推理紀行〜志摩の神珠〜
目賀見勝利の推理紀行『志摩の神珠』
〜推理小説「志摩の神珠」に寄せて〜
『うたがふな 潮の花も 浦の春 翁(芭蕉)』
という俳句は、松尾芭蕉が鳥羽二見が浦の情景を詠んだ句である。
多くの海辺の町で地元の句として取り扱われているが、元祖は二見が浦である。この句は其角の『いつを昔』に収録されているようである。その中ではこの句の前に『二見の図を拝み侍りて』との注釈がついているようである。
図とは「目の前の情景」を云っているのか、「絵画」を云っているのか不明である。
小説の巻末の句では
『うたがふな 潮の花は 浦の春 』
と、助詞の『も』が『は』となっている。著者の間違いに気が付いた芭蕉ファンの方も居られることでしょう。
しかし、この間違い文字を書いたのは私なりの推理がはたらいた結果であります。
私がこの句をはじめて見たのは、小説の取材旅行で二見が浦を訪れた時である。
この地の句碑に彫られた文面で読めない文字が一つあった。それがこの『も』の字である。『も』とは読めず、カタカナの『ハ』か『ル』に似ていたので、『は』かな?と思ったが、この文字だけがカタカナと云うのもおかしいなと思い、自宅に帰ってからインターネットで調べると、『も』であることが判った。
ちなみに、潮の花とは、波が岩場に打ち寄せて出来る白い泡玉のことである。
私の持論では「芭蕉の俳句には二つの意味、解釈が盛り込まれている」と云う観点がある。しかし、この句から二つの意味を読み取るのはどうしてもできなかった。そこで、句碑の文字は芭蕉自身が書いた文字をそのまま模写していると考えてみた。そうすると、『も』と読む場合と『は』と読む場合において、芭蕉が強調したいポイントが異なることに気がついた。
『潮の花も』とした場合、「浦の春を現わす事象は多くあるが、潮の花もその中の一つである」と云う意味になり、浦の春(お目出度い正月の意か?)が主題となる。
『潮の花は』と読むと「潮の花そのもの」にスポットライトが当たることになる。
と云うことで、無理やり二つの解釈にしてみましたが、読者は如何お考えになりますでしょうか?
ちなみに、この句は元禄二年の作であるが、元禄三年には
二見の図を拝み奉りて、『うたがふな 潮の花も 浦のまつ 翁』
と云う句を詠んだらしい。(出典は土芳編「蕉翁句集」)
句末の『まつ』は、水しぶきを表す『飛沫』と『松の木』の二つの意味がある。
『飛沫』は夫婦岩に衝突しては飛び散る荒波のイメージである。
『松の木』は目出度いことを表現しており、春(正月)の訪れを目出度い事として祝う門松と同じように、「潮の花も春の訪れを祝っているのです」と言っている。
芭蕉自身、元禄二年の句には満足がいかなかったのであろう。
ちなみに、土芳は伊賀の服部半蔵ならぬ、通称、服部半左衛門と云う伊賀藩の侍らしい。本名は服部保英とのこと。
さて、小説の中にも出てくるが、富士山と霧島山が夫婦岩で結ばれているのに気が付いたのは、二見が浦にあった別の句碑の御蔭である。
『初富士の 鳥居ともなる 夫婦岩 誓子』
と云う句をみた時、
「夫婦岩から東を見れば富士山であるが、西を見れば何が見えるのだろう?」と思ったのがきっかけであった。埼玉県の自宅に戻って地図を調べると、霧島山があることが判った。
「ははあ、これだな。霧島神宮の祭神である天孫ニニギ尊と富士山浅間大社の国津神コノハナノサクヤヒメ尊の婚姻を二見輿玉神社の祭神である猿田彦が仲人した訳だ。そして、末永い日本国の安泰(契)を願った猿田彦の思いが夫婦岩をつなぐ注連縄の意味か。」と考えたのがきっかけで、小説『志摩の神珠』の執筆がはじまった。
取材旅行に出かけるまでは、『志摩の神珠』は「稲穂の米粒」のこととして、剣術流派の影流を絡めながら事件展開をし、最後は陸前高田で大和太郎と犯人の対決がある想定でいたが、夫婦岩と龍宮社の霊視絵画の御蔭で?このような小説になってしまった。
図書館でいろいろな資料に出会ううちに、自然と推理展開が繋がり、何か見えないものに導かれるように物語が展開していった。
著者自身、最後の結末は意外であった。小説執筆も『インシャラー』であったのかもしれない。
二見が浦の「二見」の意味は、古代、倭姫が天照大御神の安住地を求めてこの地に来た時の帰り際に「振り返って、再び浦の情景を見た」の故事によるらしいが、私の解釈では、富士山と霧島山の二つの山を見る(想う)と云う意味から来ているのではないかと思っている。倭姫が振り返ったのは夫婦岩から東に望める富士山を見た後、西にある霧島山を想い振り返ったのではないだろうか?二見が浦から霧島山は実際には目に見えないが、地図を思い浮かべて、富士と反対側にある重要な山を示したい意図があったのではないだろうか。
2009年6月28日(日) 目賀見勝利 (記)