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法を曲げる訳にはいかない

作者: 髙橋英昭

       法を曲げるわけにはいかない


 

 米蔵よねぞう爺さんがちょうどストーブにくべるための薪を割っているときに、小道から足音が聞こえてきた。米蔵は膝に若木の束を乗せたまま手を休めた。

 母親が何とか生きている間はずっと、米蔵がその面倒をみていた。母親が三年前に亡くなってからは、この家にはひとりとして女が足を踏み入れたことはない。室内の様子にはそれがありありと表れていた。

 妻はすでに五年前にがんで死亡し、ふたりの子供たちは各々北海道と川崎で独立している。

 家にあるものはどれも米蔵が自分の手で、自分のやり方で、こしらえたものばかりだった。

 椅子の座面は丸太を切っただけで、鋸の切り痕もなまなましく、ぎらついて、太く、丸みをおびている。長年にわたって目の粗いズボンの尻で汚されすりへらされてもなお、年輪ははっきり見えていた。

 これに米蔵は隆々とした瘤をもつトネリコの太い枝を差し、脚や背もたれにしていた。

 松のテーブルは店で買ったのだが、何といっても母親から受け継いだものだから、触れるとぐらつくようになってしまった今も、米蔵にしてみると大切な宝物だった。

 壁には唐突に、額にも入れられずハエのしみのついた戸張孤雁(一八八二ー

一九二七)の版画が下がっていた。

 扉の脇には競馬の絵をあしらったカレンダー。扉の上に掛かっている猟銃は古いがものは良く、ちゃんと手入れもされていた。

 ストーブの横には年取った猟犬が寝そべり、米蔵が立ち上がるか、身動きするだけでも物欲しげに頭をあげる。

 犬はまさにこのとき、足音が近づいてくるのを聞いて頭をあげた。そして米蔵が若木の束を下に置き、ズボンの尻で用心深く手をぬぐうと、大きく吠えた。といってもこれは、自分がちゃんと番をしていることを示そうとしただけなのである。この犬はもう半分人間みたいなものだから、老いた自分にたいしたことはできないと人間が考えていることぐらい、わかっていたのだった。


           *


 半分開いた扉から太陽の光が差しこみ、長方形に埃が浮き上がって見えた。米蔵が振り向く前にそこに人の影が現れた。

「ひとりかい、米蔵さん?」すまなそうな声だった。

「ああ、どうぞ、どうぞ、巡査。入ってくれ」米蔵はそう言うと、ややおぼつかない足取りで扉のところまで行った。背の高い巡査が扉を押して入ってきた。

 岡田裕介巡査だ。半分は日だまりに、半分は影の中に立っている。こうして見ると、室内の暗さが際立った。彼の赤ら顔のちょうど半分に光があたり、その背後ではトネリコの木が空に向かって黄緑色の枝を広げていた。ところどころに赤茶色の岩が点在する牧草地の斜面が下へ続き、その向こうには視線の届く限り満々と水をたたえた海が、光を浴びてほとんど透明に輝きながら広がっていた。

 巡査の額は丸々として生気にあふれていた。

 台所の薄暗がりの中から現れた老人の顔は、大地、水、風、火といった自然の諸要素との奮闘の痕が深々と刻みこまれ、まるで岩の表面のように見えたかもしれない。

 老人はなぜ今ごろ岡田巡査がやってきたのかさっぱりわからなかった。彼の父親とは同じ町で育った幼ななじみでもあり、永年の友人だった。今はもういないが生きていたら、七十五歳を超えているだろう。


         *


「やあ、米蔵さん」岡田巡査が言った。「若返ったみたいだな」

「そう見えるだけだ。しかしもう年だ」老人は巡査の言ったことを褒め言葉として受け取りつつも、調子に乗るつもりはなかった。「調子は良いよ」

「そりゃいい。調子悪いなんて言ったって、米蔵さんをみれば、誰も信じやしないさ。その年寄り犬も相変わらず元気そうじゃないか」

 犬は低い唸り声を出し、まるで巡査が自分の年齢について失礼な言い方をしたことに腹をたてているようにも見えたが、実はこの犬は自分のことを何か言われると必ず唸り声をあげるのだった。人間が自分のことを話題にするときはろくなことを言わないと思い込んでいるようである。

「あんたはどうなんだい、巡査」

「まあ、他の連中と同じで、ぼちぼちってところだな。あちこちガタは来てるけど、どうにかこうにかやってるよ」

「奥さんはどうだい? 家族は?」

「おかげさんで元気だよ。みんな一月ほど留守にしてたんだ。仙台にいる女房の母親の家に遊びに行ってた」

「仙台だって?」

「東北の仙台だ。おかげでゆっくりできたよ」

 この岡田裕介巡査は四十七歳。妻と三人の子供がいる。吉田米蔵とは、父が存命のときの知合いで、幼ななじみ。結構付合いがあったようすだ。仕事がら今日の訪問とはなったが、実はあまり気が進まず、他の巡査に変わってもらおうとしたが、上手くゆかず、やむなく出かけてきた。しかし父親の友人である。決して粗略な扱いができる相手ではなかった。


             *



 米蔵はあたりを見回してから寝室に行き、古いシャツを取ってきた。それでストーブの前にあった椅子の座面と背もたれを丁寧にぬぐった。

「座ってくれ、巡査。ここまで来るだけでくたびれただろう。あの道は随分あるから。どうやって来たんだい」

「なに、署の同僚に乗せてもらった。米蔵さん、いいから、どうぞ構わないでくれよ。すぐ帰るから。一時間で戻ると言ってあるんだ」

「そんなに急がなくてもいいだろう」米蔵が言った。「やっと火をおこそうっていうのに、もう帰り支度かい」

「あれ、お茶をいれてくれてるのか」

「いれるって別にあんたのためじゃない。自分で飲みたいんだ。もちろんあんたにも付き合ってもらうつもりだがな」

「なあ、米蔵さん、ゆっくりしたいけどさ。ついさっき署で休んだばかりなんだ」

「まあまあ、いいじゃないか。うまいものがあるんだよ」

 米蔵がずっしりしたやかんを火の上にかけると、犬がちんちんをして耳をふりながら好奇心を露わにした。

 警官は上着のボタンを外すと肩からのベルトをゆるめ、胸ポケットからタバコを取り出した。そしてゆったりと座って足を組むと、タバコをくゆらしはじめた。

 米蔵は食器棚のところへ行き、きれいな模様のついた紅茶カップをふたつ取り出した。彼の持っているカップはこれで全部。欠けていて取っ手もなかったけれど、ほんとうに特別なときしか使わない。

 米蔵は実は、お茶は椀から飲む方が好きだった。カップを見ると、しばらく使ってなかったせいで、埃がたまっていた。またシャツの出番だった。悠々と袖をまくりあげ、それでカップをぴかぴかに磨き上げた。

 それから彼は身をかがめて食器棚をあける。中には五合ほどの色の薄い液体があった。大事にとっていたのが一目瞭然だった。米蔵はコルクを開け、匂いをかいでみた。しばしそこで考えにふけり、まるで以前にどこでその独特の芳醇な香りを嗅いだかを思い出そうとするかのようである。それから納得した様子で、立ち上がり、惜しみなく中味を注いだ。

 米蔵は考えた。巡査が来た目的は、やはりあのことに違いない。それにしてはえらく丁寧だな。やはり父親と俺が幼ななじみの友人だったということをこの男も考えてくれているのだろうか。


              *


「飲んでみな」米蔵はどうだと言わんばかりだった。

 合法でない酒を飲むことが気にかかっていたとしても、巡査はそんな素振りはつゆほどもみせず、茶碗の中をじっと見つめ、匂いを嗅ぎ、米蔵の方に顔をあげた。

「良さそうだな」と言う。

「そのはずだ」米蔵はいちいち謙遜したりせずに言った。

「いい味だ」と巡査。

「ま、それほどでもないさ」あまり自画自賛になるのも何だ、という口調だった。「たいしたことはないさ」

「あんたなら本物の味がわかるものな」巡査が皮肉などこめずに言った。

「今みたいになってからは・・・・・・・」米蔵は客人の所属している組織が強行している法律がおかしい、とあからさまに文句を言うのは避けたつもりだった。「酒の味が変わった」

「そうらしいな」巡査が思いにふけるように言った。「詳しい人が言ってたが、前とはぜんぜん違うって」

「酒はな・・・・・・」老人が言う。「時間がかかるものなんだ。横着していいものができた試しはない」

「まさに熟練の技術だな」

「そうだ」

「熟練の技術には時間がかかる」

「それから知識だ」米蔵が力をこめた。「どんな技にも秘訣がある。酒造りの秘訣は昔の歌が忘れ去られたのと同じように失われている。俺が子供の頃はここじゃ二十やそこらの歌をそらんじてるのが当たり前だった。ところがみんなあっちこっちに移動して、歌も忘れられていった・・・・・・こんなふうになったからはな」抑えた口調で続けた。「みんなあちこち駆けずり回ってるから、昔ながらの秘訣がどんどんなくなる」

「すごい秘訣があったんだろうな」

「もちろん。だいたい今の酒造りの誰が米からどぶろくを造る方法を知ってるか?」

「米から作っていたのか?」巡査が聞いた。

「そうだ」

「飲んだことあるのか?」

「ない。でも、俺の知合いの年寄りで飲んだことのある人はいた。今の日本酒とは比べものにならない味だったそうだよ」

「へえ。法律で酒造りにとやかく口出しするなんて、とんでもない間違いじゃないかと俺も思うことがあるよ」

 米蔵は首を振った。目で巡査の言ったことに応えたが、自宅に招き入れた客人の仕事を公然と口に出して批判するような真似をするつもりはなかった。

「まあ、どうかな」口を濁した。

「そうだよ。だって金がない連中には酒しかないんだから」

「まあ、法律を作る側にはそれなりのわけがあるんだろ」

「でもさ、米蔵さん、それにしてもあの法律はきつすぎる」

 巡査の方も、なるべく相手を立てようとしていた。老人がそうやって自分の上司と自分たちのおかしなやり方を弁護しようとするのをそのまま受け入れるほど、巡査は図々しくはなかった。

「とにかく秘訣が失われるのが残念なんだ」米蔵は話題にけりをつけようとしていた。

「死ぬ人間がいれば、生まれる人間もいる。誰かが干拓しているかと思えば、誰かが耕している。だけどいったん失われた秘訣はもうそれきりだ」

「そのとおり」巡査は悲しそうに言った。「それきりだ」


             *


 米蔵が自分のカップを取り上げ、扉の脇のバケツに貯めてあったきれいな水ですすぐとシャツでぬぐい、そっと巡査の肘のところに置いた。それから食器戸棚から水差しに入った牛乳と砂糖の入った青い袋を取り出す。さらに田舎風のバター。客が来ることがわかっていたことを思わせる、手回しの良さだった。丸い手作りパンは焼き立てで、切れ目も入っていない。ヤカンが音をたてはじめ、湯が噴きこぼれた。犬が耳を振りたてながら、ヤカンに向かって吠えたてた。

「あっち行け、こいつ」米蔵が声をあげて犬を蹴飛ばした。

 紅茶が入り、米蔵が二つのカップに注いだ。

 巡査は自分でパンを切り、分厚くバターを塗った。

「薬みたいなもんさ」老人がさっきの話題を蒸し返した。年寄りならではの、泰然自若とした感じがあった。「秘訣はみんな失われた。今じゃ、医者だって、昔の秘訣を知ってる賢者だって、同じようなものだなんて言う奴はいやしない」

「どういうことだ?」巡査は口いっぱいにパンを頬張っていた。

「昔だったら、医者と賢者のどちらをみんなが頼りにしているかで、秘訣がどれだけ大事にされてるかわかったものさ」

「誰も医者のところには行かなかったっていうんだろう?」

「そのとおり。どうしてだかわかるか?」老人は外の世界をすべて見渡すようにしながら言った。「すぐそこの丘にはどんな病気だって治す薬があるんだ。そう書いてある」親指でテーブルを叩いた。「詩人がそう書いたんだ。「病気があるところに、治療法あり」とな。でもみんな丘を登ったり降りたりしても、目に入っているのは花だけだ。花だぞ! まるで神さまがさ、-------神に栄光あれだよ、ほんとに-------変わり映えのしない花を咲かせるしか能がなかったみたいだよ」

「医者に治せないものを、賢者が治すんだ」巡査が相づちを打った。

「まったく、俺にはわかるんだ」米蔵が苦々しそうに言った。「俺にはわかる。頭でわかるんじゃない、この骨身に沁みてわかってるんだ」

「ところでまだリューマチが痛むのか?」巡査は驚いた様子で質問した。

「ああ。岡田のじいさん、谷間の吉岡のばあさん、あの人たちが生きてたらなあ。そうしたら、山とか海からの風がつらいなんてこともなかっただろうに。あの変な色に塗りたくられた藪医者の診療所に、縁起の悪い診察券を持ってへこへこお参りするなんてこともなかっただろうに」

「ならさ」巡査は言った。「薬をもらってきてやるよ」

「薬なんかじゃ、治りゃしない」

「そんなことない。やってみなきゃわからないだろ。うちの叔父さんだって、あんまりひどくて、大工にのこぎりで両脚を切り落としてほしいなんて叫んでたけど、良くなったんだ」

「治るんなら一万円でも払うさ」米蔵が大げさな言い方をした。「十万円でもいい」

 巡査はこのように米蔵老人のリューマチに効くという薬をもらってくるとは言ったが、自分が今日来た目的のことを考えると、少し軽はずみな発言をしてしまったかなとも反省した。


           *


 巡査は紅茶の残りを一息に飲み干すと、ごちそうさま、と言ってマッチを擦った。が、老人の問いかけに答えつつ、そのマッチの火が燃え尽きるにまかせている。二本目、三本目とマッチを擦ったがやはり同じように燃やしてしまう。まるでそうやって先延ばしにすることで、タバコを楽しむ気持ちを盛り上げようとしているかのようだった。ようやくタバコに火が点されると、ふたりは椅子を引き寄せてストーブの前につま先をならべ、深い煙の中で、語ったかと思うと沈黙にひたったりしつつ、タバコを味わった。

「あ、すっかりお邪魔してしまって」長居しすぎたことにはっと気づいたかのように巡査が言った。

「お邪魔なんてことはないさ」

「迷惑だったら言ってくれ。人の時間を無駄にすることだけはしたくないんだ」

「一晩中こうしていてくれても、何の問題もない」

「しゃべるのは楽しい」巡査が打ち明けるように言った。

 それからふたりはまた話に夢中になった。日差しは強くなり、色を帯び、台所の反対側へ移動してから陰りはじめ、やがて金色がかった光へと変わった。台所がひんやりとした灰色に沈んだ。食器棚のカップや鉢や皿には冷たい光があたっている。トネリコの木からツグミの鳴き声が聞こえてきた。


           *


 巡査が立っていとまを告げる頃には外もかなり暗くなっていた。彼は肩からのベルトを結び直し上着のボタンをかけると、注意深く服のパンくずを払った。帽子をかぶると、前後左右に少しよろめいた。

「いやいや、よくしゃべったな」巡査が言った。

「楽しかった」米蔵が言う。「ほんとに」

「薬は必ず持ってくるから」

「仏さまのお使いみたいで、たいへんだな」

「じゃあ、これで」

「ごきげんよう。気をつけて」

 米蔵は扉の外まで見送りに出ることはしなかった。いつものストーブの前の椅子に腰をおろし、ふたたびタバコを取り出して感慨深げに息を吸ってみた。そして前に乗り出してタバコの火をつけるための小枝を取ろうとしたところで、足音が戻ってくるのを聞いた。巡査だった。老人は扉の方に少し首を伸ばした。

 米蔵は当然このまま巡査がすっと帰るとは考えてはいなかった。「さあ来たか」という感じだった。


           *


「あのさ」巡査がやさしい口調で呼びかけてきた。

「何だい」米蔵はふりかえって答えたが、手は依然として枝を取ろうとしている。彼からは巡査の顔は見えなかったが、声だけは聞こえる。

「例のあのちょっとばかりの罰金を払ってくれるつもりはないんだろうな、米蔵さん」

 しばしの沈黙が流れた。米蔵は火のついた枝を取り上げるとゆっくり立ち上がり、扉の方によろめきながら歩いていった。タバコはもうほとんど吸い尽くしており扉に身をもたせる。

 巡査は両手をポケットに突っ込み、小道の方に目をやっていたが、水平線もしっかり視野には入っている。

 米蔵は予想していたことが現実となったことに「来たな」と感じた。そして

感情をこめずに言った。「そのつもりはない」

「そうだと思った。きっと払わないだろうと思ったよ」

 長い沈黙だった。その間にツグミの声はより甲高く、より楽しげになっていった。すでに沈んだ太陽が下から、風の通り道よりも上に高く浮かんだ紫色の雲の層を照らしていた。

「そういうわけだから」巡査が言う。「俺もここに来たわけだ」

「そうじゃないかと思ってた。そうかなと思った、あんたがそこから出ていくときに」

「金が払えないっていうだけのことなら、何とかしてくれる人はいくらでもいる」

「そんなことはわかってる。金がないとかそういうことじゃない。それよりも、払ったことであいつにざまあみろと思われるのが嫌なんだ。あいつは俺を怒らせた」

 巡査はこのことについては何も言わなかった。ふたりともしばらく何も言わなかった。

 巡査は、ことここに到っては止むをえないだろう。幾ら父親の幼ななじみと言っても、法を曲げる訳にはいかない、と考えた。 

「逮捕状が出てる」巡査がついに言った。そんな杓子定規で愛想のない書類と自分とは何の関係もないと言わんばかりの口調だった。

「あ、そうか」米蔵は声をあげた。まるで当局の無神経さにびっくりしたかのように。

「だから都合がいいときでいいから」

「そういうことなら」提案を持ち出すように言った。「行くのは今でもいい」

「まさかこんな時間にか」巡査はとんでもないとばかりに手を振ってみせた。その言い方の通り、よせ、ということだった。

「明日でもいい」米蔵が言う。歩み寄りだった。

「本当にいいのか?」巡査が訊いた。声に緊迫感がこもっていた。

「実をいうとな」老人は語気を強めた。「一番いいのは、金曜の夜、夕飯の後だ。町にちょっと用事がある。ついでがある方がいいからな」

「金曜で何の支障もない」巡査はこの厄介な問題がほぼ片付いてほっとしたというように言った。「いずれにしても、待たせてやればいいんだ。都合のいいときに自分で出頭して、俺に言われたって言ってくれればいい」

「あんたに来てもらった方がいいんだけどな、巡査。もしそれで具合が悪いということがないなら。でないと、どうもやりにくそうな気がするんだよ」

「そんな風に考えることはないよ。同じ町出身の人間がいるから。看守をしてる。山岡吾郎っていうんだ。その男を呼び出してもらえばいい。あらかじめ彼には言っておくよ。俺の友達だってわかったら、きっと大事にしてくれる。友達の家にいるみたいな気分になるさ」

「それはいいな」米蔵は安心したように言った。「良く知った人間がいないとな」

「大丈夫、心配するな。じゃあな、米蔵さん、こんどこそさよならだ。急がなきゃ」

「待ってくれ。道まで送るから」


           *


 ふたりの男はならんで小道を歩いていった。米蔵はいい年をした自分がどうして同じく年取った人間の頭をかち割るなんてひどいことをしたか、そのせいでその男が病院行きになるほどのことになってしまったわけだが、そもそもその被害者の失礼な口振りが事の発端なのに、その怪我のために金を払ってやって相手をいい気にさせるなんてことをなぜしたくないか、といったことを説明した。

「な、巡査」米蔵は丘の上に建つもう一軒の小さな家に目をやりながら言った。

「あいつは今、あそこにいる。きっとあいつはぼんやりかすんでおぼつかない、にじんだような目で、頑張ってこちらを見ようとしているはずだ。これで俺が罰金を払ったら彼は大喜びだ。だけど俺はあいつをぎゃふんと言わせてやりたいんだ。牢屋の板の上にでも寝てやる。あいつのために少し苦しんでやるんだ、巡査。そうすればあいつも、それからあいつの子や孫も、みっともなくて顔も上げられないって目に遭わせてやれるだろ」

 その次の金曜日、米蔵は下着とタバコの用意を整えて出発した。途中、近所の人たちがさよならを言いながらついてきた。丘の頂上までくると彼は立ち止まり、ここでいい、と言った。日溜りの中に腰をおろしていた老人が慌てて家の中に戻り、まもなくその扉が静かに閉められた。

 皆と握手をしてしまうと、米蔵は、夕暮れの中を、ひとりで刑務所への道を歩きだした。



                            ( 了 )

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