただけなのに、なぜだか胸が張り裂けそうだった。
車の助手席に座った私は、小学生の頃の作文を思い出していた。先生から出されたお題は「お母さんとの思い出」。先生も友達も、私が片親だったことを知らず、私も特に教えてもいなかった。当時の私はみんなを驚かせようと、この場で自分に母親がいないことを公表しようと思った。
作文発表の際、私は第一声にこう言った。私は母の顔を知りません。母もおそらく私のことを知らないし、知ろうとも思っていないと思います。
みんな驚きの声を上げると思っていたが、帰ってきた反応は静まり返り、可哀想なものを見る目だった。
先生は何かフォローの一言を言っていた気がするが覚えていない。私が覚えているのは席に戻った時の友達の言葉だ。
「大丈夫、お母さんに愛されていなくても私は味方だから。」
父が車のドアを開ける音がした。私は咄嗟に外を見た。父は何も言わずに車を動かす。サイドミラー越しに、実家が離れていくのがわかる。
レンタカー屋まで一時間弱ある。私は何か言おうと、何か聞きたいと思った。必死に考えを巡らせていた。でもなにもまとまらなかった。そのうち自分の口から息が漏れていることに気づいた。しゃっくりかと思って息を止めるが、全く止まらない。
「ねえ、驚かせてよ。」
自分の言葉を聞いて初めて、私は泣いていることに気づいた。こう言う時は不思議なもので、一度気づくと止まらなくなる。そんなことを考えている間に涙は大粒の雫に変わり、声を抑えることもできなくなった。
父はしばらく黙っていたかと思うと、バッグから輪ゴムで止められたハガキの束を渡してきた。
涙を拭きながら受け取る。宛名は私、差出人は母だった。内容を見ようと目を凝らすが、涙が邪魔をして読めない。
「お前はちゃんと愛されてたよ。」
涙はいつまでも止まらず、手紙の中身は読めなかった。握りしめたハガキはほのかに暖かかった気がした。